六翼の少年
一瞬、黒いナニカと目が合った。
『コロ…シテ』
そう聞こえた気がした。
そのとき、水がめの中から無数の黒い手が飛び出して、僕を掴もうとしてきた。
とっさに短剣を抜き切り付けたが、まるで存在しないかのように、剣は黒い手を貫通した。
「なっ…!」
右に体を逸らして避けようとするが、なんせ剣が当たると思って油断していたため、避けきることができなかった。
黒い手は僕の腕に巻き付いて、水がめの中に引き込もうとものすごい力で引っ張ってきた。
頭から水の中に落ち、どうしようかと周りを見渡すと、暗い水底から目のようなものがたくさん浮かび上がってきた。
『た…kて…』
さっき聞こえた声と同じ、幼い少年の声が耳に届く。
君は一体誰なんだ?
『くる…しい…の』
今度は幼い少女の声が聞こえた。
一体これは何なのか。
そう思ったそのとき、グイッと腰が引っ張られる感覚がして、急に苦しくなくなった。
「カイ、大丈夫か?」
声が聞こえた方をちらりと見ると、手に黒いナニカをもったコウが心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。
「…なにしたの?」
「え?なんかこの黒い手みたいなやつをやな、カイから引きはがそうとしたら勝手に燃えてん。」
なるほど、手のそれは『黒いナニカ』の残骸か…
「そんなことより、体は大丈夫なん?」
「うん。君のおかげでね。それで?これは一体どう説明してくれるのかな?」
「申し訳ございません。今までこのようなことは一度もなかったのですが…」
「…そう。ということは、明らかに僕が関係しているね。まあ知りたいことは分かったし、そろそろ屋敷に帰るとするよ。」
「あっ、お帰りになられる前に、少し見てもらいたいものがあるのですが…」
「見てほしいもの?」
「はい。ここに集落をつくったときからあったとされる鏡を見てほしいのです。我々には何の変哲もないただの鏡に見えるのですが、神との繋がりのある方には何か見えるらしくて…」
「分かった。案内して。」
「ありがとうございます。こちらです。」
神殿の礼拝室にある隠し扉の先には、地下へと繋がる階段があり、その下に鏡があった。
パッと見た感じだと僕にも普通の鏡に見える。
しばらく何も言わずにじっと鏡を見ていると、鏡の中にいたはずの僕が消えていた。
その代わりに、鏡の中には見知らぬ光景が映っていた。
真っ白な空間。
上下左右の感覚すら曖昧な、どこまでも白い世界。
その中心に、一人の少年が立っていた。
年齢は僕と同じぐらいだろうか。
雪のように白い髪に、透き通るような深紅の瞳。
そして――背中には、六枚の翼があった。
「……君は…」
思わずそう呟いた瞬間、少年の瞳がゆっくりとこちらを向いた。
ぞくり、と背筋が震える。
鏡越しに目が合っただけなのに、体の奥まで見透かされたような感覚がした。
『やっと見つけた。』
頭の中に直接声が響く。
その瞬間、周囲の空気が一変した。
アティナさんが息を呑む音が聞こえる。
「なんや…これは…」
コウも警戒するように剣へ手を伸ばした。
でも、不思議と敵意は感じない。
むしろ――
どこか懐かしい。
初めて会ったはずなのに。
『僕は冬を司る天使、フィオーラ。また会ったね。』
「……また会った?」
僕がそう言うと少年は少しだけ困ったように微笑んだ。
『そっか。夢でのこと、まだ思い出せていないんだね。』
そう言って、彼は鏡の向こうからこちらへ手を伸ばした。
ありえない。
鏡の中の存在のはずなのに、その指先は水面のように境界を揺らしながら現実側へと触れかけていた。
「カイ!離れろ!」
エレンの叫び声が響く。
けれど、僕の体は動かなかった。
いや、違う。
動かなかったんじゃない。
“動きたくなかった”。
触れてはいけないと分かっているのに、なぜか目を逸らせない。
『お願い。』
少年の声が、ひどく弱々しくなる。
『*#$&を……救って。』
その瞬間だった。
バキッ!!
鏡に大きな亀裂が走った。
白い空間がノイズのように歪む。
少年がハッと後ろを振り返った。
そこには、巨大な黒い影が立っていた。
人の形すら曖昧な、 “闇”。
見ているだけで吐き気がするほどの禍々しさ。
『見つかった。』
少年の顔から血の気が引く。
次の瞬間、黒い腕が少年の首を掴んだ。
『っ……!!』
「待って!!」
僕は反射的に鏡へ手を伸ばした。
けれど。
ドンッ!!!
凄まじい衝撃と共に、鏡全体が黒く染まる。
そして――
ガシャァァァン!!
鏡が粉々に砕け散った。
「……っ!」
破片が地面に飛び散る。
静寂。
誰も言葉を発しなかった。
ただ、砕けた鏡の中央。
そこに、赤い文字が浮かび上がっていた。
――『神々の箱庭は、もうじき壊れるだろう。』
そう、書かれていた。




