第十四章 呼ぶ声、まだ届かぬ声
「王太子殿下の視察が来るらしいわよ」
そんな噂が、王都の各地を駆け巡っていた。
星霞亭でも例に漏れず、女将が腰をさすりながら言った。
「今日の仕込み、ちょっと早めにしないとねぇ」
「私、買い出し行ってくるよ。お母さんは休んでて」
「気を付けるんだよ」
セランは明るく笑い、籠を抱えて表へ出た。
金色の髪に、朝の光がまぶしく降り注いでいた。
春の風に乗って、城下町の通りは人の波が広がっていた。
「わぁ、まだ朝なのに視察で通る通りはすごい人……でも、こっちはまだ大丈夫かな?」
そう呟きながら、セランは商店街の角を曲がった。
***
そのほんの数刻前――
王太子ウィリアルドの一行が、その通りを通過していた。
馬車の奥に座り、地図と書類を見つめていた彼の目に、彼女の姿は映らなかった。
「……殿下、次は南市場です」
「わかった、出よう」
馬車がゆっくりと進み、すれ違った風だけが、わずかに金の髪を揺らしていった。
***
「ただいま、お母さん!お父さん!すごい人通りだったよ」
息を切らして帰ってきたセランが荷物を降ろしながら話しかける。
「大丈夫だったか?」「大丈夫だったかい?」
ヴェルド夫婦は同時に話かける。
「ふふ……二人してどうしたの?そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
「そんなこと言っても、いつだって子供は心配なもんさね
腰が悪くなければ私がいくんだけどね」
「近所に買い出しにいくだけだってば!心配といえば、今日の材料、足りるかな……」
「……最悪、足りなくなったら今度は俺が行く」
「…お父さんは、料理作らなきゃでしょ!また私がいくから大丈夫だよ!」
星霞亭はいつも通り今日も賑やかだった。
***
二日間にわたる王都視察は、滞りなく順調に進んだ。
「市民の声は、予想以上に前向きでしたね」
「君たちのおかげだよ、皆、ありがとう
ライナートも良くやってくれた」
少し離れたところに賑わいを見せる店が目に付く。
「随分と賑わっているな」
「……殿下、噂ですが。“星霞亭”という名の庶民向け食堂が人気を集めているようです」
「星霞亭……?」
その名に、ウィリアルドの心が微かに揺れた。
(少し懐かしい響きだ)
「どうやら、星霞草の群生地のセラン村の料理を提供しているとのことです
気になられますか?」
「……いや、興味はあるが、皆が賑わっているのを知れただけでいい
今は視察の続きをしよう」
軽く首を振った彼の横顔に、影が一筋、差していた。
***
王都の南通り――視察の最終地点にほど近いその場所では、
人々の噂と期待が交錯し、お昼を過ぎても賑わいを見せていた。
「お母さん、やっぱり夜の分足りないかも
買い足しに行ってこようか?」
「セラン、ありがとう
ただ今日は人通りが多いし、夜は食材が続く限りでいいさね」
「えっ、でもお父さんの料理楽しみしているお客さんが可哀そうだよ
大丈夫、人が多い路地は避けるから!」
「…うーん、じゃあ気を付けていくんだよ?」
「うん!いってきまーす」
セランは籠を抱え、風に乗るように街路へ駆け出していった。
朝と同じ路をみて
「わぁ、朝よりすごい人……見てないで早く買い物済ませないと!」
***
「ふぅ、ちょっと買いすぎちゃったかな」
セランは買い物を済ませて帰りの道を歩いていた。
ちょうど馬車が人通りの多い路地に止まっていた。
どうやら王太子が近く視察している最中のようだ。
「すごい立派な馬車だな…
いけない、早く帰らないとお母さんが心配しちゃう」
星霞亭に帰るために走り出す。
***
ウィリアルド一行は、王都南通りの視察を終えようとしていた。
通りには屋台が並び、活気に満ちた民の声が飛び交っている。
「市場の衛生状況も改善が見られますね。前回よりも清掃が徹底されています」
ライナートが横で控えめに報告する。
「そうだな。……民の努力あってこそだ」
ウィリアルドは静かに頷きながら、視線を遠くへ送った。
陽に照らされた街並みの向こう、人々の暮らしの熱気――
それは、自身が背負うべき“未来”の重さそのものだった。
「今回の視察、これにて終了でございます。
お疲れさまでした、殿下」
「ありがとう、ライナート
短い期間だったが、感慨深いものだな」
ウィリアルドは振り返り、今回の視察に同行した者たち、そして通りに集まる市民たちへ、凛とした声で言った。
「皆の協力に感謝する」
馬車の前で、視察を終えた街並みを見渡した。
――通りの反対側。
群衆の隙間を駆けるひとつの影が、彼の目に飛び込んできた。
金色の髪。
春の陽に反射して、まるで光の束のように揺れている。
「……っ」
喉が、何かを呟こうとした。
確信もなく、けれど祈るように。
その瞬間、ウィリアルドは足を踏み出していた。
ライナートが振り向き、声をかけようとするが、
王太子はもう、人混みへと駆け出していた。
「クラリス……!?」
彼の唇から、その名がこぼれ落ちた。
異変を察知したライナートが止めかけたが――
ウィリアルドは振り切るように前へ走った。
「待ってくれ、クラリス!!」
雑踏の中、誰もその声に気づかない。
それでも、彼は叫んだ。
「すまない、どいてくれ」
大衆は、王太子に話しかけようと囲む。
「クラリス!!クラリスッ!!」
けれど、少女は振り返らない。
買い出しの袋を胸に、彼女は急ぐ足で、星霞亭へと帰っていった。
そして風だけが、彼の声を連れて――静かに空へと昇っていった。
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