72・猫と騎士と海
72・猫と騎士と海
「白川兄? 弓持って出ていったから、帰ったんじゃない?」
「でも、先生も探していたから… 今日さ職員会議があるから、職員室かもね」
弓道場に行くと、弓道部のお友達が教えてくれました。
「冬龍? こっちには来てないよ」
剣道場に寄って、夏虎君に聞きました。
「冬龍? 職員会議が今終わったばかりだから… でも、始まる前も、みかけてないなぁ」
職員室に行くと、会議が終わったばかりだったから、梅吉兄さんと三鷹お兄ちゃんと、笠原先生にも聞きました。
「校内放送、しますよ?」
笠原先生の申し出では、ありがたかったのだけれど、学校に関係ないことだし、ミエルちゃんとプリムラ君も探してくれているから、遠慮しました。
だけど、もう何処を探せばいいのか、分からなくなっちゃった。
「どこにいっちゃったの?」
誰も居ない教室のドアを開けて室内を見渡しながら、ぼんやりと冬龍君の事を思います。
倉庫で私を助けてくれた後、冬龍君は風のようにジョウロを片桐先輩に渡して、風のようにどこかに行っちゃったそうです。私も片桐先輩にジョウロを渡して、探しに走ったんですけれど、弓道場から道具を持ち出したことしか分からないし。
『僕が和桜ちゃんを邪魔だと思うと思う?』
倉庫で、冬龍君に言われた言葉が頭に響きます。
『和桜ちゃんは今まで僕とずっと一緒にいたのに、僕の事、分かってくれていないんだ』
怒ったような、けれど、少し悲しそうな声。あんな冬龍君の声を聞いたのは・・・お母さんのお葬式の時だ。
『僕は、和桜ちゃんの側にずっといるよ。僕が、和桜ちゃんを守るから』
思えば、冬龍君は出会った頃から守ってくれていたよね。小さい頃は住んでいる場所が遠かったから、なかなか会えなかったけれど、遊べた日はずっと側にいてくれたよね。一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に怒られて… 小学校高学年で一緒に住むようになってからは、本当にずっと一緒。
「私、冬龍君に酷い事しちゃっていたのかな…」
気がつけば、夕方でした。窓ガラスから入って来る夕日が、教室をまんべんなく茜色に染めていきます。
「ナオちゃん、泣いているのかニャ?」
私の左手の指先を、プニプニの肉球がキュッと握ってくれました。そっと目元に右手を添えると、少し濡れています。
「ケット・シーちゃん、久しぶりだね」
「猫は気まぐれニャのよん」
黒に近い深緑色の長いお耳と長いシッポをピコピコさせながら、猫の妖精の『ケット・シー』ちゃんは私の手を握りなおして、二本足のまま教室の窓際まで歩きました。
「トウリュウ君と喧嘩でもしたのかニャ?」
「喧嘩じゃないと思うんだけれど… 多分、私が冬龍君に酷い事しちゃってたんだと思う」
夕日が優しく包んでくれている感じで、なんだかホッとして… なんでだろう? 涙が出てきちゃった。
「ナオちゃんは、優しい子だニャ。お友達を傷つけるようなことは、しないと思うニャよ。だから、トウリュウ君の我儘なんじゃニャイの?」
「我儘じゃないよ。でも、もし冬龍君の我儘だとしたら、私は嬉しいな」
私が手の甲で涙を拭って、近くの椅子に座ると、ケット・シーちゃんは人間の様に机の上にチョコンとお座りして、前足を器用に組みました。一緒に夕日に向かって。
「我儘言われるのが好きニャら、オイラがいくらでも行ってあげるニャ。我儘は猫のチャーミングポイントニャからね」
長いお髭をワシワシ動かしながら、ケット・シーちゃんはニャヒニャヒ笑います。
「我儘なのは、冬龍君じゃなくて私だと思うよ。冬龍君は出来ることが沢山あるから、私の希望は出来るだけ叶えてくれるんだもん」
「ナオちゃんの周りの人間は、芸達者な人が多いいニャね。ナオちゃんは、ニャニが出来るのかニャ? 周りにやってもらってばかりニャのかニャ?」
… 私が皆にしている事? 私が、皆に…
「私… ケット・シーちゃんが言うように、皆にしてもらってばかりかもしれない」
私、皆に甘えすぎていたのかもしれない。
「ナオちゃん、本当に何も出来ないのかニャ? オイラはこの愛らしさで、世界中に癒しを与えているニャよ」
美和さんや美世さんは働き者で家事が得意だし、桜雨お姉ちゃんはお料理に絵、桃華お姉ちゃんもお料理にお歌、修二伯父さんは剣道が強くて植物に詳しいし、勇一伯父さんは弓道が得意で珈琲を淹れるのが上手。夏虎君は剣道が強くてお勉強が凄く出来るし、冬龍君は弓が得意でお勉強も運動も出来て優しくて…
皆、私にとっても良くしてくれているのに、私は皆に何かできているのかな? 出来ていないから…
「冬龍君に嫌われちゃった」
『和桜ちゃんは今まで僕とずっと一緒にいたのに、僕の事、分かってくれていないんだ』
冬龍君に言われた言葉が、また聞こえて来て、さっきよりも酷く胸を刺します。チクチクズキズキ… 胸が痛くて、悲しくて、大きな涙がポロポロ出て来ました。
「ナオちゃん…」
心配してくれるケット・シーちゃんの声に「大丈夫」と返したいのだけれど、言葉の代わりに涙が出て来て返すことが出来ません。
悲しくて悲しくて、冬龍君に嫌われちゃった事が悲しくて…
「君は、涙より笑顔の方が似合っているよ」
不意に、後ろから両肩を優しく掴まれて、体がビクッと大きく震えました。聞いたことがない程に、地の底から響いて来るかのように低くい男の人の声と、両肩を掴む手の冷たさに驚いて、涙が止まったみたいです。
「誰?」
頭を後ろに向けると、癖のある長い黒髪が見えました。その髪を貫いて、弓の先が私の目の前に現れました。
「放れろ」
後ろから、冬龍君の声が聞こえました。その声は、押し殺しているけれど、とっても怒っているのが分かります。
「もう一度だけ言う。放れろ」
私にもわかるほど、冬龍君は殺気立っています。
「お姫様が心配なら、一人で泣かせるようなことはしてはいけないな」
冷たい手が私の両肩から放れました。そっと振り返ると、そこにはジャケット姿の、とっても大きな男の人が立っていました。180センチ弱の冬龍君がスッポリ隠れてしまう大きさです。癖のある長い黒髪と、大きくて厚い唇の下、フェイスラインを覆う豊かな黒いお髭が目に飛び込んできました。そして、それよりも目を引かれたのは、もうすぐ沈み切ろうとしている夕日を反射して、キラキラ輝いている濡れたようなお肌。それと、大きなアクアマリンに輝く瞳に、縦長の濃いブルーサファイアの瞳孔。
… この瞳、見たことがある。
「他人に言われなくても、十分反省している」
その人の影から、冬龍君が姿を現しました。男の人の髪に突っ込んだ弓先を中心に、冬龍君は円を描くように私の方に来ました。
「そう、無駄に殺気を放つものではないよ。
安心してくれ。今日は挨拶に来ただけだから」
その男の人は、大きくて厚い唇の端をニッと上げながら、弓先を突っ込まれた髪をかき上げました。
「きちんとしたご挨拶は、また後日」
大きな手が私の手を掴もうとして、冬龍君に容赦なく跳ねのけられました。
「怖い騎士だ。
ではお姫様、ご挨拶の日まで良い夢を」
大きなアクアマリンに輝く瞳に、縦長の濃いブルーサファイアの瞳孔が私を捕らえました。
海だ…
私は青く深い海の中にいるような感覚になって、意識はそのままその海に沈んでいきました。
なんて深くて青い海なんだろう…




