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遠くで荘厳な鐘の音が鳴り響き、この日の為に誂えたドレスの裾のレースがふわりと揺れる。
温かな唇が離れていく感覚にセシアが瞳を開くと、目に最初に飛び込んで来たのは燃えるような真っ赤な髪。すらりとした鼻梁、長い睫毛。
現れた翡翠が面白そうに細められる。
「キスの時は目を閉じるのがマナーでは?」
「……1秒前までは閉じていました」
屁理屈を言うと、それすらも愉快だとばかりにマーカスは笑う。
「……私の罪をあんな風に処理していたなんて、知りませんでした」
「勿論何もかも正攻法でやった訳ではない。違法な手段は使っていないが、権力は使ったからな」
マーカスは珍しく言葉を濁す。
「本来ならばセシアを婚約者とした時点でそのことを公表すべきだった。だが、やはり誰にも気づかれることがないのならばそのままにしておきたい、という……俺の狡さがあった」
睫毛を伏せる彼の、だらりと落ちた手をセシアは握る。
セシアの罪の所為で、彼にそんな気持ちを抱かせてしまったことを申し訳なく思った。
あの後。
セシアの言葉に従ったフェリクスとエイダがセリーヌを拘束し、彼女は男爵を貶めたとして司法の手に委ねられることになった。
セリーヌが堂々とディアーヌ子爵の罪を暴露した為に、彼女の父親も改めて罪を問われることとなり現在は親子共々刑が下るのを待つ身となった。セシアには細かい法律の知識がないので、どの程度の罰が与えられるのかは想像もつかないが、セシアの立場に忖度することなく公平で正しい裁決を下すように伝えた。
そうすることでセシアの過去は公になることになるが、それも今となっては当然のことだと思っている。セシアはもっと早く、自分の罪に向き合うべきだったのだ。
そうすれば、少なくともマーカスはレインと離れる必要はなかった筈である。
レインは、今回の騒ぎを先導したとして聴取を受けたが大きな罰は下らなかった。
しかし、自ら責任を取る形で経理監査部二課を退職し、王都郊外の河岸工事の人夫として肉体労働に従事する道を選んだ。
それが彼の責任の取り方であり、あれほど尊敬していたマーカスの元を離れることは彼にとってとても辛い選択だった筈だ。自らに課した罰であることは明らかだった。
マーカスとしても腹心とも呼ぶべき部下を失ったことは痛手だったようだが、何事もなかったかのように振る舞っている。
セシアとしてはレインにはいつかマーカスの元に戻って欲しいと考えているが、これは罪を償ったからといって簡単に整理出来る気持ちではないだろうから、どうなるのか分からない。
レインに代わり、キースが二課の課長代理になりロイやフェリクス達はどれほどレインに負担が集中していたのか痛感したのだと言う。
「お前、王子妃になっても暇だったらこっそり変装して戻ってこねぇ?」
書類仕事にうんざりしているフェリクスが言い、そんな彼の頭をエイダが殴るまでがお約束の流れとしてセシアにも馴染むようになった。
セシアが罪を隠していた件については、
「セシアさんが再度学園に入り直していた以上、学歴詐称とも言えませんし。僕はセシアさん自身を知っています、何も変わりませんよ」
とロイが言ってくれて、他の二課の面々も頷いてくれた。
黙っていたことで騙していたといたと思われたら、軽蔑されていたら、と不安だったがその言葉がセシアを救った。
因みにロザリーにはあの後ものすごく叱られた。
ああいうことが起こる可能性があるのならば先に言っておいて欲しかったし、その場合もっとフォロー出来たのに、と。
「結婚のお祝いの場なのに、あんなことになってごめんなさい」
セシアが謝ると、ロザリーは顔を顰めた。
「全くだわ!準備にどれほど時間がかかったと思っているの!あなたの結婚祝いの場では、わたくしに一番良い席を用意なさい!!友人として!」
「え……まだ、私の友達でいてくれるの?」
セシアが驚いて目を丸くすると、ロザリーはフン、と鼻を鳴らした。
「当たり前でしょう。今回のことは、わたくしの学生時代のツケが回って来たのだと思って不問にして差し上げるわ」
過去、セリーヌとして通っていたセシアを虐めていた件を言っているのだろう。それ以上に王子の婚約者になってからセシアが世話になっている自覚があったので、あの頃のことはそれこそセシアにとっては不問にするべきことだと思っていたのだが。
「……思えば、わたくしはあの頃からあなたのことが気にかかって仕方がなかったのね……これで貸し借りなしの対等な友人としてお付き合い出来るわ」
明るく笑い飛ばしたロザリーはとても魅力的だった。
ずっと罪の意識だけがあったセリーヌとして通った時間は、セシアにとって意味があったのだと思うと不思議な気持ちになった。
何せ、これほど素晴らしい友を得ることが、出来のだ。その点だけは、感謝したい。
様々なことに思いを馳せてつい意識を飛ばしていたセシアの額にキスをして、マーカスは笑った。
「おかえり?」
「……ただいま戻りました」
セシアは顔を赤くしつつ返事をする。この王子様の甘いキスにはまだまだ慣れることが出来ない。
「何考えてたんだ?」
「…………もっと、私が強く賢ければ、上手く出来たのに、と」
セシアの言葉にマーカスは瞳を瞬く。
彼女は常にその場で最善を尽くしてきた。自分の能力不足を嘆き反省することは大切なことだが、必要以上に落ち込む必要は無い程には有能だった。
マーカスの見出した、セシア・カトリンはとても優秀な執行官に成長していた。そして、美しい女性として今花開いている。
「何もかも思い通りにしようとするのは傲慢なのだそうだ」
「……そうかもしれません。上手くいかない時もあるとは思いますが、これからも自分の良心に従って正しい行いをしたいと思います」
セシアの言葉に、マーカスも頷く。
「俺もいる。一人では無理なことでも、二人なら出来る筈だ」
「でも殿下には、いつも助けてもらってばかりで……」
苦笑を浮かべてセシアがそう言うと、彼は首を横に振った。その動きに合わせて、燃えるような赤い髪がキラキラと陽光を弾く。
その様子を眩しそうに見つめていると、またキスをされた。チュッ、と可愛らしい音をてられて、セシアは引いていた朱が頬に戻る。
「セシアが困っている時は俺が助ける。だから、俺が困っている時はセシアが俺を助けてくれ」
「……必ず」
即答すると、マーカスは嬉しそうに笑った。
「だから、もう二度と王子を辞めるなんて言わないでください。私はあなたの在り方を損ねたくないんです」
「……俺の在り方は手段であって目的ではない。愛する者の為なら捨てる覚悟はいつでも出来てるぞ」
彼の言葉に、セシアは瞳を熱くした。
マーカスがずっと大切にしてきた王子としての矜恃。それを、セシアの為にいつでも平気で捨てようとしているのだ。
嬉しく思ってはいけない筈なのに、どうしても嬉しくて、そして同時に彼にそんなことをさせてはならない、と強く思う。
その点に関して、セシアはレインに賛成だ。王子はマーカスの天職。彼からそれを奪うことは国家の損失でもあり、マーカスの魂の在り方をも変えてしまうだろう。
「……よく分かりました。私が絶対にそんなことを、二度とさせません」
セシアは決意する。マーカスに守られてばかりの自分はもう終わりにする。これからは、彼のことを守ることの出来るパートナーになるのだ。
意気込むセシアに、マーカスは優しく目を細めた。
マーカスは、この国をよくしたい。王子に生まれたからには、自分を育んでくれたこの国に貢献したい。
その為の仲間をずっと求めていた。二課の仲間達はその為に集めたのだ。
自身の幸福を後回しにしたつもりは全くなかったが、それでも結果、自分のことは二の次にしてきてしまっていた。
だが、その先でマーカスはセシアに出会えた。
彼女は共に戦ってくれるし、彼女とならば共に幸せになれると信じている。
今後も、二人は二人である以上様々な問題が降りかかるだろう。けれど、セシアとならば共に困難に向き合って行けるだろう。
「……とはいえ、早速茨の道なんだろうな」
マーカスが言うと、セシアは強気に微笑んでみせた。
結婚に先立って、エメロード王室から正式にセシアの過去が発表された。
既に償いが済んでいることと王室がそれを承知している点から大きな騒ぎは起こっていないものの、当然賛否両論が飛び交っている。
国民からは平民出身で学園首席卒業という経歴のおかげでむしろ好意的に受け入れられているが、頭が固く古い国の重鎮達からは煙たがられている。
セシアは、それらの意見に対してこれからの成果で応えていくしかない、と考えていた。
二課で、マーカスに導かれて得たもので、これからも戦い続けて行くだけだ。
昼間の早い時間なので灯りの灯されていない室内に、外の煌々とした陽光が差し込んできた。
控室からバルコニーに続く床まである大きな窓が開け放たれると、その向こうから多くの国民が第二王子と新たな王子妃を歓迎している歓声が聞こえる。
祝いの花の香りと楽団のファンファーレが柔らかな風に乗って、手を握りあうセシアとマーカスの元に届く。
本日正式に名実ともにマーカスのパートナーとなったセシアは、彼の手を握ったまま大いなる一歩を踏み出した。
唇には勝気な笑み、瞳は爛と輝いて。
「あなたが共にいてくれるのならば、大丈夫です。私は、もう誰にも負けません」
そう、何せセシアの信条は、常に徹底抗戦なのだから!
永らくのお付き合い、ありがとうございました!!
読んでくださる皆様のおかげでここまで書けました。本当に、本当に、ありがとうございました!!
先日お伝えしました通り、皆様のおかげで書籍化という素晴らしい景色を見せていただけることになりました。そちらの方も頑張りますので、どうかよろしくお願いします!!