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その夜、セシアは夢も見ずにぐっすりと眠った。
リネンはさらりと乾いていて僅かに花の香がする。メイド達が丁寧にベッドメイクしてくれた誠実な仕事を感じながら、ゆったりと眠りに落ちていくのは心地よかった。
家族。その言葉がセシアの心を温め、驚く程落ち着かせてくれたのだ。
マーカスはいつも無条件に彼女のことを信じてくれて、セシアが自分で立ち上がれるように側で見ていてくれる。
以前メイヴィスに好ましいと思う男性は?と聞かせた時に答えた、まるでそのままの人のよう。
逆だろうか。
あの質問をされた時には既にマーカスに恋をしていて、無意識に彼のことを口にしていたのだろうか。
眠る前に恋人のことを考える、だなんてまるで恋物語の主人公のような状態にセシアは照れくさくなる。
「……頑張ろう」
マーカスの期待に応える為に。
セシアがセシアらしくいられるように。
王城で定期的に催される晩餐会。
セシアはオルコット公爵夫人の隣の席に配置された。公爵夫人は、セシアの祖母ほどの年齢であり彼女のことをサポートする専用の従僕が席の後ろに控えている。
緊張しつつも、セシアはロザリーやマリア、そしてアニタに教わったことを思い出していた。一番大切なのは、相手を思いやること。勿論大前提としてマナーも慣習もとても大切なことだ。
食事が始まり、給仕が飲み物や前菜の皿を運んでくる。
セシアは内心緊張しつつも、心地の良い高揚感を持って晩餐会に臨んでいた。
少し離れた席に座るマーカスは、そんな彼女の様子を見て僅かに微笑む。セシアは本番に強いタイプだし、いざという時の対応力や判断力は誰に劣るものでもない。
セシアの自信を削いで失敗したと思わせていたのは、他ならない彼女自身の怯える心だ。
いつだって彼女は十全に努力していて、出来ることを増やしてきた。そして決定的な場面で彼女を支えてきたのは自惚れでなければ、マーカスに信頼されているという自信だ。
そのことを思い出し、にこやかにオルコット公爵夫人と会話をしている今のセシアに怖れるものはないのだろう。
緊張し相手に失礼がないように努めているのが分かるので、夫人の方も微笑ましく彼女に接しているのが見える。
「殿下、婚約者殿がお可愛らしいのは分かりますが爺の相手もしてくださいますかな」
夫人の夫であるオルコット公爵に笑いながら声を掛けられて、マーカスは自分の方が疎かになっていたことに苦笑をした。
「分かっているなら、野暮ではありませんか公爵。俺は婚約したばかりなのです、同じ空間にいるのにこれほど遠くに配置されて寂しく思う気持ちは、かつてあなたも体験したことがある筈でしょう」
堂々と惚気て見せると、周囲の貴族達は朗らかに笑った。
今夜は寛いだ会であり、マーカスはいつもこういった席に率先して参加し皆の雑談に耳を貸すようにしている。国王である父や、外面を使い分けるのが苦手な兄王太子に代わり彼らの耳目になることはマーカスの得意とするところだ。
こういった集まりにも今後は夫婦で参加して、セシアに女性からも情報を集めてもらいたい、とマーカスは期待していた。
セシアに、愛しているから何も心配いらない、と言ったのは事実だ。
しかし王子妃になる資質のない女性であったのならば、結婚を申し込んではいなかっただろう。
マーカスは生まれた時から王子であり、その自分の生まれを誇りに思っている。もし彼に婚約者がいなかったとしても、セシアに王子妃の資質がなければきっと思いを告げることは出来なかった。
その場合、マーカスはセシアへの思いを抱いたまま国の選んだ誰かと結婚していた筈だ。実際に婚約者であるジュリエットと結婚しようとしていたように。
幸いにしてジュリエットの目論見は阻止することが出来、セシアは十分に王子妃としての素質を備えた素晴らしい女性だった。
だから、今があるのだ。そのことは、本当にマーカスにとって幸いだった。
対象が少ないのであまり認知されていないが、マーカスの愛情は相手の全てを許し相手に全て捧げるという強いものだ。
この性質故に、国王などといった為政者には自分が全く向いていない自覚があり、時折彼を王にしようとする思惑に対して笑って一蹴してしまう。ジュリエットは、全くマーカスに関しては相当見込み違いをしていたのだ。
マーカスは、万が一セシアが国を脅かす大罪を犯したとしても彼女を嫌いになんてなれない、と確信している。
不確定な未来のことを確定で話すことに説得力はないので、セシアにそれを告げることはしないがマーカスは絶対の自信があった。
当然、罪を犯したセシアをマーカスは王子として断罪するだろう。しかし、彼も一緒に罰を受ける覚悟だった。
国と民の為に全身全霊で働くことはマーカスの使命であり、生まれた時からの義務だ。
しかし、自分の命を使うなら今はセシアの為に使いたい。
国の為に生きて、セシアの為に死にたい。
そのように重苦しい気持ちで彼女を愛していることが知られてしまえば、あの自由な猫は呆れて何処かへ行ってしまうかもしれない。
セシアがいないと困るのはマーカスの方なのだ。
「さて殿下、今夜のワインはどこの産地か分かって飲んでおられますか?」
「さあ。卿のように産地には詳しくないので自信はないが、西地方の雰囲気があるかな」
味覚を促すように質問されて、マーカスは自分の役目に戻った。
「そう!西のナバカ地方のものです、あそこは近年土壌が肥えて来ていて……」
蘊蓄を聞くフリをしながら彼はもう一度、離れた席に座る婚約者を見遣る。彼女のことは、さほど心配ないだろう。
何せセシアはマーカスの見出した、優秀な執行官であり信頼する恋人なのだから。