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少しして、部屋を訪れたマーカスは誰もが認める完璧な王子様だった。
議会に参加した後なのだという略礼服や撫でつけた髪はセシアの馴染みの彼よりもややフォーマルで、メイドに持参した菓子を渡している姿はほんの少し距離を感じる。
出迎える為に立ち上がったセシアだったが、言葉を持たずにしばし固まってしまう。所在なくぽつねんと立つ彼女を見て、マーカスは笑った。
「やぁ、我が婚約者殿」
「御機嫌よう、未来の旦那様」
これはただの記号のようなもの。
セシアは彼に向かってカーテシーを行う。取り次ぎを経ていたものの、マーカスがすぐに部屋に来た為セシアは寛いだドレス姿のままだ。マーカスにとって見慣れた文官の制服とは違い、寛いだ格好だった。
所在なさげに揺れる手を取って、彼はセシアをバルコニーへと導く。
床まで続く大窓を開いてバルコニーへと出ると、マーカスは片眉を上げた。
「……この部屋はあまり景色が良くないな」
「そうですか?人目に付かなくて逃走が助かりそうですが」
セシアが答えると、彼は耐えかねたように笑う。
「もう落ちてくれるなよ」
「落下が趣味のように言わないでください、殿下」
ムッとして彼女が反論すると、マーカスが面白がるように彼女に詰め寄った。顔の距離が近い。
鼻同士がちょん、と触れ合った後にゆっくりと彼の唇がセシアの頬に落ちる。瞼を閉じるように促されて、そこにも一つ。
最後に触れるだけのキスが唇に降り、またゆっくりと離れて行った。
美しい翡翠の瞳に近距離で覗き込まれると、セシアはまだ慣れていなくて頬を赤らめる。
「今日は何してたんだ?」
「……午前中はマナーレッスンで、午後はガーデンパーティに出席していました」
王子妃としての教育は順調だ。セシアは人よりも長い時間を勉学に費やしていた為、教養として詰め込むべき文化や歴史・言語などの知識は十分に備えていた。そのおかげで淑女教育の方に時間を割くことが出来る。
「ああ、あれか……退屈だっただろう。無理して出なくてもいいんだぞ?母上なぞは滅多に出席しない」
マーカスは簡単なことのように笑う。
「ミュリエル妃ほどの方なら問題はないでしょうけれど、私はまだまだ新人ですから。皆さんに顔を覚えてもらうところからです」
セシアが困ったように笑うと、マーカスは眉を寄せた。
「頑張ってくれているのに、軽率なことを言ったな。悪い」
「いいえ。あなたの傍にいたくて選んだのは私ですから、大丈夫です」
「でも、どうか無理はしないでくれ。お前をこんな風に萎れさせる為に婚約者にしたわけじゃないんだ」
強がって微笑んでみせるセシアの頬を、マーカスは優しく撫でる。
「……やっぱり少し疲れているみたいだな」
「疲れてなんて」
マーカスはセシアを抱きしめて、こちらもゆっくりと頭を撫でた。
幼い頃に亡くなった両親以外に今まで誰にもそうされたことのない彼女は、最初こそ体を固くしたが温かく固い掌の感触に徐々に力を抜いていく。
「う……殿下の掌、魔法でも使ってるんですか?眠くなる……」
「それが疲れてる証拠だ。緊張して、体が興奮状態にあったんだろう」
ぽんぽんと紳士的に背中をあやされて、セシアは安心すると共に急激な睡魔に襲われる。
「ん-……いやいや、駄目です、何か用事があったんですよね?これ以上撫でられたら、絶対寝ちゃう……」
「寝ても構わんが……まぁ、今度の夜会についての打ち合わせを」
「それ絶対大事なやつ……」
半分マーカスに抱えられるようにしながらウトウトとしつつなんとか眠気に抗おうとする姿は、食事中に寝てしまう子供に似ている。可愛らしく思いながら、少し温かくなる魔法を掛けるとセシアは吸い込まれるように寝てしまった。
「本当に寝るとは……」
後でまた叱られる、と思いつつマーカスはセシアを横抱きにして室内に戻る。
ふかふかの長椅子にブランケットを用意して待っていたロザリーを見て、彼は目を細めた。
「男爵様は少し根を詰めすぎでしたので……」
「それを調節するのも侍女の務めなんじゃないか?」
少し笑って、マーカスは長椅子に恭しくセシアを横たえる。ブランケットをロザリーから受け取って、それをふんわりとセシアに掛けた。
「……今は、少し頑張り過ぎるぐらいでないと男爵様自身が不安なのでしょう。……彼女が今まで学んできた知識とは全く違う世界に飛び込んだのですもの」
「なるほど?」
マーカスはマリアとして、ロザリーが“セリーヌ”を虐めていたのを知っている。全く負けてはいなかったが、多数対一人で詰め寄っていたことは事実だ。
侍女としてのロザリーの評価が高かった為、公務で海外に留学している第一王女の側仕えの代わりに期間限定でセシアの元に付く、と決まった時少しだけ心配もしていた。
しかし今、姉のように先輩のようにセシアの世話を焼くロザリーを見ていて杞憂だったと言わざるを得ない。
一体ジュリエットの元で共に働いていた時に何があったのかマーカスには知りようもないが、いつの間にか友情のようなものが二人を繋いでいたのだ。
「……では、潰れてしまわないように様子を見ていてやってくれ」
「お任せください」
ロザリーが美しい所作で礼を取る。それを見て、マーカスは満足げに頷いた。




