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「母は娼婦で……とても美しい人だった。伯爵は夢中になり、エメロードに戻った後も母の面倒を見ることを約束したわ」
断片的に語られるアニタの思い出は、よくあるものだった。
「母が関係したエメロード人は伯爵だけだったから、生まれた私がいかにもエメロード人の特徴を持っていたこともあって父親を疑う必要はなかった……私が生まれてからも、伯爵は援助を続けてくれたし、仕事でグウィルトに来ることがあれば親子三人で穏やかに過ごしたわ。思えば、あれが唯一の幸福な思い出ね」
「伯爵は、正妻のことを気にして母のことを表立って扱うことが出来なかった。それでも私は仲の良い両親を見て、自分は幸福なのだと思い込んでいた……でも、流行り病で母が亡くなると、状況は一変したわ」
アニタの声が険しくなる。
「母が亡くなると孤児で混血の私は、汚れた血の子供だと言って迫害された。知ってる?グウィルトは男子相続・血統主義が根強く残っている国で、母が生きている頃は私にその被害がいかないように必死に母が守ってくれていたの」
「そんな……」
この国に生まれ育ったセシアには、想像もつかない世界だ。
エメロードでは近年爵位や家督を女性が継ぐことも珍しくはないし、血統主義は今や何の意味もないと証明されているのに拘る理由が分からない。それは、他国と交流の多いエメロードと、閉鎖的なグウィルトの大きな違い。
「父に助けを求めたけれど、時を同じくして父は病魔に侵されていて私達への援助は途絶えていたの」
アニタの話は続く。しかし課長室の外が騒がしくなってきているので何かあったのだ。セシアはこの話を打ち切るべきか、まだ判断がつかない。先が聞きたい、と思った。
「地獄のような日々。そんな時に私を拾ってくれたのがジュリエット様だった。ジュリエット様は、私が汚れているのは、私の所為ではないと言って下働きとして取り立ててくださったの」
そこでアニタはうっそりと笑った。今までの彼女とは明らかに違う笑み。何かに取りつかれたかのような、それ。
セシアには分かる。それはジュリエットの甘言だ。
地獄で聞いた所為で、アニタにはその声を神の声のように聞こえてしまっただけ。だってその言い方が正確ならば、ジュリエットはアニタが汚れていることは事実だとしているのだから。
生まれや育ちで人が汚れている、などとあるものか。
「あなたに分かる?その時の私がどれほど嬉しかったか」
だがその言葉に、セシアはハッとした。
「……分かるわ」
セシアは真っ直ぐにアニタを見つめていった。彼女の脳裏に浮かぶのは燃えるような赤、輝く翡翠。
「……きっと、誰よりも、分かるわ」
真摯なセシアの声に、アニタは黙って優しく微笑む。それはいつもアニタの笑顔で、セシアの尊敬していた彼女に見えた。
「……あなたがジュリエットを主人と仰ぐ理由は分かった。私だってマーカス様の為ならなんだってやる。あの人がそう望むなら、自分の何を渡してもいい。……でも、アニタさん、これは違うよ。これは、ダメなことだよ」
セシアの言葉は拙い。
アニタとジュリエットの日々に太刀打ち出来る材料なんて、セシアは持ち合わせていない。この事態にセシアが勝負出来る要因は、アニタの聡明さや、優しさや、愛情に訴えるしか術がないのだ。
かた、と僅かな音がして振り返ると、戸口にメイヴィスが立っている。二課の面々はそれぞれ忙しく動いていて、止めることが出来なかったのだ。
「メイ様」
「……殿下」
セシアとアニタに呼ばれて、メイヴィスは顔を上げる。潤んだ瞳は、まだ決壊していなかった。
「アニタ。わたくしの侍女長……あなたがわたくしの為と称して収集していた情報が、他国にこの国を害する為に渡っていたなんて悲しく思います」
ぎゅっ、とメイヴィスは拳を握る。アニタの目が僅かに細められた。
「……それでもわたくしが……っわたくしが、怖くて夜に眠れなかった時、ずっと背中を撫でてくれていたあなたが嘘だったとは、思えないの」
すっ、と息継ぎをすると、その動きでついに決壊してしまった涙が後から後から翡翠の瞳から零れ落ちる。喘ぐように唇が慄き、メイヴィスはアニタのことを一心に見つめた。
ほろほろと零れる涙は、彼女の為に流れる。
「そんなあなただから、ジュリエット様へのご恩とエメロードの間で苦しんだのではない?……わたくしがもっと早くそれに気付けていれば、あなたはこんなことにはならなかったのかもしれない……」
白い頬を涙が伝う。目元は赤くなり、悔しそうに彼女は唇を噛みしめた。
「ごめんなさい、アニタ。あなたを守ってあげられなくて、ごめんなさい」
セシアはその光景を見て、唇を噛む。
メイヴィスは素直過ぎる。かつて彼女は、自分が間違っていると判断した時にはきちんと謝るべきだと主張した。しかしこの状況は、決してメイヴィスが悪いというわけではない。誰もが彼女の正体に、苦悩に気付けなかったのだから。
だが、その言葉はアニタに届いたようだった。
見ると、静かにアニタの目からも涙が零れている。
ジュリエットに救われたグウィルトでの日々、それに対抗出来ることがあるとしたら確かにメイヴィスと過ごした日々だろう。
セシアの目から見ても、アニタがメイヴィスのことを大切にしていることは疑いようもなかった。だとしたらメイヴィスを誘拐し囮として使う計画を知らされた時、どんな思いをしたのだろう。
それが原因で、無事に助け出されてからも怯えて夜も眠れない彼女の横でずっと支え続けた時は、どう感じていただろう。
メイヴィスは、真実がアニタを救うと言った。
それは、こういう意味だったのだ。
「……ごめんなさい、姫様。……私、ずっとあなたを裏切っていました」
アニタの言葉に、メイヴィスは泣きながら首を横に振った。
「許さないわ。……あなたのことがまだ大好きなわたくしごと、絶対に許さない」
「はい。どうか……私を許さないでください」
それも確かに、一つの主従の絆なのだ。
「……セシア」
名を呼ばれて、セシアはアニタに視線を向ける。
「ジュリエット様は、港に停泊しているグウィルトの船よ。……恐らく、ロナルド殿下とマーカス殿下も、そこに」
「……マーカス殿下、も?」
セシアの背に冷たい汗が流れた。そこにちょうど課長室にフェリクスが飛び込んでくる。
「セシア!マーカス殿下と連絡が取れない!!」
「!……あの悪童っ」
チッ、と行儀悪く舌打ちしたセシアは、課長室をフェリクスに任せて飛び出す。レインとキースが何やら話合っている姿が見えて、叫んだ。
「レイン先輩!ジュリエットは港の船です!!」
「分かった。すぐに兵を向かわせる、セシア!独断専行するなよ」
釘を刺されて、彼女はすぐに頷く。
「しません。でも行かせてください!」
「だから……」
レインが怒鳴り返そうとすると、キースが笑って彼を止めた。ぽんぽんと彼の肩を叩いて諫める。
「まあまあレイン。どちらにしろ俺達も行くんだから、それが少し早くなるだけだろう」
彼の言葉に、セシアの瞳に力が入った。そんな彼らを見遣って、レインははぁ、と深い溜息をつく。
「……一人で走り出すよりは、成長したと思っておこう」
そこからの行動は早かった。
メイヴィスを部屋に送り届け、アニタを牢獄に送る。彼女はとても素直にそれに従い、その後は黙秘が嘘のように警備部の者の尋問にも淀みなく答えた。
二課の面々はその後、騎士や兵士を連れて港へと向かう。ここでもマーカスが議会の承認を得ていたことが利いて、スムーズに人員を借り受けることが出来た。
「では、殿下を迎えに行くぞ」
レインの号令に、セシア達は無言で頷いた。




