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 マーカスの絞り出すような声が耳に届き、途端彼女の瞳が潤む。その事実にセシア自身が驚き、狼狽えた。

 なんの衒いもなく、ただセシアの無事を噛みしめるように喜ぶ声。抱きしめる腕の強さに、どれほど切実に心配してくれたかが伝わる。


 彼女は、怖かったのだ。


 ジュリエットがセシアに濡れ衣を着せて騒いだ時、見慣れた筈の城の護衛兵達が皆敵に見えた。メイヴィスは信じられない、という表情をしていたが、セシアの方を信じていいのか迷っていたようだ。

 あの状況では当然のことだったとしても、単純に悲しく、怖かった。

 執行官として王城に仕えるようになってここまで、セシアは深く考えることなく当然だと思い自分の正義を信じて行動してきた。

 人が困っていたら助けるのは当然。嘘はつかない。正しい行いが、正しい結果を齎すのだと疑っていなかった。


 なのに、あの時、セシアは一人だった。


 森に落ちた時、すぐに城に戻って内通者の正体とジュリエットの企みを伝えなければ、と思った。でも、誰も信じてくれないかもしれない、と不安が過った。

 苦労して城に戻っても誰もセシアの言葉を信じてはくれず、すぐに牢屋に入れられてしまうのではないか、と怖くなったのだ。


 何ものにも屈しないつもりでここまで生きてきた。何故ならセシアは一人で、セシアを守るのはセシアしかいなかったからだ。

 だとしたら、誰も信じられない城に戻って、わざわざ内通者のことを告げる必要はあるのだろうか?


 いいや、セシアはもう一人じゃない、戻らないと。今は執行官としての信頼と責任がある。そう考える端から、でも誰も信じてくれなかったじゃないか、という声が付き纏った。

 不安は迷いを生み、恐怖を連れてきてセシアの心を弱くする。弱った心は、セシアに迷子のような寄る辺なさを植え付け、足元をあやふやにさせた。


 何の為に戦うのか、分からなくなっていった。


 なのにどうだろう。


 マーカスの腕の中は温かい。力強く抱きしめられると、触れたところからセシアの輪郭がハッキリとしてくるようだった。

 彼の腕の中にセシアは確かにいて、今までもこれからも自分でしっかりと立っているのだと教えてくれる。


 セシアのことを微塵も疑わず、信じてくれる人。一人でも平気なのに、セシアを心配してくれる人。


 思えばいつも、マーカスはセシアの道標みたいな人だった。

 セシアがピンチになると絶対に助けてくれるし、困難な状況になったらさりげなく解決方法を教えてくれた。王城に仕えるようになってからも、暮らしはどうか、仕事はどうか、無理はしていないかとマーカスが、マリアが、聞いてくれた。ちょっとお節介だな、と思った時もあったが、本当は心地よかった。

 そんな風にセシアを大切にしてくれた人は、今までいなかったから。


 そんな人は、他にいなかったから。



 そう思うと、もう止められなかった。



「……好きです」

 言葉と共に、セシアの瞳にまた涙が溢れた。


 マーカスは驚いて抱きしめていた彼女の体を離し、その顔を見つめる。

「何、を……」

「……言うべきじゃないのは分かっています。どうして欲しいわけでも、ないです」

 一度セシアが瞼を閉じると、涙が目じりから零れて頬を伝った。翡翠の瞳が、その軌跡を視線で負う。


「セシア」

「王子様に恋を告げる愚かさは重々承知です。それでも、伝えておきたかったんです」

 涙を溢しながら彼を真っ直ぐに見つめて、セシアは嬉しそうに微笑んだ。

「私、あなたのことが好きです。マーカス殿下。ずっと前から、そしてこれからもずっと」


 結果なんていらない。セシアはただここに一人立っている。想いを告げることだって自由だ。


「あなたのことを好きになれて、とても幸せです」


 ただ、幸せだと伝えたかった。マーカス。彼に会えて、彼を愛することが出来ただけで、セシアは今とても幸福だった。


「……それを、伝えたかったんです」

 セシアがそっと体を退こうとしたので、マーカスは咄嗟に彼女の腕を掴む。治癒しておいてよかった、これほど強く腕を掴まれたら薄皮一枚塞いだ程度の傷など開いてしまうところだった。

「殿下?」

 驚いてセシアが彼を見上げると、マーカスは何とも言えない顔をしていた。何かを耐えるような、叫びだしたいかのような。笑いたいのか泣きたいのか分からなくて、セシアは掴んできた腕にそっと触れた。

「……こんな時に何を言ってるんだとお怒りの気持ちは分かります。この件が終われば、私のことを解雇してくださって構いません」

「違う」

 マーカスは非常に珍しいことに、告げる言葉を見つけられないでいた。未だ彼はセシアに思いを告げる資格を持たない。


「え……では、部下が突然こんなことを言ってご迷惑を……」

「悪い、それも違う。待ってくれ」

「大丈夫です、何も望んでいませんから」

「いや、違う、そうじゃない。頼むから、少し待て」

 セシアの潔い言葉に、マーカスは言葉を被せるようにして止める。焦ったような物言いに、彼女は目を瞬いた。

「はい……?」


 告白なんて生まれて初めてしたし、何なら恋心を抱いたのだって彼相手が初めてなのだ。

 伝えずにいる方が苦しかったから告げたものの、ここで冷静になる時間を設けられてしまうと、叫びだしたいぐらい恥ずかしい。言い逃げしたかった、というのが本音だ。


 告げた時のスッキリとした気持ちと多幸感が引くと、代わりに羞恥がじわじわと背を這いあがってくる。

 ゆるゆる顔が赤くなってきた自覚のあるセシアは、マーカスから距離を取りたいのだが今だに手が捕まれたままの所為で動くこともままならない。

 今は伏せられている翡翠の目が、セシアが動いたことによりこちらを見られてしまえば赤面していることも自動的にバレてしまうからだ。

「…………腕を、離してもらうことは……?」

「悪いが出来ない」

 即答が返ってきて、セシアは唇をへの字に曲げる。

 待て、離せない、でもだんまり。仮にも告白してきた相手に対して、これはあんまりではないだろうか。


 ついムッとして、セシアが自分の腕を取り返そうと引くと、やんわりと押し留められる。しばし攻防したが何がどうなっているのか、セシアが腕を痛めないように、けれど腕を引かないように絶妙な力加減で対抗してくるのだ。

 こんな場面で謎に器用なところを発揮しないで欲しい、と思いつつ彼女はマーカスの伏せられた顔を見遣る。そういえば、こんなに攻防しているのに何故か顔を上げていない。

 自分の赤面が見られていないことにばかり安堵していたが、これはちょっとおかしな状態だ。


「殿下?」

「……なんだ」

「顔を上げてください」

「断る」

 また即答が返ってきてすぐ、セシアはマーカスの顎に手を掛けて無理矢理顔を上げさせた。

 本気で抵抗すれば抗えたのだろうが、彼の方でももう隠し通すことは諦めていたのだろう。


 果たして露になった整った顔は、セシアがポカン、としてしまう程見事に朱に染まっていた。


「…………だから上げたくなかったんだ」

 マーカスが不貞腐れて言うと、セシアは呆然と呟いた。

「殿下の赤面、色っぽいですねぇ」

「第一声がそれか……!」

 マーカスは思わず破顔する。セシアもなんだか笑ってしまった。


 空き家で、二人して赤面しながら笑う。実に奇妙な光景だが、なんとなく自分達らしいようにも感じた。

 触れたところから気持ちが伝わる、なんてロマンチックな現象は起きなかったけれど、さすがにここまであからさまに赤面してくれればセシアにも意味は伝わる。


「……言えないんですね」

「…………ああ……悪い」

「いえ……なんか、ああ、殿下だなぁ、て思っちゃった時点で許してるみたいです、私」


 返事を返さないこと。返せない、こと。

 マーカスは王子で、そして現在婚約者がいる身だ。その相手が、ジュリエットであろうとも婚約者がいる事実は変わらない。

 そんな状態でセシアに自分の思いを伝えるのは不誠実だと、彼は考えているのだ。全くこんな時だけは頑固で融通の利かない、仕方のない男だと思う。

 相手が彼じゃなければ、セシアだってさっさと怒って空いてる方の手で相手の頬の一つも張ってやるところなのに。

「……これが惚れた弱みってやつなんですかね」


 仕方がないのだ、そんなところも含めてマーカス・エメロードという男のことが好きなのだから。


「この件が終わったら……必ず俺からお前に告げるから、どうか……待っていて欲しい」

 両手でぎゅっ、と手を握られてセシアはふにゃりと笑う。大きな手が温かい。

「……それでも、難しいことは分かっています」

「いい加減なことを、俺は言えない。でも、何もかも諦める必要はない筈だ」

 例えこの件が上手く収束して、ジュリエットとマーカスの婚約が破談になったとしても、マーカスとセシアでは身分が違い過ぎる。

 気持ちだけでどうにか出来るものではないことぐらい、セシアにだって分かる。


 今、こうして手を握ってくれているマーカスが、セシアの恋の全てだ。

 もう十分に返してもらった。

 これ以上は、マーカスの王子としての領分を損なわせることになる。


「……分かりました、待っています」

 だからセシアは嘘をついた。すぐに自分のことを犠牲にしようとする、優しくて大好きなセシアの王子様。

 彼を守る為に、今この瞬間を永遠に抱きしめて恋を封印することぐらい出来る筈だ。やってみせる。


 マーカスは王子としての自分に誇りを持っていて、そんな彼を王族も国民も誇らしく思っている。そんな彼のやり方を曲げさせるわけにはいかない。


「その為に、早くこの件を片付けましょう!」

 マーカスに握られた手が、心なしか先程よりも熱い。セシアは、まるで温かなものに包み込まれるような不思議な心地がした。

「……そうだな」

 彼はそう言って、翡翠色の瞳を柔らかく細めた。


 この件が終わった時には、ただの平民であるセシアはもう彼の傍にはいられないけれど、この美しい瞳をよく覚えておこうと、心に刻み込んだ。



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