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井伊の総領

 直親の躯は戻らなかった。

 駿河の人気のない場所でひそかに打ち殺され、随身の者ともどもひそかに打ち捨てられたらしい。

 もはや死んだ者は死んだものだ。今は生きている物が最優先。

 今川に殺された死者の弔いを早々に済ませ、傷ついた井伊の民を次郎法師は率先して見舞った。

 そんな次郎法師の耳に届くのは今川への怨嗟の声、そして感じた。氏親の余裕のなさを。

 氏親に余裕がないということは今川が今岐路に立たされているということだ。

 氏親は今川の破滅を見ている。

 今川が滅びる。それはもうすぐ現実のものとなるかもしれない。

 だがもうすぐ出会ってそれは今すぐではない。

 今はそれに沿った動きをするべきだろう。 

 次郎法師は井伊の家臣団を見回した。

 かろうじて生き残った、そんな顔をしている。

 そして松下を呼んだ。

「お前、妻子はいるか?」

「先年亡くしまして独り身でございますが」

 松下は怪訝そうな顔で次郎法師を見た。

「松下、お前、亀を止められなかった責任を取ってもらう」

 次郎法師の言葉に、松下はうつむいた。

「私の命で償えと申されるのならそれに従います」

「馬鹿か、お前。これ以上死人を出してどうする」

 次郎法師は吐き捨てるように言った。

「亀の妻子を呼べ」

 次郎法師はそう言った。

 直親亡き後は次郎法師と直平が井伊を支配する権限を持つ、誰もそれに逆らうことはなかった。

 連れてこられたのは直親の妻、奥山氏、彼女は次郎法師にとって、母方のまた従妹ほどの血縁関係があった。

「松下、責任を取って、妻子を連れて出ていけ」

「あの、妻はおりませんが」

「今ここで娶れ」

 次郎法師の言葉にようやく状況を理解したらしい。

「お前が娶れば、ここに亀の妻子はいない、お前は自分の妻子を守るだけだ」

 松下は深々と頭を下げる。

「承りましてございます」

 一方的に進退を決められた奥山氏はただその場に呆けていた。

 夫の死からこれからただ流されているだけだ。

「次郎法師様、私は出世したと思っておりましたの」

 奥山氏はそう呟いた。

 その表情はまるで感情が抜け落ちたように動かない。

「総領娘を追い抜いたと思っておりました」

 ゆっくりと顔を伏せる。

「ですが違ったのですね、貴女は井伊を正しく見ていた。高田が井伊の中の序列にこだわっていた私と違って」

 奥山氏は顔を上げる。

「御用命に従います」

 深々と頭を下げる。その後頭部を次郎法師は色のない目で見降ろしていた。


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