28話 一歩、前へ
極限の二択を提示するアルトの問いに、リンは口を噤んだ。アルト、カリス、それから王都の方角へ。順に視線を巡らせ、最後に空を見上げて瞳を閉じる。
考えること、十数秒。瞳を開くと、向き直ってリンは口にした。
「ごめん、アルト。私……カリスと行くよ」
場に沈黙が落ちる。それまで冷静であろうと努めたアルトの口の端が、僅かに歪んで引き攣った。
「……理由を、聞かせてもらえるかな」
「アルトの言うことも正しいよ。今を維持しながらゆっくり変えられれば、それが一番犠牲が少ないやり方だと思う」
「なら——」
「でも、待てないよ。今この瞬間も、この歪んだ世界で誰かが一方的に奪われてる。その人たちに『あと百年待って』なんて、私には言えない」
「……リンちゃんは、この十年余りで、どれだけの人を救えたと思う?」
返った言葉は、普段のアルトよりも硬いものだった。
十年以上、背負い続けた理想の分岐点だ。簡単に譲れるものではない。
「奴隷売買を禁じる法が通ったのは、四年前の冬だ。あの一本を通すのに八年かけた。保護区が出来たのも、シュナと共に闘って二年前……遅い。自分でも分かっているさ」
「…………」
「だが、それでも千人以上は救えた。この救済は……遅ければ、救済ではないのか?」
具体的な数字だ。事実として、アルトはそれだけの民を救っている。
それでもリンは目を逸らさない。唇を噛み締めながらも、アルトを見据えたまま口を開いた。
「サーシャは、城の保護区で暮らしてる」
「君とカリスが助けた子か」
「あの子は、法がある国の中で攫われかけた。それを止めたのはカリスで、間に合ったのは偶然でしょ」
「……そうだね」
「この前は、保護区で骸の軍勢が暴れた。守られてるはずの場所で、貴族の行動に子供が震えて……あんたのやったことが無駄だなんて絶対に言わない。でも——」
リンは世界樹を見上げて続ける。
「聖剣が、命の格差が残ってる限り、何度でも同じことは起きる。七百年前に勇者が殺されて、世界が歪んだ瞬間をミアは見てる」
「しかし、同じようになるとは限らない。そのために管理する方法を考えるべきだ」
「なんとか今を変えたとしても、誰かが必ず同じことをするよ。今度は、私たちが死んだずっと後にでも……その時は、誰にも止められない」
リンの声が小さく落ちる。アルトの反論は、喉の奥で引っかかった。
管理者が善良である保証など、どこにもない。自分の代は良くても、その次は。さらにその次は?
事実として七百年前に一度、この世界はその答えを出している。
「確かにその懸念は正しい。だが聖剣を消した後、暴走する世界を止められる保証はあるのか?」
「未来に保証など、最初から存在しない」
答えたのはカリスだ。加速する応酬を制するように間に入る。
「為政者として、それは間違っていない見方だろう。オレもこれまでそうしてきたが……それは同時に、腐りゆく土壌を優先し、今の犠牲から目を逸らすことに他ならない」
「……全てが腐っているわけではないだろう」
「七百年前、勇者が世界を変えた瞬間——この地獄の出発点も、間違いなく善意からだったはずだ」
「善意……」
「善悪の基準すら塗り潰す本能が、それを覆した。そしていつしか過去を忘れたことで、暴走は止まらなくなった」
カリスは大樹の根元へ視線を落とす。全てを歪めた原点へ。
「だが、そうさせた歪みを取り除けば、原点の善意からやり直すこともできるはずだ。その土壌は、王として可能な限りは整えたつもりだ」
「歪みを生んだのは、失いたくないっていう想いだよ。誰もが持ってるものだから、変えるには根っこから断つしかない。……こいつを死なせるのは、反対だけど」
リンの言葉に、カリスは何かを言いかけて飲み込むが、二人の向いている方向が同じことは明らかだった。聖剣に触れ得る、この世でたった二人の担い手。その両方が同じ側に傾いている。
当事者として、王として、勇者として——それぞれの目線で世界を見てきた二人を、同時に納得させるだけの反論などありはしない。
(……確かに、私のやり方では遅すぎるのだろうな)
目の前に立つリンの瞳——その中にかつての自分を見て、アルトは悟った。
犠牲を最小に、時間をかけて内から変える。正しい理屈だ。世界を見て、その上で十年かけて積み上げた正しいやり方。
だが、同時に思い知らされた。あの時の自分が求めていたのは、百年後の制度改革ではない。妹の小さな手を、フランの手をもう一度引くことだけを望んでいたはずだ。
復讐すら成し得なかったあの夜から、ずっと自分に言い聞かせ続けていたのかもしれない。正しい救済の末に、フランの死にも意味が生まれると。
(随分、歩いたつもりだったんだけどね。フラン……どうやら兄さんは、まだ同じ場所にいたらしい)
アルトが空を見上げると、既に陽が落ち始めている。北の空にある星は、変わらずそこで輝いていた。
「……マーサさんのこと。私、答えられない」
震える声にアルトが視線を戻すと、リンは拳を握ったまま俯いていた。
「歪みの犠牲になる人を助けたい。でも、それで新しく犠牲が出るのも確かで……私には、それを止める方法がない。世界の全てを都合よく変えられないのはわかるよ」
「……ああ、そうだ」
「っ……だから、頼みたいの」
顔を上げたリンの目尻は赤かった。
それでも、琥珀の瞳は決して逸れずに、真っ直ぐにアルトと向き合っている。
「カリスは多分、できることはやってるはず。それでも、支えきれない崩壊は起きる……だから、後の世界を一緒に支えてほしい。私達にできないことを、あんたにも手伝ってほしい」
「——、……リン、ちゃん」
「都合がいいこと言ってるのは、わかってる。でもっ、アルトにしか頼めない……お願い、手を貸して!」
慟哭に近い訴えに、アルトは呼吸を忘れた。
この子を誘ったのは、自分からだった。
カリスを変える起爆剤として、城に導いた。
手元を離れて尚も、同胞として共に歩いた。
書斎で手を差し出して、共に来ないかと言ったのも自分の方だ。
取られなかったその手が今、逆から差し出されている。
(リンちゃん、君は本当に……我儘で、諦めが悪いな)
いつの間にか、カリスも青い瞳をアルトに向けている。"ふたりの勇者"の視線を受けて、アルトは深く息を吐いた。
「君達のやり方は、急すぎる」
「アルト……」
「でも、私のやり方では遅すぎるんだろう。……なら、両方やるしかない」
一歩、前へ踏み出す。言いながら、アルトは耳元に手をかけた。
潜入期間、一日も外したことのないもの。その留め具を外すと、秘匿のピアスは呆気ないほど軽く掌に落ちた。
「加護が消えた後の混乱は、私が——私達が支える。エヴァン卿も、シュナも、あの議会も必要だ。マーサさん達や、罪の無い人達をみすみす死なせることはしない」
「アルト……!」
「私の出自も明かす。真なる魔族の末裔として、両方の民の間に立つ。君たちが世界の歪みを断つのなら、その後の世界は私が命をかけて引き受けよう」
その一言に、それまで黙していたカリスが僅かに目を細めた。
「十二年、伏せてきたものだが……いいのか?」
「ああ、おかげで信用を稼ぐ時間はできた。使い時を間違えるほど、安く考えてはいない。……だから、思い切りやれ」
アルトが出した答えに、リンは息を呑んだ。
断られても仕方ないと頼み込んだ。それが受け取られたことに、理解が追いつくまで数秒……肩から力が抜けて、詰めていた息をゆっくりと吐き出す。
カリスは二人を交互に見て、それから天を貫く巨樹を見上げて、深く、長い息を吐いた。
「……揃いも揃って、勝手な奴らだ」
その声に、諦めよりずっと柔らかい響きが混じっていたことに、本人だけが気付いていない。リンはそれを聞いて笑いかけたところで、ふと視線を止めた。
カリスの肩口、裂けた黒い外套の下。白い肌に走った赤い線から、血がまだ滲み続けている。アルトの魔槍を素手で掴み取った際のものだ。
「それ、なんで治さないの」
「この程度、些事だ」
「全っ然、些事じゃない!」
声が跳ねた。カリスが僅かに眉を寄せる。
「何か問題があるか?」
「自分のことはどうでもいいと思ってるでしょ。言っとくけど私、あんたの結論に納得なんてしないから」
リンがぎこちなくカリスの肩口に手をかざすと、ムラのある淡い魔力が灯る。カリスが背を治したそれを、光が使えない彼女なりに模した、純粋な魔力のみでの治癒魔術だ。
カリスは何も言わずにそれを受けている。やがて赤い線が薄れる頃、リンが今度はアルトの方を見て、また表情を変えた。
「アルトも、全身傷だらけじゃん!」
「ああ……そうだった。君と同じで、私も治らない側だからね」
「笑いごとじゃない! ほら、じっとして」
駆け寄ったリンが同じ拙い魔力を灯し、少し遅れて、カリスが無言でその隣に膝をついた。血の匂いにも汚れにも、一切構わずに。
遥かに精緻な光が、少女の魔力へ重なっていく。傷口を挟んで、勇者が二人。あまりに出来過ぎた光景に、アルトは痛みも忘れて少しだけ笑った。
(……これは、思ったより悪くないな)
傷が塞がる頃、カリスが立ち上がった。視線の先、絡み合う巨大な根の中心で、何かが脈打つように淡い光を放っている。
十二年前、八歳の少女が触れた輝き。七百年、世界を歪め続けてきた元凶。
アルトは一歩踏み出して、すぐに足を止めた。
まだ距離があるのに肌が焼ける。かつて勇者のみに加護を与えていた頃とは違い、今は世界中に加護を振り撒く最大稼働の状態だ。
魔族の血が濃いアルトには、とても近寄れる状態ではなかった。
「ここからは、勇者の領分か」
こんな時のため、様々な札を握り続けたつもりだ。その果てに、世界の側から「入るな」と言われている。……笑えない冗談だと、アルトは聖剣に背を向けた。
そのまま外套の裾を払うと、自分のやることを進めるべく転移の術式を組み上げる。
「頼んだよ。こっちは私達で引き受ける」
「……ねえ、アルト」
「ん?」
「ありがとう。あんたとここまで来れて、良かった」
「礼は要らないよ。その分、存分に我儘を通してくれ」
風が吹き荒れて、魔力が弾ける。王都に向けて飛び立ちながら、アルトは二人が根の中心へ歩き出すのを見た。
カリスの半歩後を行くリンが、一度だけ振り返る。やがて前を向くと、カリスの外套の袖を掴んで、隣に歩み寄っていった。
(君達はそれでいい。私は……今一度、あの時から前に踏み出すとしようか)




