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でも、あの一年があったから、パンの焼き方も、花を育てる方法も、刺繍の仕方も学ぶことができました。それに、慰謝料だってもらいました。


ゼノ王子さまに対する気持ちが、もう全くないかというと違います。

でも、もうこれですべて帳消しにして、彼のことも忘れてしまうことにしました。決めたと言っても、心の中のことはそう簡単に始末がつきませんが、やってできないことはないです。


今の私には、森の生活があるので、それはとても幸せなことだと思いました。


*


それから二年の時が過ぎ、大好きな夏が近くなりました。もうすぐ蛍がやってきます。


今では、「森のパン屋」にはアシスタントがふたりいて、パンを焼いてくれます。私は監督と開発の係で、新しいパンを研究しています。本当のことを言いますと、私は飽きっぽくて、同じことを繰り返すのが苦手。でも、パンを焼くのを学びたいというマーサという十七歳の女子が現れ、そして、マーサのボーイフレンドであるクニヤンもこの店で働きたいと言って来たので、私は喜んで採用したのです。


その午後は私が釣り竿をもって、うきうきしながら出かけるところでした。


私、釣りが大好き。

ちょうどヒメマスの季節が始まるところです。ヒメマスは塩焼きでも、燻製でもおいしいですが、カリカリに焼いて、パンにはさんでもおいしいです。三枚におろして、レモンやたまねぎ、マヨネーズにきゅうり、チーズにレタスなど、それがどんな私のパンに合うのか、試しているのです。


それに合うお茶も考えています。ペパーミントがよいと思うのですが、森には似たような毒性の植物があるので、甘く爽やかな香りがあるかどうか、しっかりと確認することが肝心です。


私が釣り竿を持って出かけようとしたところ、馬に乗ったゼノ王子が突然、現れました。


ゼノ王子からは毎月のように手紙や、花、チョコレートなどが送られてきていました。私は毎晩、手紙を読むのを楽しみにしていましたが、一度も返事は書きませんでした。たまに、パンを届けることはありましたが、それはクニヤンの役目でした。


「いらっしゃいませ。来られることを知らなかったので、今日のパンはもうありません」


「パンが欲しくて来たのではありません。アイゼリアさんに会いにきたのです。これから釣りに行かれるのですか」


「はい。このところ、釣りに凝っています」


「あなたの後をついて行ってもよいですか」


「王子さまも、釣りがお好きですか」


「試したことはないですが、きっと好きだと思います」


「楽しいですよ。どうぞ」


ゼノ王子は私の後を、両手を後ろに組みながら、ゆっくりとついてきました。森の中を歩くのを楽しんでいるかのようでした。


「ほら、あそこ」

と私が四角い木箱を指さしました。


箱の上には少し古びたトタンの蓋がかぶさっていて、太陽の光を受けてうっすら銀色に光っていました。箱の入口の周りでは、黄色と黒の小さなミツバチが忙しそうに飛び回り、花から花へと行ったり来たりしています。


「あれは巣箱で、ミツバチの蜂蜜を集めます」


「アイゼリアさんは蜂まで飼われているのですか」


「はい。ほかの場所にも、あります。全部で四つ」


「蜂に刺されたりしませんか」


「します」


「痛くはないですか」


「痛いです」


私は腕を出して、刺された痕を見せました。


「すごいなぁ。刺されても、諦めないのですね」


「そうです。諦めない精神が大切です」

と私は笑いました。


その時、ゼノ王子の瞳がきらりと輝きました。


「そう、諦めないことが大事ですよね」


そう言って、王子は一枚の紙を胸ポケットから取り出して、私に手渡しました。


「お返事をいただけないので、……下手ですが、詩を作ってみました」


「詩ですか」


「今、読んでもよいのですか」


「どうぞ」


その香りのよい白い便箋には、こう書かれていました。


「今夜、庭に出てみると、

森のほうから吹いてくる風が、あなたの香りを運んできたような気がしました。

六月の小川、瞬く蛍の群れのことを、あなたは語ってくれました。

その輝く瞳が、私のまぶたに焼き付いています。

今夜、あなたは独りでその輝きを見つめているのでしょうか。

この冷たい石造りの城を出て、一刻も早くあなたの元へ駆け寄りたい。

許されるなら、今すぐそこに行きたいと、切に願っています」


「ありがとうございます。何と言えばよいのか、言葉が出てきません。あとでゆっくり返事を書きますね」


王子の顔が少し赤く染まっていました。


「あれから、アイゼリアさん、あなたのことをよく思っています。何度も、忘れようとしたのですが、忘れられないのです。思われることは、迷惑ですか」


「いいえ。人を想うのは自由ですし、別に迷惑ではないです」


「アイゼリアさんが詩が好きだと言われていたので、書いてみたのです」


「はい。人の詩を読んだり、自分で詩を詠んだりするのも好きです。上手ではないですが」


「私はすぐに遠くへ出かけなければならないのですが、帰国したら、ふたりで詩を作りませんか」


これまでに届いた手紙の中にも、そういうような言葉は何度かありました。でも、私には待ち続けた過去がありますし、王子にも、ひとりの方だけを見続けてきた歴史があり、これをどのように整理すればよいのか、私にはわからないのです。


ややこしい関係になるのはいや。かかわらない方がよい、というのが私の結論なのです。


「人を恋しく思う哀しい歌は、美しいです。でも、詩は離れて思うから、美しいのではないですか」

と私は言いました。


「そうでしょうか。好き同士が結ばれて、子供ができて、幸せな日々を歌うこともできるのではないですか」


「幸せすぎる詩は、読んでいて、つまりません」


「そうですか」

と王子が驚きました。


「私はそういう詩に、心を打たれたものはないです。私は夕べこの庭でひとり、寂しさを感じながら、暮らしていきたいと思います。でも、その寂しさも、私は好きなのですから、ご心配なく」


「そうですか。私は来週から、戦いに出かけます。だから、挨拶に来たのです」


「危険な戦争ですか」


「戦争はいつでも、危険です」


「はい」


王子が遠くに行ってしまうのかと思うと、私は急に不安になりました。彼のことを急に恋しく思いました。


「あなたが帰られる時までに、新しいパンを考えます。いいえ、あなたが帰ってこられる時までに、これから進む道について、どんな考え方をすればよいのか、考えます。ですから、どうかご無事で」


「可能性がないということではないのですね」


「はい」


「それは、うれしいです」


*


王子が遠征に出て、三ヶ月が経ちました。


その日、マーサとクニヤンがパンを焼いている間、私は石窯の前に座って、王子からの手紙を読んでいました。


遠征先から、手紙がよく届きます。


最初の手紙には戦況のことが少し書かれていましたが、あとはほとんど、そこで見た空のこと、川のこと、現地の食べ物のことが書かれていました。


「こちらの黒パンは、あなたのパンとは全く別の食べ物のようです。あなたのパンが食べたい」


そういうことが、書いてあります。


私は返事を書きませんでした。書けなかった、というほうが正確です。思いがいろんな方向に飛び、気持ちをまとめて書けません。


蛍の季節が来て、過ぎていきました。


私はひとりで川のそばに座って、蛍が水面の上をゆっくり漂うのを眺めながら、なぜ返事を書かないのか、自分に問いかけました。


怖いのだ、と気がつきました。


王宮で待ち続けた一年間を、私は「寂しかったけれど、学ぶことができた」と整理していました。それは本当のことです。でも、それだけではなかった。


あの一年、私は毎晩、月を見ていました。ゼノ王子も月を見ているとマキシムから聞いたから。同じ月を見ているというただそれだけのことで、私はあの一年を生き延びたのです。


それほど、好きだったのです。

だから、また好きになるのが、怖いのです。

愛は、永遠ではないのですから。


今度失ったら、と思うと、恐ろしいのです。


*


秋になったある日、町から戻ってきたクニヤンが血相を変えて飛び込んできました。


「町で聞きました。ゼノ王子さまが、大怪我をされて、王宮に運ばれてきたそうです。一ヵ月前のことです」


「生命は」


「最初は危ぶまれたのですが、ようやく意識を取り戻されたそうです」


だから、手紙が届いていなかったのだとわかりました。胸の中で、何かが音を立てて崩れました。


私は気がつくと、ロバに荷物を括りつけていました。パンの材料と、森で集めたハーブと、包帯代わりになる布と。


「アイゼリアさん、どこへ」


「少し出かけます」


「王都、ですか」


*


王宮の門番は、私のことを知りません。当然です。私が側室として過ごした一年間、私は誰とも深くは関わりませんでしたから。


「森のパン屋のアイゼリアです。王子殿下に、パンをお届けに参りました」


でも、それだけ言うと、なぜかすぐに通してもらえました。王子が私のパンが好きなことは、宮廷でも知られていたのでしょうか。


王子が寝ている部屋は、想像していたような金で輝く部屋ではなく、飾りが少なめで質素でした。


窓から森の方角が見えました。私の家は見えないはずですが、それでも同じ森を見ていたのかと思うと、胸の奥が痛くなりました。


王子は眠っていました。頭と左腕と右足に包帯が巻かれていて、顔色が悪かったです。


私は台所を借りて、スープを作りました。森のキノコと、根菜と、ハーブ。王宮の料理人が不思議そうに見ていましたが、邪魔はしませんでした。


王子が目を覚ましたのは、夕方でした。


私の顔を見て、一瞬、夢を見ているような表情をしました。


「アイゼリアさん」


「お加減はいかがですか」


「ようやく……来てくれたのですね」


「パンを届けに来ました」


「パンを」


「スープもあります。食べられますか」


王子は少し笑いました。でも、顔が痛みで、歪みました。


「あなたは本当に、正直な方ですね」


「どういう意味ですか」


「では、はっきりと聞きます。あなたは、パンだけを届けに来たのですか」


私はスープを器によそいながら、少し間を置きました。


「……あなたが心配でしたから、来ました」


「それは、うれしい」


「でも、それだけです」


「それで、十分です。そのパンを食べたら、元気になれそうな気がします」


*


私は三日間、王宮に泊まりました。


王子の傷の経過を見て、食事を作って、それだけのつもりでした。


でも、三日目の夜、王子が言いました。


「あなたに、謝らなければならないことがあります」


「何ですか」


「あなたが妻だった一年間、私はあなたのことを一度も考えませんでした。あなたがどんな思いで待っていたか、想像しようともしませんでした。人として、許されないことをしたと思っています」


私は返事をしませんでした。


「怒っていますか」


「以前は、怒っていたかもしれません」


「今は」


「今は……終わったことだと思っています。あの一年があったから、私は森に行きました。森に行ったから、パンを焼くことを覚えました。パンを焼いたから、あなたが来てくれました」


「そうですね」

と王子は静かに言いました。「私はあなたに出会って、初めて、自分の足で立つということを考えるようになりました。エボニーがいなければ何もできないと思っていた。でも、それは本当のことではなかった」


窓の外に、月が出ていました。


「きれいな月ですね。月はどこで見ても、美しい。私は子供の頃から、月を見るのが好きです」

と私が言いました。


「私もです」


「知っています」

私がそう言うと、えっ、という表情で彼がこちらを見ました。


「マキシム王子から聞きました、ずっと前に。だから私は、王宮にいた一年間、毎晩月を見ていたのです。同じ月を、王子さまも、どこかで見ているかもしれないと思いながら」


王子はしばらく黙っていました。


「アイゼリアさん、私はあなたのそばにいたい。あなたの森に行っても、あなたの庭を歩いても、いつもそう思っていました。でも、あなたの邪魔はしたくない」


「邪魔、ではないです」


自分でも驚くほど、すんなりと言葉が出ました。


「でも」

と私は続けました。「私は王宮には住みません。森の家を手放すつもりもありません。マーサとクニヤンを放り出すこともできません。蜂の世話もあります」


「それは、もちろんです」


「王子さまが森に来られることは、歓迎します」


「それで十分です」

と王子は言いました。「あなたの隣で、私も自分の足で立ちます」


*


翌朝、私はロバに乗って森へ帰ることにしました。


「次の手紙には、返事をいただけますか」


「はい」


王子の顔が、ぱっと明るくなりました。それがおかしくて、私は少し笑いました。


「歩けるようになったら、また森のパン屋へ行きます」


「早く元気になって、来てください。パンはふたつ、取っておきます」


振り返ると、王子が部屋の窓から、手を振っていました。

頭と左腕にまだ包帯が巻かれていて、少し情けない顔をしていました。


その顔を見ると、心が痛くなって、すぐに戻って抱きしめたいと思いました。


しっかりしなさい、と自分で自分を叱りました。


でも、子供の頃から憧れていた王子ですもの、一度は離婚された歴史はありますが、この気持ち、仕方がないですよね。


             了

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