第688話 必修の試験結果
翌週、必修科目の試験結果が発表された。
昼休みになると、もはや習慣のように、ヴェゼルの周囲へと自然に人が集まっていた。
誰が呼んだわけでもなく、気付けば同じ顔ぶれで食卓を囲む形が定着している。学院という緊張の場の中で、この一角だけが妙に現実味のある温度を持っていた。
結果から言えば、優等生組は変わらない安定ぶりだった。
ヴェゼル、プロフィア、トレディア、キャシュカイ、カジャール、コーティナ、エストレヤ、全員が全必修科目を問題なく合格している。
しかしその事実に対して、驚きも歓喜もない。
「そうでしたの」「当然ですわね」「まぁ、落ちる理由もなかったしな」「想定通りだね」
言葉はそれぞれ違っていても、そこにある感情はほぼ同じで、ただ結果を確認しているだけだった。
そもそも彼らにとって試験とは、受かるかどうかを気にするものではなかった。どう受かるか、それだけの話だった。
一方でフルフェンスとラングラーは、いくつかの科目を落としていた。
「くそっ、あと一問だったんだ」「俺もだ。まぁ次で取ればいいか」
悔しさはあるが、深刻さはない。三ヶ月後にまた受ければいい。その程度の軽さだ。
そして、問題は予定通りあの二人だった。
「毎日必修の授業が……ある……なんて……」
ダイナが机に突っ伏したまま、現実を拒絶するように呟く。
その隣ではニーヴァが完全に同じ姿勢で沈んでいた。
「ううっ……あれだけ頑張りましたのに……試験用紙も全部埋めましたのに……!」
その言葉に対して、周囲はもう慣れたような反応しか返さない。キャシュカイが淡々と視線を向ける。
「ニーヴァ。余白を埋めることと正答を書くことは別ですわよ」
その瞬間、ニーヴァは勢いよく顔を上げる。
「でも空欄は嫌でしたの!」
「だからといって全問を願望で埋める必要はありませんわよ」
「願望ではありませんわ、可能性ですわ!」
その言葉に、周囲が一瞬固まって、それから小さく笑いが漏れた。
「それもう宝くじですわよ」
「当たれば正解理論は、やめてくれよ」誰かの一言をきっかけに、笑いが自然に広がった。
ニーヴァは黙らない。むしろそこから勢いが増していくタイプだ。
「だって当たるかもしれませんもの! 可能性はゼロではありませんわ!」
「ゼロではないからって全部書くのは……」
初日の騒動以来、ニーヴァは素顔で過ごしている。
黙っていれば整った容姿で、キャシュカイと並べば姉妹と見間違うほどだが、口を開くたびに印象が別方向へ転がっていく。
知性よりも直感と感情が先に出るため、評価が安定しない人物になっていた。
そんな笑いの流れの中で、ヴェゼルはふと違和感に気付く。
それもかなり露骨で、じとっとした視線だ。
視線の先を追うと、やはりニーヴァだった。食事の動作のすべてに対して、視線だけが固定されている。
パンを食べても見ている。スープを飲んでも見ている。肉を切っても見ている。明らかに“食事を見ている”のではなく、“ヴェゼルを見ている”のだ。
「どうしたのニーヴァさん?」
ヴェゼルが声をかけると、ニーヴァは、頬をわずかに染めながら呟いた。
「耽美だわ……」
その意味を理解する前に、キャシュカイの肘が横から入る。小さく鈍い音がして、ニーヴァの意識が現実へ戻った。
「……っ、失礼しましたわ!」慌てて姿勢を正すが、遅い。
「ち、違いますの! その……ヴェゼルさんのお顔が……綺麗で……唇、その目、顎のラインも素敵…」
言いながらどんどん小さくなっていく声。そして、なぜか一度呼吸を整えたあと、急に立ち上がった。
「お付き合いとかは、もうどうでもいいので、そのお顔だけ欲しいです!」
嫌な予感が広がる。止める間もなく、彼女は言い切った。
沈黙が落ちる。
ヴェゼルも止まる。周囲も止まる。誰かのスプーンが途中で止まったまま動かない。
数秒後、ヴェゼルがようやく言葉を出した。
「え?」
「ですからお顔です!」
「いや、意味が分からないよ」
「綺麗なんですもの!」
「そういう話じゃないでしょ」
「ではどういう話ですの!」
「顔は貸し出せないよ!」
会話が成立しているようで成立していないやり取りに、周囲はじわじわと崩れ始めていた。
しかしニーヴァは本気だった。
「私、理解しましたの。恋ではありませんでしたわ! 芸術鑑賞でしたの!」
「悪化してるってそれ」ラングラーの声が笑いに飲まれる。
ニーヴァは止まらないまま、説明を重ねるように熱を上げる。
「この均整の取れた顔立ち、整った鼻筋、美しい目元、まるで神が暇潰しに本気を出したようなお顔ですわ!」
「神に怒られそう」フルフェンスが肩を揺らしながら突っ込むが、止まらない。
「一日だけでも貸してほしいですわ!」
「顔は貸せないよ!」
「では複製を!」
その場は完全に崩壊していた。
キャシュカイは額を押さえ、ラングラーは机に突っ伏して震え、カジャールは肩を揺らして笑いを堪えている。プロフィアは静かにヴェゼルへ視線を向けた。
「ヴェゼルさん。あの娘は少々危険です」
「うん。俺もそう思う」
「一人で会わない方がよろしいかと。お顔だけ持っていかれる可能性があります」
「怖いこと言わないでよ…」
短い会話だったのに、妙にそれだけが頭に残った。
再び空気が落ち着いたように見えたが、ニーヴァだけはまだ納得していなかった。
「皆様、どうされましたの?」
その問いには誰も答えない。
そして次の瞬間、耐えきれなくなったラングラーが吹き出し、それを合図に全員が笑い出す。
大食堂の一角だけが、しばらく現実から少しだけ外れたまま、笑い声に満たされ続けていた。
不意に大食堂の入り口付近がざわついた。
一人の女性が入ってきたのである。だが、その姿が少々……いや、かなり怪しかった。
きょろきょろと周囲を見回し、誰かを探しているようでいて、何かに怯えているようにも見える。
右を見る。左を見る。数歩進んでは立ち止まる。おどおどと辺りを見回していた。
長い茶髪に分厚い眼鏡。白衣姿のその女性を見て、ヴェゼルは思い出す。
一年五組副担任。ベルエア・レヴェントンだった。
「何をしているんだろうね……」
ヴェゼルが呟いた直後だった。ベルエアの視線がこちらを捉える。
すると今までのおどおどした様子が嘘のように、ぱっと顔が明るくなった。
そして次の瞬間。一直線に駆けてきた。
「ヴェゼル君! 次のあなたの授業は私が担当します!」
「はい?」
勢いが凄かった。ヴェゼルが返事をする間もなく、ベルエアは机へ身を乗り出す。
そして目を輝かせながら続けた。
「もしよろしければ妖精さん達も連れてきてくださいね!」
言いながら視線はヴェゼルではなく、食事中のサクラ達へ向いている。
しかも妙に真剣だった。サクラは口いっぱいに料理を頬張りながら、その視線に気付く。
そして警戒するように皿を抱え込んだ。
「なによ! 私のご飯はあげないわよ!」
「え? あ、いえ、そういう話ではなくてですね――」
ベルエアが慌てる。だがサクラは怪しい目でベルエアを見る。ヴェゼルは思わず苦笑した。
するとベルエアは気を取り直し、改めて真顔で言う。
「よろしければではありません。ぜひお願いします。必ず妖精さん達も連れてきてください」
「……妖精達も?」
「はい!」即答だった。しかも妙に圧が強い。
「授業は校庭の一番奥、左側の訓練場です! 私は先に向かっていますので!」
そこまで一息で言うと、ベルエアは満足そうに頷いた。
そして来た時と同じくらい慌ただしく去っていった。
後には静寂だけが残る。ヴェゼルは遠ざかっていく背中を見つめた。
サクラも。他の妖精達も。全員が同じ方向を見ている。
しばらくして、ぽつりとサクラが呟いた。
「……あれ、絶対に私達が目的じゃないの?」
「そう見えましたね…なんか、真剣で少し怖いです…」ジャスティが苦笑する。
誰がどう見ても、ベルエアの興味はヴェゼルの魔法より妖精達へ向いていた気がする。
それどころか、妖精以外が視界に入っていないようにすら見えた。
ヴェゼルは先ほどの目を思い出す。
あれは教師の目というより、何かを見つけた学者のような目に見えた。
珍しい資料を発見した学者のような。あるいは未知の生物を見つけた探究者のような。
好奇心で輝く目。それを思い出した瞬間、何となく嫌な予感がした。
だが同時に、少しだけ胸が高鳴る。
収納魔法。妖精達。
どうやら午後の授業は、ただの魔法実技では終わらないらしい。
ヴェゼルは、そんな予感だけを胸の奥に残したまま、訓練場の方向を見ていた。
ヴェゼルは午後の訓練場へ思いを巡らせるのだった。




