第687話 真夜中の侵入者
みんなで模擬戦を行い、一日中騒がしくも楽しい時間を過ごした。
ダイナは最後まで元気だったし、シェルパやラングラーも久しぶりの剣を存分に楽しんでいた。カジャールの公邸で開かれた即席の模擬戦大会は、終わってみれば誰もが笑顔になるような一日だった。
そして夕方になると、公邸から馬車を出してもらい、学院の寮へと戻った。
ヴェゼルも皆と別れ、サクラと寮の部屋へ帰った。
夜になるとサクラは大きな姿になる。そのため夕食は食堂ではなく、ヴェゼルが収納箱へ入れて持ち帰ることにしている。
ちなみにジャスティ達は今日はプロフィアの部屋へ泊まりに行くらしく、部屋にはヴェゼルとサクラだけになった。
夕食を済ませ、風呂へ入り、火照った身体を冷ましながら部屋へ戻る。
窓の外ではすでに夜の帳が降りていた。
静かな夜だった。今日は久しぶりに身体を動かしたせいか、心地良い疲労感が残っている。
サクラとベッドへ腰掛けたヴェゼルは小さく息を吐いた。
――今日はよく眠れそうだな。そう思った時だった。
コンコン。部屋の扉が叩かれる。こんな時間に誰だろうか。
不思議に思いながら立ち上がり、扉へ向かう。そして鍵を外して開けた瞬間だった。
小さな影が弾丸のように飛び込んできた。
「うわっ!?」
反応する間もなく胸へ突撃され、そのまま後ろへ押し倒される。
どさりと床へ倒れ込んだヴェゼルの上へ、小柄な身体が覆い被さった。
そして。くんか。くんかくんか。くんかくんかくんか。
鼻を押し付けるように匂いを嗅いでいる。ヴェゼルは数秒だけ無言になった。
そして諦めたように呟く。
「……ランツェか」
「はい!」元気な返事だった。やっぱりか。数日前にも似たようなことがあった気がする。
その時だった。入り口付近で淡く光っていた小さな光球が、盛大にため息を吐く。
もちろん実際に音が出た訳ではない。だが、なぜかため息を吐いたことだけは分かった。
そして光球は勝手に扉を閉めた。がちゃん。部屋が再び静かになる。
一方、その様子をベッドの上から眺めていたサクラがぴくりと反応した。
夜なので今のサクラは人間と変わらぬ大きさになっている。
ベッドへ寝転がりながらごろごろしていたサクラだったが、その光を見た瞬間だけ表情が変わった。
「……光?」
その声には僅かな警戒が混じっていた。光球は数回明滅する。ぱち。ぱちり。そして光が人型へ変わった。
現れたのは白髪の妖精だった。整った顔立ち。白磁のような肌。どこか冷たさを感じる端正な容貌。
その妖精は当然のようにランツェの肩へ降り立った。
そして。じろり。真っ先にサクラを睨む。サクラも負けじと睨み返した。
空気が少しだけ張り詰める。だが当のランツェは全く気付いていない。
まだヴェゼルへ抱きついている。
「ランツェ、離れてよ」
「嫌です!」
「離れて」
「嫌です!」
「離れろ!」
「はい!」
なぜか三回目だけ素直だった。ヴェゼルは引き剥がすようにしてランツェを立たせる。
ようやく落ち着いたところで問いかけた。「説明してくれる?」
「もちろんです!」ランツェは胸を張った。
まるで重大任務を任されたような顔である。
「アビー様に言われて、この男子寮に忍び込んできました! 私にはこんなことお手の物なのです!」
全く褒められた内容ではなかった。
ヴェゼルが頭を押さえる。サクラまで呆れた顔になった。そんな二人をよそにランツェは続ける。
「まず、こちらがアビー様の妖精のネリネさんです!」
肩に乗った妖精の少年を示す。
「これからは私とこのネリネさんで、アビー様とヴェゼル様の橋渡しをします!」
その言葉に。サクラの眉がぴくりと動いた。
「やっぱり光の妖精?」
明らかに声色が変わる。そして嫌そうに顔をしかめた。
「あの性格の悪い光の手下が、何の用でここにきたのよ」
部屋の空気が一気に冷える。
するとネリネも即座に反応した。美しい顔に薄い笑みを浮かべる。だがその笑みはまるで温度がなかった。
「私は闇の妖精などという者に会いたくはなかったのですが、アビー様のたってのお願いで、こちらにいるランツェ殿と共に参っただけです」
そこでネリネはサクラを上から下まで眺める。そして容赦なく言った。
「噂には聞いていましたが、本当に怠惰そうですね。あなたのような妖精と、私のような優秀な妖精を同じにしないでいただきたい」
ぴしり。空気に音が入ったようだった。サクラの額に青筋が浮く。
ネリネも一歩も引かない。闇と光。本来なら対極に位置する存在だった。
しかもサクラは闇の妖精。ネリネは光の妖精。相性が良いはずもないことは容易に想像がついた。
互いに睨み合う視線の間で、魔力がぱちぱちと弾けるような錯覚すらあった。
「言ったわね」
「事実を述べただけです」
「その綺麗な顔を闇色に染めてあげようかしら」
「出来るものならどうぞ」
今にも始まりそうだった。
だが。「やめてください!」ランツェが慌てて二人の間へ割って入る。
「今日は喧嘩をするために来たのではありません!」
ようやく二人の視線が外れた。もっとも。サクラは不機嫌そうに頬を膨らませ。ネリネは冷ややかな目を細めたままだった。
どうやら仲良くなれる未来は、まだまだ遠そうだった。ランツェの顔から、いつもの明るさが少し消えた。
「アビー様は、本当はここに来たかったのです」
その一言に、部屋の空気が静かになる。ランツェは唇を噛み、それから続けた。
「本当は、ご自分でヴェゼル様に会いたかったのです。学院はどうなのか、ちゃんとご飯を食べているのか、お怪我はしていないのか。聞きたいことも、話したいことも沢山あると仰っていました」
そう言うと、ランツェは少しだけ笑う。
「それこそ、私が覚えきれないくらいにです」
ヴェゼルは黙って聞いていた。アビーならそうだろうと思った。
だからこそ、今も自分のことより先にヴェゼルの心配をしているのだろう。
しかし、ランツェの表情はすぐに曇る。
「ですが、それは許されません。アビー様は今や教皇猊下です」
その言葉の重みは、ヴェゼルにも分かっていた。ただの貴族令嬢ではない。この世界で最も大きな宗教の頂点。皇族でさえ無視できない存在なのだ。
「アビー様がお一人で外を歩くことはできません。どこへ行くにも護衛が付き、侍女が付き、司祭達が付きます。学院以外では、一日の予定も全て決められています」
ランツェは俯いた。「自由な時間など、ほとんどないのです」
ネリネも静かに目を閉じる。それは否定できない事実なのだろう。
「それでもアビー様は弱音を吐きませんでした」
ランツェは顔を上げる。その目には尊敬と同情が滲んでいた。
「最初は戸惑われていました。泣いておられる日もありました。突然教皇になれと言われても、まだ大人ではないのですから当然です」
ヴェゼルの胸が少し痛む。アビーは望んでその椅子に座ったわけではない。神の宣託。世界の都合。大人達の事情。その全てによって担ぎ上げられた。
「それでもアビー様は言われたのです」
ランツェは、その時の言葉を思い出すように目を閉じた。
『私にしかできないのなら、頑張ります。私一人が責務を果たせば、救われる人がいるのでしょう?と』
部屋が静まり返る。
『私が教皇になったことで、貧しい人達が助かるなら』『飢えている子供達が少しでも救われるなら』『苦しんでいる人達の力になれるなら私は頑張ります』
ランツェの声が震えた。
『だから、ヴェゼルには心配しないでほしいです』『寂しくないと言ったら嘘になります』『会いたくないと言ったら、それも嘘です』『本当はもっと話したいです』『もっと一緒にいたいです』『でも』
そこまで言って、アビーは笑ったという。少し寂しそうに。それでも前を向いて。
『今は教皇として頑張ります』『だからヴェゼルも頑張ってください』『いつか胸を張って、また会えるように』
ランツェはそこで耐えきれなくなった。ぽろりと涙が落ちる。
「アビー様は……本当に頑張っておられるのです……」
部屋の中に沈黙が落ちる。ヴェゼルも。サクラも。ネリネでさえ。
しばらく何も言うことができなかった。
教皇という地位は誰もが羨むものなのだろう。だが今のヴェゼルには、それが重い枷にしか思えなかった。
それでもアビーは逃げなかった。泣きながらでも前を向き、自分の役目を果たそうとしている。
ランツェは涙を拭った。だが次の瞬間には、いつもの調子に戻っていた。
「あとですね。入学式の時、少しだけでしたがヴェゼル様のお姿を見ることができて嬉しかったそうです」
そして、小さく微笑んだ。
「ですから、『私は元気です』とお伝えください、と」
その言葉にヴェゼルの表情が少しだけ和らぐ。
アビーらしいと思った。だが。次の瞬間だった。
「なので!」ランツェが突然ずいっと近付いてきた。
ヴェゼルが首を傾げる。ランツェは今ではヴェゼルより頭一つ大きい。
そのため少しだけ身体を屈める。
そして。ちゅっ。
「…………」「…………」
部屋の時間が止まった。ヴェゼルの思考も止まった。
ランツェの唇が自分の唇に触れたことを理解するのに数秒かかった。
だが。理解した瞬間には。
「なにしてるのよーーー!!」サクラが爆発した。
闇色の髪を振り乱しながら飛び込み、全力でランツェを突き飛ばす。
ランツェが転がる。その隙にサクラはヴェゼルの前へ立ち塞がった。
「ヴェゼルは私とアビーのものなんだから駄目よ!」
両手を広げて完全防御態勢だった。ランツェは床に座ったまま首を傾げる。
「ですが今のは伝言ですよ?」
「どこの世界にチューで伝言する人がいるのよ!」
「私です!」
「開き直らないでよ!」
サクラが怒鳴る。すると今度はネリネが深々とため息を吐いた。
先ほどまでの神妙な空気が完全に吹き飛んでいる。ネリネが冷たい声で言う。
「ランツェ殿、アビー様はメッセージを託されましたが、くれぐれもヴェゼル殿には触れないように、と仰っていましたよね?」
「仰っていたような気もします……」
「ならば今の行為を説明してください」
「きっとアビー様もこうしたかったはずです!」
堂々と言い切った。ネリネは額を押さえた。ヴェゼルも額を押さえた。なぜかサクラまで額を押さえていた。
「絶対違うと思うけどな」ヴェゼルが疲れた声で言う。
「そんなことありません! アビー様は我慢しておられるだけです!」
ランツェは胸を張った。
「だからって代行しないでよ!」今度はサクラが突っ込んだ。
そしてヴェゼルの腕を掴む。
「いい!? ヴェゼルは私とアビーの婚約者なんだからね!」
サクラはびしっとランツェを指差す。
「今度チューしようとするなら私が許さないわよ!」
「なぜサクラ様に許可を取らねばならないのですか?」
「私が妖精第一夫人だからよ!」
ネリネは冷めた目で続ける。
「そもそも人間と妖精の婚約など聞いたことがありません。非常識ですね」
そう言ってサクラを見る。サクラも負けじと睨み返した。
「相変わらず光の妖精なんて性格悪い奴しかいないわね」
「常識のない闇の妖精にだけは言われたくありません」
また空気が険悪になる。
ヴェゼルは頭痛を覚えた。話を変えよう、そう思った。
「そういえば、なぜその光の妖精のネリネさんを連れてきたの?」
ヴェゼルが視線を向けると、ランツェが即座に胸を張った。
「ネリネさんは姿を見えにくくできるんです! ですからネリネさんの力を借りて私が忍び込んできました!」
誇らしげに言う内容ではなかったが、ヴェゼルはとりあえず納得した。
「なるほど……」
そして少し考えてから言う。
「じゃあ、これからはランツェとネリネさんが時々伝言を届けに来るんだね」
「はい!」
ランツェは尻尾をぶんぶん振って頷いた。だがそこでヴェゼルは学院の規則を思い出した。
「聞いているかもしれないけど、無断で異性を部屋へ入れるのは重大な規律違反らしい。最悪は退学もあるって聞いたから本当に気を付けてよ」
するとランツェは真剣な顔になった。
「分かりました!」
そこまでは良かった。だが次の瞬間だった。
「でも見つかったらヴェゼル様は大変でしょうけど、私としてはヴェゼル様に責任を取ってもらえるので、それはそれで――」
「駄目でしょう」
ネリネが即座に遮った。ヴェゼルも。サクラも。揃って大きなため息を吐く。
ネリネは呆れたように額へ手を当てた。
「ヴェゼル殿が退学をしたら、それではアビー様が悲しまれます」
そして改めてヴェゼルへ向き直る。
「ヴェゼル殿、ご安心ください。私がそのような事態にはさせません」
「う、うん……」なぜだろう。安心するはずなのに少し不安だった。
ネリネは有能だが融通も利かなそうだった。
やがてネリネが静かに尋ねる。
「ヴェゼル殿。アビー様へ何か伝言はございますか?」
ヴェゼルは少し考えた。
「手紙は駄目なんだよね?」
ネリネは頷く。「万が一ということがあります。証拠が残るものは避けた方が良いでしょう」
ヴェゼルは小さく息を吐く。そしてしばらく考えた後、ゆっくり口を開いた。
「じゃあ……入学式で顔が見られて嬉しかったって。それと、授業が一緒になった時は少しでも話せたら嬉しい」
ランツェとネリネが静かに耳を傾ける。
「あと――いつか必ず迎えに行くからって伝えてね」
部屋の空気が少しだけ止まった。
ランツェが目を見開く。ネリネも何かを言いかけた。二人は顔を見合わせ、それ以上は何も言わなかった。
「確かにお伝えします」ネリネもランツェも深々と頭を下げた。
ネリネが扉を少し開けて外を確認する。
誰もいない。その後、小さく何かを口ずさんだ。柔らかな光がランツェを包み込む。
すると彼女の姿は周囲の景色へ溶け込むように薄れていった。
「では失礼します」
「また来ます!」
最後まで元気な声だけを残し、二人の気配は夜の闇へ消えていく。
扉が閉まると思った――瞬間だった。
不意に何者かがヴェゼルへ抱きついて唇に柔らかいものが触れた。
「っ!?」
同時に、どこからかネリネの盛大な舌打ちが聞こえる。
次の瞬間にはその気配も離れ、慌ただしく廊下の先へ遠ざかっていく。
ヴェゼルは何とも言えない顔で閉じられた扉を見つめた。
部屋に静寂が戻った。サクラが扉を見つめたまま鼻を鳴らした。
「まったく騒がしい連中ね」
そう言いながらベッドへ戻る。ヴェゼルも苦笑した。本当に騒がしかった。
明かりを消す。部屋は闇に包まれる。そして二人は同じベッドに横になった。
サクラが「口直し」と言って口づけをした。
しばらくして。ヴェゼルはふと思った。
――いや、待てよ。
――これ、妖精だから見逃されてるけど、学院の先生に知られたら何て言われるんだろうな。
そんなことを考えながら、ヴェゼルはゆっくりと目を閉じるのだった。




