第654話 サマーセット、領都モンディアル03
夕食を終えた頃には、モンディアルの空はすっかり夜に沈んでいた。
窓の外には港の灯りが点々と浮かび、停泊した船の明かりが黒い海面の上でゆらゆらと揺れている。
海から吹く夜風が、細く開いた窓の隙間から流れ込み、潮の香りをかすかに室内へ運んでいた。
食後の茶が下げられると、自然と空気は落ち着き始める。
もっとも、子供たちはすでに別だった。
アクティとスイフト、それにプロフィアとナーロは、食事の途中からすっかり仲良くなっていたらしい。食後にはそのまま「遊ぼう」という流れになっていた。
特にスイフトの人懐っこさは際立っている。
「うちには知育玩具もいっぱいあるよ!」
得意げにそう言いながら、プロフィアとナーロの手を引いて先導していく。その後ろを、アクティもくすりと笑いながら続いていた。
すると、食事を終えたジャスティも元気よく手を上げる。
「私も行きます!」
「うん、みんなで遊ぼうね!」
完全に先頭を歩いているのはスイフトだった。
そのまま子供たちは隣室へ消え、ぱたん、と扉が閉じる。
一方でアリアは、食事が終わった頃に、そっとアクティのポケットからヴェゼルのポケットへ移ってきていた。
小さな顔だけを覗かせ、何か言いたそうに何度もヴェゼルを見上げている。だが、結局なにも言えないまま、また引っ込んでしまった。
夜になったことで、サクラも本来の大きさへ戻っていた。
ローグ家の使用人たちは突然大きくなったサクラを見て一瞬硬直していたが、本人は欠伸をしながら「眠いわ……」と言っただけで、そのまま寝室へ案内されていく。
ガヤルド夫妻とフィリーも、長旅の疲れが限界だったのだろう。軽く挨拶を交わした後、それぞれ客室へと下がっていった。
そうして――。ようやく、大人だけの空間になる。
応接室では暖炉の火が静かに揺れていた。
柔らかな橙色の灯りがソファや壁を照らし、磨き上げられた重厚な木製家具へ長い影を落としている。港町の領館らしく、部屋の調度品にはどこか異国風の意匠も多かった。
ローグ子爵家の使用人が静かに茶を配り終えると、皆それぞれソファへ腰を落ち着ける。
長旅の疲れもあった。しばらくは誰も口を開かない。
暖炉の薪がぱち、と小さく爆ぜる音だけが響いていた。
その静けさを破ったのはヴェゼルだった。一度、室内をゆっくり見渡す。
ローグ子爵夫妻。
フリード。
オデッセイ。
アプローズ。
エスパーダ。
そして、暖炉の近くで丸くなっているルドルフとシャノン。
そこでヴェゼルは、ふと気づいたように口を開いた。
「そういえば……リョーガさんとユーガさんがいませんが、どうしたんですか?」
その言葉に、フリードが「ああ」と小さく声を漏らす。
「ここへ俺が来て二日ほど経った頃だな。リョーガ殿から話があってな。本当はそのままビック家へ同行したかったそうなんだが……どうしても途中で離れねばならなくなった、と言っていた」
「離れた?」
「ああ。突然、用ができたそうだ」
そこでフリードは少し苦笑する。
「ユーガ殿の方は、ビック家へ行って“ソイ”と“ヒシオ”を作るつもりだったらしくてな。かなり残念がっていたぞ」
その言葉に、ヴェゼルは少し考え込む。
確かに、あの親子は元々あてのない旅をしていたと言っていた。だが同時に、精霊や妖精に対して異様なほど強い興味を示してもいた。
だからこそ、精霊や妖精が集まり始めているビック家へ強く惹かれていたのだろう。
――そんな二人が、突然予定を変えるほどの“何か”。
ヴェゼルが考え込んでいると、不意にポケットの中が小さく動いた。
アリアだった。
おずおずと顔を出し、どこか気まずそうに周囲を見回してから、小さな声で話し始める。
「あの……」皆の視線が集まる。
アリアは少し肩を縮こませながら続けた。
「実は……リョーガさんが“ここを出ていく”って言った前日、多分なんですけど……精霊様、みたいな気配が、この領館へ来てた気がしたんです」
「精霊?」ヴェゼルが聞き返す。
アリアはこくりと頷いた。
「光の精様……なのか、聖の精様なのか……うまく分からないんですけど……すごく静かで、でも強い気配で……」
そこまで言って、アリアは少し言い淀む。
「それで……次の日に、リョーガさんとユーガさんが……」
言葉は最後まで続かなかった。
だが、その場にいた全員が、何となく察していた。
――二人は、その“何か”に導かれるようにして去っていったのだろう。
応接室の暖炉がぱちり、と小さく音を立てる。
ヴェゼルは静かに考えていた。リョーガとユーガは、元々ただの旅人ではなかった。
武者修行だとは言っていた。だが、それだけで故郷であるシャムス帝国を発ち、幾年もかけて大陸を渡り歩く理由には弱い。
実際、二人は精霊や妖精の話になると、目に見えて反応していた。
特にビック家の話を聞いた時だ。
精霊がいる。妖精がいる。神獣までいる。その話を聞いた時のリョーガの目は、ただの興味ではなかった。
何かを探している者の目だった。そして、その二人が、ビック領へ辿り着く前に突然姿を消した。
偶然とは思えない。ヴェゼルが黙り込んでいると、フリードが肩をすくめながら口を開いた。
「あの二人はかなりの使い手だ。そうそう危ない目には遭わんだろうよ」
気楽な声だった。
「あのリョー殿なんぞ、去る前に“必ずビック領には行く”と言っておったからな。そのうち、ひょっこり現れるだろう」
そう言って笑う。確かに、リョーガの剣は異様だった。
ヴェゼルから見ても、一流どころでは済まない。ユーガもまた、あの年齢としてはかなりの使い手だ。
少なくとも、普通の盗賊や魔物程度でどうにかなる二人ではないだろう。
だが――。ヴェゼルは暖炉の火を見つめながら、静かに思う。
もし、本当に精霊が二人を導いたのだとしたら。
その先にあるのは、ただの旅ではないのかもしれない、と。
アリアもまた、ヴェゼルのポケットの中で小さく身を縮めていた。
どこか、不安そうに。
しばらく無言の時間が続いた後、その静かな空気の中で、フリードがゆっくりと口を開く。
皆の顔を確認するように視線を巡らせてから、低く言った。
「……今回のことでな。俺もようやく腹が決まった」
その声には、怒りも熱もなかった。
むしろ、長く考え抜いた末に辿り着いた静けさがある。
「もう、バルカン帝国って枠に、必要以上に拘る必要はないと思ってる。これはオデッセイとも話した事だ」
その瞬間、室内の空気がわずかに張った。
誰も軽く受け取らない。それが単なる感情論ではないと分かっているからだ。
辺境伯派閥との争乱。
帝都でのトラブルと謁見。
第三騎士団との衝突。
そして、皇帝周辺や貴族たちの態度。
その全てを見た上で、領主として出した結論だった。
隣でオデッセイが静かに頷く。否定も補足もしない。
すでに夫婦の間では答えが出ているのだろう。
そしてフリードは、視線をヴェゼルへ向けた。
「ヴェゼル。後々、俺の後を継ぐのはお前だ。だから、お前の意思を最優先に考える」
暖炉の火が揺れる。問いを向けられたヴェゼルは、一度だけ目を伏せた。
脳裏を過ぎるものは多い。帝都。皇帝。宰相。
やがてヴェゼルは静かに顔を上げた。
「……少し傲慢に聞こえるかもしれません」
前置きしてから、室内をゆっくり見回す。その全員を見た上で、ヴェゼルは続けた。
「ですが、現状を贔屓目なしに見れば……ビック家は、少なくとも瞬間的な戦力なら、この帝国でも負けないという自負があります」
誰も否定しなかった。
これまでの戦果を知っているからだ。
サマーセットでの戦。
クルセイダーの殲滅。
教国との戦争。
そして今回の第三騎士団。
その中心にいたのは、ほとんどフリードとヴェゼルの二人だった。
そこへルドルフとシャノンまで加わる。もはや一騎士爵家の武力ではない。
ヴェゼルは冷静なまま続けた。
「もちろん、継戦能力は別です。人数は少ないですし、長期戦は厳しい」
浮かれてはいない。現実は見えている。だからこそ、その言葉に重みがあった。
「ですが――」
一度区切る。
「ビック領は、この数年で人口も増えました。自給自足も、かなり可能になっています」
ホーネット村。次々に増えた産業。
かつて飢えに喘いでいた辺境とは、もう違う。
「それに、うちには唯一無二の特産品があります。商人の流れは今後も止まらないでしょう」
それはいずれもまだ、他領では真似のできないものばかりだ。
「教国とも商売ができそうですし、フォルツァ商業連合国との繋がりもできました」
そこまで言ってから、ヴェゼルはわずかに苦笑した。
「逆に言えば……帝都で起きた騒動は、今後確実に広がります」
それらとの衝突は、もはや隠せない。
「結局、この帝国でビック家が正当に評価されることは、今後も難しいと思います」
静かな断言だった。帝都で見たのだ。
人は噂で動く。そして貴族は、自分たちに都合の悪い真実を見ない。
だからこそ、ヴェゼルは顔を上げる。
「――提案があります」
皆の視線が集まった。
ヴェゼルは静かに言った。
「魔の森に道を作りませんか」
ローグ子爵の眉がわずかに動く。
「教国へ抜ける道です」
ヴェゼルは続けた。
「交易路を作るんです」
その瞬間だった。
フリードが、にやりと笑う。
まるで、その言葉を待っていたかのように。オデッセイも肩を揺らして笑った。
「偶然ね。私もフリードと同じ話をしていたのよ」
ヴェゼルが少し驚く。オデッセイはお茶へ口をつけ、それから静かに続けた。
「一本道なら、教国までは五十キロも離れていないわ。道さえ整えば、三日もかからず移動できるそうよ」
「そんなに近いのですな」
ローグ子爵が感心したように呟く。
オデッセイが少し笑った。
「ええ。それに――ホーネット村で、土の精霊様にも相談したのよ。“気は進まないけど、これからも世話になるんだから手伝ってやる”ですって」
いかにも土の精霊らしい物言いだった。
「土の精霊様が本気で手伝えば、一日に数キロ単位で道を作れるそうよ」
その言葉に、室内の空気が変わった。
普通なら数年単位の工事なのだ。だが、精霊が関わるなら話は別になる。
そこでシャノンが腕を組んだまま口を開く。
「俺の眷属も協力すると思うぞ」
ルドルフも「ワフ」と短く鳴いて頷いた。
最大の問題は魔物だった。だが、森の主級存在たちとその眷属が味方なら、安全性は劇的に変わる。
ヴェゼルも続ける。
「教国にはエコニックさんも、タンドラさんもいます。話せば分かってくれると思います」
むしろ歓迎される可能性の方が高い。
「お互い、利益しかありませんからね」
するとエスパーダも静かに頷いた。
「今の教国でしたら、問題ないでしょう」
元は教国の主教。そのエスパーダの言葉には重みがある。
ローグ子爵も深く頷いた。
「私も辺境伯派閥を抜けた身だ。その話にはぜひ加えてくれ」
その言葉に、フリードが楽しそうに笑う。
重かった空気が、少しだけ軽くなっていた。
そしてローグ子爵は、ふと思い出したように言った。
「……ああ、そうだ。パークウォード子爵にも声をかけてみるか」
その名に、フリードとオデッセイが同時に頷く。
暖炉の火が静かに燃えていた。
帝国から離れ始めた者たち。だがそれは、終わりではない。
自分たちの未来を、自分たちの手で築こうとしている者たちの顔だった。




