第616話 アプローズの失踪11
保管庫のあった部屋を出ても、屋敷の空気は変わらなかった。
だがそれは先ほどまでの静けさとは明らかに質が違う。
静かなだけではない。何か決定的なものに触れてしまった後の、引き返せない重さが、石造りの廊下の奥までゆっくりと沈み込んでいる。
足音は響くが、誰もそれを意識しない。
ただ、”気づいてしまったある事実”だけが、その場の空気を重く支配していた。
ヴェゼルは先頭を歩いたまま、ふと足を止める。振り返らない。ただ、わずかに息を吐いた。その仕草だけで、場の視線が自然と集まる。
「……これで、情報が大凡出揃いましたね」
低く、淡々とした声だった。
フリードが腕を組む。「言ってみろ」
短い促し。それで十分だった。
ヴェゼルは一拍だけ間を置き、思考を整理するように視線を落としてから、ゆっくりと口を開く。
「結論から言えば、今回は三つの系統が重なっています」
その一言で、場の空気が明確に引き締まる。
「まず一つ目――エリクサーが劣化していた件です」
淡々と続ける。
「ブガッティさんの研究室にも、この屋敷にも、本来残っているはずの資料がなかった。つまり、誰かが持ち出している」
ガヤルドが低く応じる。「……それは間違いないな」
「ええ。そして、その“誰か”は一人ではない可能性が高い」
わずかに間を置く。
「研究室は整理されていた。フィリーさんたちが手を入れたからですよね。一方で、この屋敷は放置されていた――そのはずでした」
視線をわずかに動かす。
「ですが実際には違う。玄関や厨房や寝室は雑然としたままだったのに、研究に使われていた部屋と保管庫があった周辺だけが、不自然なほど整っていました」
フリードが小さく頷く。
「つまり、後から誰かが侵入している。探して、持ち出して、その上で“整えた”んだと思います」
言葉にわずかな皮肉が混じる。
「痕跡を消すためか、あるいは――見せたい形に整えるためなのか」
短い沈黙が落ちた。
「その過程で、あのエリクサーの瓶が置かれた可能性が高いはずです」
そこで一度言葉を区切る。話の段を切り替えるように、わずかに呼吸を整えた。
「次に、あの劣化したエリクサーの件です」
視線が保管庫の方向へと向く。
「結論から言えば、あれは正常な状態ではないのは周知の事実かと思います」
ガヤルドが反応する。「待て、断定は――」
「断定ではありませんよ?」
穏やかに遮る。
「ただ、事実として、宝物庫から持ち出されたであろう装飾の施された瓶のエリクサー“減っていた”。そして、エリクサーは開封すれば劣化すると聞きました」
そこで周囲を見渡すと、アバンタイムと目があった。
「つまり、一度開封されているんです」
その一言が、静かに重く響いた。
場の空気がさらに沈む。
フリードが低く呟く。「……開けたやつがいる、ってことだよな」
「ええ。そして重要なのはそこですね」
ヴェゼルは視線を落としたまま続ける。
「きっと開封した者と、それをここに置いた者は、おそらく別の人物だと思います」
ガヤルドの眉がわずかに動く。
「理由は単純です。エリクサーの性質を理解していれば、劣化したものを使うはずがない。価値が落ちている以上、計画の中核にはそれを据えられないはずです。つまり、置いた側は“劣化していることを知らなかった”んではないでしょうか」
空気がわずかに揺れる。
「そして――開封した側も同じです。劣化することを知らなかったから、手を出した」
視線がゆっくりと横へ流れる。
逃げ場を塞ぐように。
「……そうですよね、フィリーさん」
名前を呼ばれた瞬間、空気が止まった。
フィリーの肩がびくりと震える。だが顔は上がらない。
「ブガッティさんの研究室から資料を持ち出した。そして実物に手を出した。……研究のため、ですよね?」
返答はない。
ヴェゼルはそのまま続ける。
「通常数ヶ月で到達できる領域ではないのはガヤルドさんが言ってました。自分もそう思います。あのブガッティさんさえ、エリクサーを再現できたかどうかもわからないものなんですよ。それがフィリーさんができるはずがない。まぁ、途中までは資料で進められた。でも最後が分からない。それでも結果を急いだ」
静かな断定。
「だから、思わず“本物”に触れてしまった。そして開封した。劣化することも知らずにね」
フィリーの膝が崩れ、石床に落ちる音が響く。
「わ、わたしは……ただ……」
言葉は続かない。呼吸だけが乱れる。
ヴェゼルはそれを見下ろし、小さく息を吐いた。
「……軽率でしたね」
責めるというより、事実を置く声音だった。
「本来なら、器物損壊、窃盗、規律違反……いくらでも罪は重ねられると思いますが」
そこで、ほんのわずかに声の温度が変わる。
「ですが――これは外には出せない話です」
フリードが視線を上げる。
「エリクサーという存在そのものが、帝国の威信に直結する以上、紛失や劣化が公になることはないでしょう」
淡々と現実を切り分ける。
「つまり、この件は魔法省内部で処理される。表向きは事故、あるいは不注意……そのあたりで収まるはずです」
誰も反論しない。
それが最も現実的だからだ。
そこで初めて、ヴェゼルはゆっくりと視線を上げた。
そして、フィリーを見る。
逃げ場のない、静かな視線。
「……よかったですね、フィリーさん」
声音は穏やかだった。
「少なくとも、表向きは守られるんです」
わずかに間を置く。
「――中でどう扱われるかは、知りませんが」
その一言で、すべてが閉じる。
フィリーの身体が、音もなく震えた。
――だが。
俯いたままのその口元が、ほんの一瞬だけ、口角が上がって歪んだ。
それは安堵でも、諦めでもない。何かを含んだ、あまりに短い笑みだった。
ヴェゼルはそれを見逃さなかった。
ほんのわずかに目を細める。だが、何も指摘はしない。
代わりに――何気ない調子で、言葉を継ぐ。
「……もっともある日突然、フィリーさんがいなくなった……なんてことも、無いとは言い切れませんから」
ゆるく、口元だけが笑う。
「身の回りには、十分お気をつけくださいね」
柔らかな声音だった。
だが――その目だけは、凍えるほどに冷たかった。
その言葉を受けた瞬間、フィリーの肩がびくりと跳ねる。
先ほどの笑みは、跡形もなく消えていた。
俯いたままの顔に浮かぶのは、明確な恐怖と――逃げ場のない理解。
自分がこの先どう扱われるのか。
それを悟ってしまった者の、暗澹とした表情だった。




