第617話 アプローズの失踪12
フィリーの嗚咽がかすかに残る中、その場の全員が黙り続けた。
ただ、場の空気はさっきまでとは違っていた。罪が露わになったことで、少しも楽にはならない。むしろ『これで終わるはずがない』という予感が全員に広がり、沈黙はいっそう重苦しくなっていった。
ヴェゼルはその沈黙を破ろうとはしなかった。
一度だけ深く息を吐き、気持ちを切り替えるように、少し間を置いた。
「――次に、ブガッティさんの自宅の件ですね」
低く、落ち着いた声だった。
先ほどよりも、少しだけ声が低く重くなる。ここから先の話は、ただの不注意や失敗で済むようなことではない。
それは、部外者が「ある意図」を持って持ち込んだ問題だった。
「この屋敷に、“エリクサーを置いた侵入者”がいます」
ガヤルドが低く応じる。「……続けろ」
ヴェゼルは、すぐに答えを出すようなことはしなかった。
あくまで事実を一つずつ積み上げる。
「この屋敷は、鍵と結界か、あるいは魔法具で管理されていると聞きました。物理的にも魔法的にも、防御は成立している構造です」
そして一息いれた後に話し続ける。
「無理に破るより、正規の手段を使う方が合理的でしょう」
フリードが眉を寄せる。「……つまり、鍵か」
「ええ。あるいは、それに準ずる権限かもしれませんね」
短く肯定し、そのまま続ける。
「そして、侵入後の動きも不自然ではない。資料を探し、痕跡を整え、必要なものだけを残した――素人の手際ではありません」
わずかに視線を落とす。
「組織的な行動と見るべきでしょうね」
その一言で、場の空気が静かに張る。
フリードが小さく息を吐く。「……帝国側か」
「可能性は高いでしょう」
ヴェゼルは否定しない。
「極論を言えば、帝国の軍部でも、それに準ずる組織でも構わないんです。機密調査や事情聴取といった名目を掲げれば、この屋敷への立ち入りも、物品の回収も、アプローズさんの誘拐すらも、表向きは“正当化”できますからね」
わずかに間を置く。
「この国はバルカン帝国ですからね。国の上層部がそう判断すれば、それが全て正しいんです」
皮肉はない。ただ事実だけが置かれる。
ガヤルドは何も言わない。
その沈黙こそが、それを認めているという証拠だった。
ヴェゼルはそこで、ゆっくりと視線を上げる。
「ですが、重要なのはそこではありません」
空気が、わずかに引き締まる。
「問題は――置かれたエリクサーの“状態”です。――あれは、すでに劣化していた」
フリードが低く呟く。「さっきの話だな」
「ええ。そして、それがこの計画を崩しました」
静かに、だが確実に言い切る。
「置いた側がエリクサーの性質を理解していれば、あの状態のものを使うはずがない。価値が前提にある以上、劣化した時点で意味がなくなる」
視線がわずかに細まる。
「つまり――侵入者は、それが劣化していることを知らなかった」
ガヤルドが低く言う。「……本気で言っているのか」
「ええ」
即答だった。
「少なくとも、扱いに慣れている人間ではない。魔法省の一定以上の知識があれば、見ればすぐに気づくはずです」
ほんの一瞬だけ、フィリーへ視線が流れる。
だが、それ以上は触れない。
「逆に言えば、実行したのは“価値の本質を理解していない者”です」
フリードが腕を組んだまま唸る。
「……軍の連中か」
「可能性はあります。少なくとも専門ではない」
淡々とした分析だった。
「そして――ここが重要です」
わずかに声を落とす。
「この無理解が、致命的なズレを生んだんです」
短く、断定する。
「本来、この計画は成立する前提で組まれていたはずです。エリクサーは価値を持ち、その価値を軸に次の行動へ繋げる――そういう設計だった」
空気が、静かに張り詰める。
「ですが実際には、“価値を失ったもの”が置かれていた。結果として――計画は破綻してしまいました」
沈黙が落ちた。
フリードが低く呟く。「……現場のミスか」
「ええ。致命的な、ですが」
ヴェゼルは淡々と続ける。
「ただし、それはあくまで現場のミスに過ぎません」
ガヤルドの目がわずかに細まる。
「……上は違うと?」
「少なくとも、設計段階では想定されていないでしょう」
静かな断定だった。
「指示を出した側は、“本物が置かれる”前提で動いている。だが実行した側は、その前提を理解していなかった」
わずかに間を置く。
「だから、こういう齟齬が生まれた」
言葉は淡々としているが、内容は重い。
「……設計した者は、“失敗する可能性”を考慮していない」
一度、そこで言葉を切る。
「――いや、違いますね」
わずかな修正。
「“失敗しても問題がない立場にいる者”だった、というべきでしょうかね」
その一言で、空気がさらに沈んだ。




