第21話 この世界のお勉強
午前はフリードがみっちりと剣を教えてくれた。
昼食をはさんで、ちょっと昼寝をしてから、午後はオデッセイの講義がはじまる。
アクティはまだお昼寝続行中。起きたらセリカとお勉強?と言う名のお遊びかな。
母オデッセイは、小さなヴェゼルを自室の机に座らせると、書きつけた羊皮紙を広げた。インクの香りが部屋に満ちる。彼女は淡い金髪を耳にかけながら、ゆっくりと語り始めた。
「ヴェゼル。今日からは、この世界のことを順に教えていくわ。あなたがただ強くなるだけじゃなく、この国でどう生きるのかを学ばなければならないから」
ヴェゼルは真剣な顔で頷いた。剣の稽古で汗まみれになる父の時間も大切だが、母の講義は別の意味で心を燃やす。
オデッセイはまず羊皮紙に大きな円を描いた。
「私たちが住んでいる国の名は――バルカン帝国。今からおよそ五百年前、ザンザス・トゥエル・バルカン初代皇帝が建国した国家よ」
彼女は皇帝の名に強調を込めた。
「ザンザス陛下は、元は一介の冒険者だったと言われているわ。でも彼は強靭な力と知恵を持ち、仲間を率いて群雄割拠の地をまとめ上げた。
魔物や蛮族を退け、荒廃した大地に秩序を与えた。そして建国を果たしたとき――冒険者仲間の一人であった人物に爵位を授けたの。それが、あなたの家系、ビック家の始まり」
ヴェゼルは目を丸くした。
「じゃあ僕の家は、皇帝陛下と冒険者仲間だったってこと?」
「そう。初代――ジョルノ・フォン・ビックは立派な戦士であり、皇帝にとっては信頼できる友だった。ザンザス陛下は、本当はもっと高位の爵位を授けたかったのだけれど……ジョルノ自身が断ったといわれているわ。『私は田舎の小さな騎士で十分。皇都で権力を持つなど性に合わぬ』とね」
オデッセイの口元には、笑みが浮かんだ。
「そのせいで、あなたの家は――建国から五百年もの間、たった一つの騎士爵のまま。陞爵もされず、皇都の人々からは『無能な田舎騎士の家柄』と蔑まれているわ。でも裏を返せば、皇家直参の特別な騎士爵なの。
通常、騎士爵ごときでは皇家に謁見できない。けれどビック家は建国の盟友として、今でも皇帝に直接謁見できる唯一の騎士爵なのよ」
ヴェゼルは思わず息を呑んだ。
――貧乏で田舎の寒村だとばかり思っていた自分の家に、そんな誇り高い歴史があったとは。
オデッセイはその反応に満足げに頷き、さらに続けた。
「けれど、現実は厳しいわね。ビック領――ホーネット村は北方の辺境。人口は二百人ほど、たった二つの村に四十戸。寒冷地だから作物はほとんど育たない。
麦は不作続きで、ひえや粟をかろうじて口にできる程度。だからこの村は、魔物の素材と魔石を売って細々と生き延びている」
窓の外を見やると、遠くに連なる山脈と、黒々とした森が見えた。
「あの森が『不帰の森』。深部に踏み込んだ者は誰も帰らない。魔物の侵入を防ぐ最前線が、この村の役割。……つまり、平和な田舎暮らしに見えて、実際は帝国の盾を担っているの」
「盾……」ヴェゼルはその言葉を繰り返した。
「だからこそ、皇都の人々はあなたの家を馬鹿にしつつも、完全に無視することはできない。辺境を失えば魔物が雪崩れ込み、皇都にまで脅威が迫るからね」
オデッセイはそこで一呼吸置いた。
「あなたの父、フリードが冒険者から戻って家を継いだのも――長兄たちが魔物のスタンピードで命を落としたから。本来なら三男である彼が継ぐ必要はなかったのにね」
ヴェゼルは、普段は脳筋にしか見えない父の背中を思い浮かべた。だが、そこには想像以上に重たい歴史がのしかかっていた。
オデッセイは机の上に羊皮紙をもう一枚広げると、そこに階段のような段を描いた。
「さて、次は爵位のことを教えましょう。これは、あなたが生まれ持った身分でもあるし、将来必ず向き合うことになるものだから」
ヴェゼルは背筋を正した。母の声が自然と心を引き締める。
「帝国における爵位は下から順にこうよ――準騎士爵・騎士爵・準男爵・男爵・子爵・辺境伯=侯爵・公爵・皇族」
オデッセイは一段ごとに指を置いていく。
「準、と付く爵位は、帝国そのものから与えられたものではなく、辺境伯や侯爵、公爵といった大貴族が授与するもの。だから、世襲ではないわ。例えば準騎士爵は一代限り。子に継げない」
「ふーん……じゃあ僕の家は?」とヴェゼル。
「あなたの家は特別。騎士爵だけれど、建国以来の王家直参。代々世襲で受け継いできた数少ない騎士爵よ。だから軽んじられつつも、王家に直接会える格式がある」
オデッセイはそこで少し声を潜める。
「それともうひとつ。教会が関わる爵位がある。収納魔法の持ち主を見つけた場合、イマ・キムザ教はその者を強制的に保護下に置く。そして――『準騎士爵』を与えるの」
ヴェゼルの胸がざわめいた。
オデッセイは息子の表情を読み取り、優しく微笑んだ。
「心配はいらないわ。あなたは私と父さんに守られている。それに、この力の本質はまだ誰も理解していない。だからこそ、正しく学ぶ必要があるのよ」
彼女は再び羊皮紙に視線を戻した。
「爵位のうち、特に重要なのは辺境伯。東西南北の四侯で、帝国の国境を守る大領主。実質的には侯爵に等しい権限を持つ。彼らの下に子爵や男爵が並び、そのさらに下に騎士爵や準爵がある。……そして頂点には皇帝陛下」
ヴェゼルは母の指が階段を上り詰め、最上段を示すのを目で追った。
「今の皇帝は――アネーロ・トゥエル・フォン・バルカン陛下。皇后はエプシロン・トゥエラ・バルカン。皇子はシェルパ・ラエモンス・バルカン、あなたの二歳年上。そして皇女、エストレヤ・ラエダム・バルカン――彼女はあなたと同い年ね」
「……同い年の皇女様か」
ヴェゼルの胸が妙にざわついた。
「皇族の子息には必ず『ラエ』が入る。皇帝陛下には『トゥエル』がつく。女性皇族には『ダム』、男性皇族には『モンス』。爵位にはそれぞれ名乗り方の決まりがあるの。例えば、当主には必ず『フォン』が付く。嫡男は『パロ』。陞爵すれば『フォン』になる」
「僕は……」
「あなたはヴェゼル・パロ・ビック。襲爵すればヴェゼル・フォン・ビック、この国ではそう呼ばれるの」
ヴェゼルは小さく頷いた。
(父がただの脳筋じゃなくて、ちゃんと爵位を背負ってる人だってことが分かるな……)
オデッセイは話題を切り替えた。
「さて。爵位と同じくらい大切なのが――学園よ」
「学園?」
「ええ。帝国には貴族も平民も入学できる大きな学園がある。入学は十二歳から十六歳までの四年間。貴族の嫡男は入学が義務。平民や次男以下の貴族子弟は任意だけれど、お金を払えば誰でも受験できる」
「お金を払えば……誰でも?」
「そう。でも学費は平民の一年分の所得に相当するから、誰もが簡単に払える額ではないわね。入学試験はあるけれど、それはクラス分けのための試験。筆記と実技――魔法かスキルの適性を見るの」
ヴェゼルはふむふむと頷いた。
「入学したらどうなるの?」
「学園生活は四年間。春に入学して翌年の三月で一学年が終わる。夏休みは二ヶ月、冬休みは一ヶ月。寮生活が基本だけれど、王都に屋敷を構える貴族は自宅から通うこともできるわ。……ただし、卒業できなければ――貴族の世襲権を失うの」
「えっ、じゃあ落第したら……」
「爵位を継げない。だから皆必死に勉強する。逆に、成績上位十名に入れば特待生として学費免除。これは貴族でも平民でも関係ない。本当に卒業できなかったら、最悪、途轍もないお金を積めば卒業資格を買えるっていう噂もあるけどね」
オデッセイはヴェゼルの目を見据えた。
「表向きは爵位に関わらず平等。でも、実際には貴族同士の派閥争いや人脈作りの場になる。将来、帝国で生きるなら――学園をどう過ごすかがあなたの人生を決める」
ヴェゼルはごくりと喉を鳴らした。
オデッセイは微笑む。
「だからこそ、私はあなたに知識を授ける。父さんは剣を教える。アクティもいずれ……小さな背中を追ってついてくるでしょう」
ヴェゼルは小さな拳を握った。
(今はまだ子どもの体だけど……僕には学ぶ時間がある。この世界で、必ず強く生き抜いてみせる)
その決意を見て取ったのか、オデッセイは柔らかい声で言った。
「大丈夫。あなたはビック家の血を継ぎ、そして私と父さんの子。未来を背負うにふさわしい存在よ」
ヴェゼルは、自分の胸に手を当てた。
(……は、はぁ……すごい。ずっと聞いてた……)
さっきまで母は、爵位の仕組み、学園の制度に至るまで、難しい言葉を何時間も語り続けていた。
普通なら退屈で途中から眠ってしまうだろう。けれど――。
「……全部、頭に残ってる」
小さくつぶやいたヴェゼルに、隣で聞いていた父フリードが片眉を上げた。
「おい、ヴェゼル。お前、眠くならなかったのか?」
「うん。むしろ、もっと聞きたいくらいだった」
フリードは思わず口笛を吹いた。
「へえ……俺なんか、昔オデッセイに同じ話をされたときは三分で頭が爆ぜそうになったもんだがな」
その言葉にオデッセイが「まあ失礼ね」と軽く笑いながらも、ヴェゼルに視線を移す。
「そう感じられるのは立派なことよ。普通の子なら、まず最初の話のあたりで退屈して机に突っ伏してしまうわ」
ヴェゼルは自分でも驚いていた。
(難しいのに……なんでだろう。言葉がすっと頭に入ってきて、頭の中で形になるみたいで……)
母の話す声が心地よく、内容は複雑なのに不思議と理解できた。
「……僕、ずっと聞けたんだ」
呟いたその声は、どこか自分への驚嘆の色を帯びていた。
オデッセイは優しく微笑んで言った。
「それはきっと、あなたが知ろうとしているから。知識を求める心は、どんな魔法よりも強い力になるのよ」
ヴェゼルは胸を張った。
(僕は……ただの田舎の騎士爵の息子かもしれない。だけど、この力なら……きっと学園でも負けない)
心の奥で、炎のように熱い誓いが芽生えていた。
オデッセイが話を終えた後も、食堂には静かな空気が流れていた。窓の外では、夕暮れの光が淡く照らしている。
ヴェゼルは小さな手を机の上に置き、無意識に握りしめていた。
(十二歳から学園……僕にはまだまだ時間はある。けど、その間にどこまで準備できるかが勝負だな)
オデッセイはそんな息子の表情を見て、少し笑みを浮かべた。
「考えているわね、ヴェゼル。大人みたいな顔をして」
「……あ、いや」
慌てて取り繕うヴェゼルに、母は首を横に振った。
「いいのよ。それだけ先を見て考えられるのは立派なこと。でもね――気をつけなければならないことがある」
彼女の声が少し低くなった。
「学園は平等を謳っているけれど、実際には血筋と魔法の優劣が渦巻く場所。火や水、土や風の大魔法を誇る貴族の子たちにとって、収納魔法なんて取るに足らないものと映るでしょう」
ヴェゼルはうつむいた。確かに今の自分の力は「りんご一個分」。笑われるのが目に見えている。
しかしオデッセイは続ける。
「だから、隠しなさい。少なくとも、あなたの収納が普通とは違うことは」
ヴェゼルはごくりと唾を飲んだ。
「だからこそ、学園に入るまでに二つ準備するの。ひとつは――剣の技術と魔法理論を身につけ、収納に頼らずとも一人前として立てる力。そしてもうひとつは――収納魔法の真価を、信頼できる人にしか見せない慎重さ」
ヴェゼルは拳を握り、母の言葉を心に刻んだ。
(隠すべき時と、使うべき時。その見極めが必要なんだな)
オデッセイは微笑んだ。
「七年は長いようで短い。あなたは父から剣を、私から知識と魔法を学び、妹や仲間と過ごしながら、自分の力を磨いていく。そのすべてが学園で、そして帝国で生き抜くための礎になる」
彼女は最後にヴェゼルの肩に手を置いた。
「ヴェゼル、あなたは特別よ。だからこそ、強く、そして賢くあらねばならない。覚えておきなさい」
ヴェゼルは深く頷いた。
小さな体に収まりきらないほどの決意が胸に広がっていた。




