15 覚えて損はありませんよ?
「やはり、勇者の仕業ですか。よく帰ってこられましたね」
「あー、うん、まあ……」
歯切れの悪いアヴィの回答に、妖魔たちが笑う。”箱庭”から帰ってくるには正規の扉を開かなければならない。そしてそれは、庭園の中に開いたりしないのだ。それが出来る存在など限られていることを、彼らは知っている。故に、口止めされたのだろうと――その相手が誰なのかまでも、簡単に予想がつくのだ。
「明日迎えに来る、ですか。さて、…貴方がいないことを知ったら、どんな顔をするんでしょうね?」
「あら、最初からアヴィを連れて出迎えに出ればよろしいのでは?」
くすくすと、意地の悪い二人である。
「それも悪くはないのですけれど。……無駄足になりそうですし」
「ああ、それは有り得ますわねぇ」
そうだね、と二人の会話にアヴィは内心で同意する。あの少女、……すごい表情だった。あれがそのまま勇者に向かうとなれば――予想がつかない。彼らがこの国の主と認めている相手なのだから、よほどすごい人なのだろう……か?
(いや、どうだろうそれ……お守り役とか言ってたよな)
まあ見た目からしてもそれが必要なのだろうということは、納得だ。でもあの様子だと、イーリスの認識――少なくとも、「問答無用で上書きを仕掛けてくる」というのは、何やら事情がありそうだ。本人はわかっていて、それでも訂正する気はないようだし、自分にも何も言わなかった。もう一度会ったらそのときには、…聞いてみようか?
「アヴィがいないと分かった後、勇者がどんな態度を取るか、見物ですね」
「悪趣味ですわよ?」
聞こえた言葉に、アヴィは渋面を作った。もう面倒なので、出来れば関わりたくない。そう告げようとして彼を見て、息を呑む。イーリスのその笑みが、デカラビアの優しい笑顔が、何れも冷たい瞳で塗り替えられていることに。
「お疲れ、さまー?」
そんな中にさわやかな声が割り込んだ。アヴィがあからさまに安堵したことを見て取って、デカラビアとイーリスが顔を見合わせる。その笑みは苦笑――に近いものだった。
「疲れたよー」
手を振るラースに、アヴィも応えたのだった。
※ ※ ※
案内されたのは、先の部屋とは違って、客間として設えられた部屋だった。
それぞれが好きに茶を飲み、菓子を摘んで話は始まった。
とりあえず散らばったチップなどはどうにか片付け終えたとラースは誇らしげで、イーリスがちょっとだけ視線を逸らしたのは…やはり罪悪感である。ちなみにラース自身は、チップの中身を読むことは出来たので、分類も済んでいる。出来ないのは、先の”自動書記”の術式そのもの、なのでイーリスに任せた結果があれである。
と言うことで、お詫びと慰労を兼ねてお茶会再び、である。片付けに必死だったとかで、イーリスが造り置いていった分はそのまま、残されていた。
「あれだけはねぇ……」
「昔からそうですからねぇ」
首を傾げるアヴィに、イーリスはあっさり暴露する。術式は、他人へと譲り渡すことが可能だ。だからといって、譲り受けた側があっさりそれを操れるかというと、そんなことはない。先のイーリスのように改変に失敗することもあるし、興図に至っては継承すら出来ない妖魔も少なくないのだと。
「……万能ってわけじゃ、ないんだ」
「万能には程遠いですよ」
「せいぜい便利屋だねぇ」
それが彼らの…イーリスの友人たちによる、”妖魔という存在”の共通認識である。
「でもアヴィくん、災難だった、ね?」
「あー…いやー…うん……それより、採寸のほうが嫌……」
アヴィの歯切れは悪い。箱庭へ放り込まれたと知ったときこそあれだったが、それよりも、もう二度と採寸を受けたくない、というのが心境である。
「そんなに大変だったっけー?」
「面倒ではありますが…そこまで言いますか」
「あれで根を上げたら、その後の仮縫いあわせも、面倒ですわよ」
苦笑しつつも、ラースに忌避感がないのは、あまりにも昔のことで忘れたからでは、とイーリスが補足した。やはり思ったとおり、成長しないというのは楽でいいなとアヴィはそこだけ羨ましがる。
「あれ、なくなっちゃった?」
「あら、本当ですわね?」
わざとらしく空の籠に手を伸ばしたラースと、それを見ていたデカラビアと、味もわからないしとほとんど彼らに譲って食べなかったアヴィは、揃ってイーリスを見た。むろん、その意味がわかるイーリスではあった、けれど。
「ふふ、今日のところはお暇いたしましょうね。もう日も暮れましたし」
「ちょ、イーリスくんっ!? 帰っちゃうの!?」
「相変わらずですわね。出来ればもう少し、頂きたかったのですけれど」
「まだ食うの!?」
え、とデカラビアがアヴィを見た。何も知らされていない彼女は、アヴィの発言が理解できない。残る二人は笑った。食事が不要ということは、いくらでも食べられるということでもあるのだ。
「今から作り直したら夕食になってしまいますよ。明日また来ますから、そのときに」
「えー。夜食はー?」
「せめてつまみをご用意いただけませんか? せっかくですので、露天風呂を楽しみたいですわ」
「露天風呂?」
思わず反応したその言葉に、イーリスは口元を押さえる。心情的には、引っかかった己に舌を打ちたいところである。
「ええ、露天風呂です。水路をちょっと引きなおして、湯が沸かせるようにしてありますの。なかなか、風情がありましてよ?」
いつの間に、とイーリスは絶句する。ここは庭園であり、裏手とは言え妖皇宮の一角であり、温室は研究施設であるがためで、彼らの住まいと化しているけれど、本来の住まいではない。よくもそんな許可が下りたものだ。
「庭園の一部を改装したいと申し上げましたら、面白がって。いずれ招待することにはなっていますけれど、まだ実現していませんの」
誰をだ、イーリスは内心で突っ込みを入れる。だが、該当者などどう考えても一人しかいない。何しろ個々は妖皇宮でありながら、ラースの直轄だ。国の主以外に、許可を求める必要はない。そして歴代が皆、「やりたいならやれば?」と応えるに決まっている。先代辺りはそれでも招待するという話にはならないだろうが…当代は。
「少し大変だったようですが、釜も用意しましたし、本当の湯が沸くようにしてありますのよ?」
追い打ちがかかるが、イーリスは聞き流そうとした。この部屋だって、とイーリスは内心で溜息を吐く。そもそも必要はないはずだ。彼らが休むための部屋は別にあるし、料理は一切しない。デカラビアは天板を任せたくらいには出来るけれど、まずやらない。せいぜいが庭園に実った果物を甘煮にするとか、その程度だ。客など来るはずもないのに、実に自分好みに仕立てられている。隣接の厨房も含めて、だ。
そんな彼を見ながら、アヴィはラースを見た。にひひと笑ったその顔に、思いは同じと悟る。すなわち――。
((葛藤してる、面白い))
である。
その間にもデカラビアは、とうとうと露天風呂に対して語っていた。庭園職人では流石に無理だといわれてその伝手を辿ったのだとか、散湯も作ったし、打たせもつくったし、寝転がれるように広く浅い湯船も作ったのだとか、熱く熱く語り聞かせた。
そんな彼女を、実は呆れた内心で見守っているのがラースである。彼女は本来、あんな性格をしていない。熱く語るあれは、…たぶん温泉大好き魔王さまの影響だ。というか、たぶんその真似だから、説得できてしまえば鳴りを潜めるはず…だ、たぶん。
「山手から岩を運ばせて設えました。見るだけでも、如何です?」
ぐ、とイーリスは拳を握り締める。おお、とアヴィは感心した。どうやら振り切る覚悟がついたらしい。しかし、ラースはにやりと笑った。あれは心が決まったというだけで、振り切るかどうかは別なのだよ、と。
「――つまみで、いいんですね?」
「結局そうなるのかよ!?」
ふふふふふと笑うデカラビアは、うきうきとした様子でそこを立ち去った。湯を沸かすのに時間がかかるから、準備に取り掛かるらしい。
ラースは皿などをまとめて片付けて、隣室へと消えた。残されたアヴィは、大きな溜息を吐いたイーリスに手招きされて、ラースと同じく隣室へ。…そこで宙に浮く皿とそれを洗う何かという不思議な光景を見たが、イーリスからの説明はない。かわりに、手を洗わされた。
「…やっぱり、オレもやるんだ」
「覚えて損はありませんよ?」
「ラースは?」
「……触らせる気はありませんよ」
低くなった声は、惨事を予感させたことだろう。起用に皿を洗っているし、作業自体はひどいことにはならない。味も分かるし、へんなこともしないのだが…壊滅的なものが仕上がるのである。「味重視としてもそれはない」と、思わず言ってしまった程度、には。
「……? じゃあこの部屋…厨房? は?」
「私のためのものですが、何か?」
屋敷の厨房には劣るものの、中々に広く、使い勝手は悪くない。常備されている食材が保存の利くものばかりなので、あまり手が込んだものは出来ないけれどまあ、ツマミ程度は十分に出来る。本格的に食べたいときは屋敷へ呼ぶか、彼が適当に食材を用意したところへ呼び出されるのが常である。
ちなみにこの道具類は、エレーミアが交易で入手し、国内で販売されている代物だ。やはりこれも、いきなり壊れるという危険さから術による作成は忌避される傾向にある。保存食に関しては、交易商人から手に入れた妖魔たちが面白がって作り上げたりしているので、手には入りやすい。
「まあ、無理にとは言いません。指示は出しますし、教えますからやってみましょう?」
用意するのは酒のツマミなので、さほど難しいものではない。料理の手始めには悪くないだろう。それに、予定していなかった来訪だからそもそも生の肉や魚などはない。チーズや乾物、燻製肉はそこそこあるし、小麦粉や果物、それから……。
「……手回しのいいことですね。楽に行きましょうか」
苦笑したイーリスが見つけたのは、昼間にここを使ったときにはなかったものである。堅麦焼が二種、長いものと短いものが増やされている。たぶん、デカラビアの仕業だろう。”妖皇宮の調理人”から分けてもらったに違いない。それも、自分が作ることを見越して。
一、二枚を切って見せて、アヴィにはそれをスライスさせる。パン切り包丁もあるし、難しい作業ではないからとそれを任せ、自身はそれに乗せる具にとりかかった。
卵は自ら茹でて、半熟になるまで待つ間に燻製肉を薄切りにして、同じく薄切りにしたチーズでミルフィーユに。それからブルーチーズを賽の目に切り、葉野菜を千切りにしたものと軽く和える。よく見たら燻製鮭もあったので、同じく薄切りにしておいた。茹で上がった半熟卵はスライスし、クラッカーに載せておく。それから、…缶詰を見つけてしまった。
「……鱘の卵ですか」
確かエレーミアの近海で獲れたはずだが、そんなものまで手に入れたのかと苦笑した。これはもうそのままに、ただし合わせるのは黒パンである。
「って、アヴィ、もういい、もういいですよ!?」
「え?」
いったい彼は、いくつ切ったのだろうか。四人で食べて余りあったあの籠に詰めこんだだけでなく、その周りにも山のように薄切りのパンが積み上げられていた。
「…まあ、あればあるだけ食べますから別に、問題ありませんけれど。それよりアヴィ、氷を造りますからちょっと妖力を貸してくださいな?」
「へ?」
アヴィの目の前に、外から水の塊が飛び込んできた。珠のようなそれが一気に凍り、小さな氷山が出来上がる。だが、それが何故かアヴィについて歩いた。
「なに、これ?」
「氷ですよ?」
「そうじゃなくてさ!?」
術で小麦粉を篩にかけつつ、手元では卵を溶きつつイーリスは答えた。
氷なので、溶けるのである。それを避けるには、冷やし続けるしかないのである。しかしそれを自分でやると妖力を消耗するし、ほかの術を使うことも出来なくなるので、彼に押し付けたのだ。ちなみに用途は、後ほど作ろうとしているサングリアである。のでまあ、実は適当な器に入れておけばそれでもいいのだが、彼一人暇にするのも面白くないのでこういう状態になった次第だ。
軽く砂糖を入れて粉と卵を混ぜて、水を追加してダマがなくなるまで混ぜたらいったん避けて、鉄板をコンロの上に敷く。
「でか!? なにそれ!?」
「鉄板ですよ。薄焼きとか造るのに便利なんです。あ、アヴィ。暖炉の薪、組み方わかりますか?」
「――”薪を組む”。暖炉、焚火などで、火が燃えやすくなるように薪を並べる方法。井桁組みは屋外で短時間、火の勢いを重視する際に向き、開き傘は長時間、ゆっくりと燃やす。料理などにはこの開き傘の骨を五本程度に抑えたものが推奨される」
くす、とイーリスは笑う。指定するのは、もちろん開き傘だ。もっともこの厨房にではなく、隣室の暖炉である。先ほどは誰も何も言わなかったので、そもそもついていなかったのだ。指示したあとで組めるのかと不安になったが、上手いこと暖炉の中に収めてくれたので、まあいいだろう。言葉だけではなく、実際にどうすればいいのかも分かるらしい。便利なことだ。
さて、と自分は鉄板をコンロに乗せた。四口のコンロが埋まる大きさである。炭火式のコンロなので少々コツがいるし手間もかかるが、熱が通ってしまえば後は早い。これは輸入品ではなく、エレーミア住まいの職人が作ったものだ。正確には、職人に技を習った妖魔――まあ、弟子入りした妖魔が、ということらしいが。特に変な術の付与もなく、ただ熱だけは見事に均一に伝わるので重宝している。
鉄板そのものを術で熱する方法もあるのだが、それだと中々熱が広がらず、黒こげと生焼けが同居するので、この大きさでやろうとは思わない。まあ炭火コンロのように熱源を複数個所に設定して同時に熱すればと考えたこともあるが、そもそもこの厨房にしかない品なので、使う機会がないこともなり、開発はやめた。
ちなみにこの上で作るのは、薄焼きである。すぐ食べるので、別に生地を寝かせる必要はない。ちゃんと生地を広げるためのトンボもあるので、とりあえずは鉄板が温まればいい。
それを待つ間にイチゴを薄切りし、小鍋に水と一緒に入れた上に蜂蜜を軽く追加して、暖炉にかける。軽く煮詰めればコンポートの出来上がりだ。同じやり方で林檎も追加し、焦げ付きを防ぐために混ぜるようアヴィに指示を出して戻ると、いい感じに熱が回っていて、さくっと焼けた。裏返す際に少々破れたが、まあ仕方が無いだろう。クレープを作るのはずいぶんと久々だ。一口サイズに切り分けて好きに食べられるようにしたら、出来上がりである。
まだ当分は鉄板が熱いままなので、その上に薄切りのパンを乗せて、焼いておく。カリカリに焼いたものがイーリスの好みであるが、たしかデカラビアはそうでもないので、半分は焼かずにおく。まだ余裕があったので、林檎を薄切りにしてこれも焼いておくことにした。まあとりあえずは、これくらいだろう。
「…すごい量だな?」
「そうですか?」
いつもこの程度は作るので、大した量だとは思っていないイーリスである。これがまた、館で作るとなると流石に自身も疲れる程度の量になるのだが。
そこへひょこ、とラースが顔を出した。
「用意出来たよー?」
「あら、早いですね。こちらも一通り出来ましたよ」
その応えに、ラースが嬉々として荷運びを申し出た。手伝おうとしたアヴィだったが、綺麗に水平を保ちながら自律的…に飛んでいく器を見て諦めたらしい。彼について案内されて。
「じゃ、アヴィ君借りるから。イーリスはあっちね?」
「え?」
デカラビアが待つ先を示されて、イーリスが首を傾げる。別に、皆一緒でいいのでは、と。
「いやいやいやちょっとまてお前今女だってこと忘れてないよな!?」
「あ」
そうでしたね、とイーリスが口を押さえた。ただ本人の自覚としては男なので、それを鑑みるとデカラビア…紛うことなき女性である彼女とともに、というのはどうかと思ってしまう。だが彼女に気にする気配はなく、またラースたちもとっとと脱衣場へ消えてしまったので、仕方なく招かれるままにそちらへ行った。
「……こういう仕組みですか」
「ふふ、驚かれました?」
何のことはない、脱衣場が分かれているだけである。一応は配慮してあるらしいが、既にデカラビアは着替えて――湯浴み着姿であった。まあこれなら、アヴィとても気づくまい。用意されたそれに着替えて、招かれるままに歩き回る。散湯のつもりか、まずは打たせ湯が用意されていた。どうやってと思ったが、これもまた水路の仕組みの応用らしい。つまりこの露天風呂に、妖力は一切消費されていないということである。まったく、と聞いたときには笑ってしまった。妖力を使わない不便さを楽しむことを、確かに教えはしたけれど、と。
湯を滴らせる髪は軽く編んでおく。中々に心地よい打たせ湯であったが、せっつかれるようにして次へと誘導された。そしてそれは打たせ湯の裏側である。
「――また、すごいものを」
感嘆と呆れ、その両方で声が漏れる。ふふん、と笑うデカラビアの声が聞こえたような気がした。
まるで、棚田である。岩肌を掘って湯船とし、それが麓まで続いている――そんな感じだ。いや、実際にそのものか。
「……これ、本当に彫ってますね」
「ええ、職人たちが頑張りましたよ」
自分でやれ、と思った。というか、この岩、どうみても自然のものには思えない、と。
「岩はねぇ、僕が用意、したよー」
のんびりとそのうちの一つに浸かりながら、ラースは上から声をかけた。高さとしては、イーリスの頭の更に上である。一番高いところは、下手をすると館の2階――その屋根に届くのではないだろうか。そんなことを思いながら、てんてんと通路を登り、湯船の一つに入る。溢れた湯がざばざばとラースを襲うが、けらけらと笑うだけである。用意したつまみなどは、一切が湯をかぶらない…備えは万全のようだ。
とはいえ、「用意した」には、少々語弊があるだろう。岩やら何やらをかき集め、術で溶かして固めなおして大まかに形を作っただけである。どこぞから持ってくることは可能だが、流石にこれほどの岩山は、そこらで転がっているものではない。
そんなあたりをデカラビアに聞かされつつ、イーリスは湯船を堪能していた。だがふと、人数が足りないことに気づく。
「…アヴィは、どうしました?」
「んー? 上のほう行くって言ってたよー?」
「上?」
階段状にしてあることには理由があって、実は下がってくる間に湯の温度が下がるのである。下に行くほどぬるくなり、彼らがいる辺りはそう、長湯するのにちょうどいいという程度のぬる湯である。逆に言うなら上のほうが熱いのだが、と見上げると。
「あら、いますね」
「ねー、いるでしょ」
湯船に身体を預けてぐだっているアヴィがいた。くすりと笑って、イーリスは湯船に身を沈める。ぬるい湯だからこそ出来る真似だが、そのまま頭の先まで浸かりこんだ。足を伸ばして余りある広さに、たぶんこれを狙って創ったのだろうと笑みが浮かぶ。いつの間にやら遊び方を覚えたかと、感慨にふける。
実を言えば、それは少し違うのだ。確かに足を伸ばして全身が浸かるようにという計算であることは間違いないが、この露天風呂自体が罠である。それも、イーリスを捕らえるためだけの。基本が館に篭りきりで、せいぜいが自分の領地までしか出歩かない彼を誘い出し、足止めするにはどうすればいいか。何があればいいか。それを皆で考えたときに出た結論が、この”露天風呂”である。
――確か、どこかで温泉を掘って別荘にしたとか言ってなかったっけ?
――ああ、あるぞ。今も配下の誰かしらが保全している。たまに借りてるから、間違いないぞ?
そんな会話から、導き出された結論である。ただ、彼に確認したことはない。その別荘のことを話しても、聞こえないから。
「とりあえずは、成功かな?」
「ええ、成功ですわね。――今度は、彼らも呼びませんとね」
「だねー」
用意されたつまみを楽しみながら、二人はひそかに笑う。流石にあの状態で聞き耳を立てるとか、それはないだろうが、まあ悟られないように会話しておくに越したことはない。悟られても問題はないけれど。
「…あの坊や、ずいぶんと熱い湯が好きなのですね?」
「んー? あー…そう…って、いやいやいやいやいやいや!?」
ざば、と慌ててラースは湯船から立ち上がった。熱湯、とまでは言わないが、上にいくほどかなりの温度である。そして妖魔の身体は人間の身体を模したものであり、ぶっちゃけ、強度その他は人間と大差ないのだ。熱い湯が好きだとしても限度がある、流石に未だあがって来ないのは長すぎるし、そういう目で見れば先ほど、既にあれば意識を無くしていたのではあるまいか。現界したての妖魔でもやらかすことである、彼はメモリアであってそういった知識が皆無だとすれば。
「ちょ、イーリスっ! アヴィ君ひっぱり出すよっ!」
一足飛びにアヴィの湯池まで飛び上がり、引き上げようとしてその熱さに怯み、仕方なく湯を一気に吹き飛ばしてその隙に引っ張り上げる。あつつと何やら声が聞こえた気がしたが、完全に茹だっているアヴィを前に、かまう余裕はない。
「ラース、こちらへ」
状況を理解して、デカラビアはラースを招く。やりたくはなかったが緊急事態と、湯池の一つを水に近いぬるま湯に変えたのである。ぼちゃん、とアヴィがその池に放り込まれてちょっとしたころ、イーリスが下りてきた。
「あら、のぼせましたか」
「それで済めばいいけどね?」
無責任な、とラースがイーリスを睨みつけた。そう言われても、というのが正直なイーリスの心境である。
「すみますよ、人間じゃないんですから」
「だからってねぇ……!?」
ふ、と笑ってイーリスがアヴィの額に手を当てた。少しして、アヴィが目を開く。
それを見て、イーリスは笑い、ラースは息を呑み、デカラビアは首を傾げた。
「せっかくです。ここで自己紹介しては如何?」
「――……」
ぼぅっとしたその顔に、声が聞こえている様子はない。その目もはっきりと開かれたわけではなくて、半分眠っているかのようだ。
「名乗りなさい」
やさしく、けれどはっきりとイーリスが命じる。何者であろうとも、その身体はアヴィのもの。故に、命令に逆らうことなど出来はしないと。
けれど、その反応は予想と違った。力なく、首を横に振ったのだ。
逆らえるのかとイーリスが驚き、しかし合点する。あの盟約は、あくまで同等。納得のいかない命令なら、拒否も出来て不思議はない。だが、名乗ることになぜ、抵抗がある?
「わたしは……残滓ですから……」
それだけ応えて、目が閉じられた。次の瞬間には青い目が開かれて、ぱちくりと自分を囲む面々を見回した。
「アヴィ?」
「あー…イーリス?」
ええ、とイーリスが頷いた。ラースと、デカラビア。その二人がいることも認識できたようだ。起き上がろうとした彼だったが、力が入らないのか湯池――水池にざぶりと沈む。慌ててラースが拾い上げて、水を吐かせた。
「ってか水飲んじゃったんだ?」
「どうしてそんなことになるんです?」
ん、とラースはイーリスを見た。イーリスはどうしてと首を傾げかけ、ぽんと手を叩く。
「そういえば、言っていませんでしたね。アヴィは、メモリアなんですよ」
「――ああ、それで」
納得したとデカラビアが頷く傍らで、ラースは甲斐甲斐しくアヴィを助けていた。何が起きたかと確認すれば、単純に湯中りらしい。熱い湯は好みにあったが、あがろうとしたときには既に足に力が入らず、実はイーリスがそこにいるなあと思いながら動けないままになっていたらしい。聞くともなくそれを耳にして、イーリスは溜息を吐いた。
「その程度、考えて動きなさいな。次は、ありませんね?」
はい、と項垂れつつ、アヴィが起き上がる。そして正面のイーリスを目にして、固まった。
「アヴィ?」
声をかけてもパクパクと口が動くだけで、答えはない。が、ぎゅっと閉じられたその目が理由を物語ってくれた。それに気づいたのは、デカラビアである。
「フェネクス? あなた、湯浴み着はどうしました?」
「え? …あら、脱いだ覚えはありませんが――もしかして、術で造ったものです?」
デカラビアの肯定で納得である。普通は簡単に消えたりしないけれど、彼女が創ったものは例外なのだ。そう、実際に服が消えるということを知らしめるために利用されるくらいには。
そのアヴィの様子が面白くて、イーリスは思わず彼のいる水池に身を滑らせた。何が起きたかと目を開いたアヴィを後ろから抱きしめて、ついでに足も自分の上に乗せてみた。
「ちょ、ま、まーっ!?」
「イーリス君!?」
「何をしているんですか!」
だが内心一致とは行かず、デカラビアに至っては本気のお叱りモードである。
「いくらなんでも見過ごせませんわ! ――がいないからと言って破廉恥な! 確かにあなたはそういう方でしたけれど!」
かちり、とまるで音がしたかのようにイーリスが動きを止めた。ああ、とラースは思い出す。デカラビアが魔王になったとき、その一端に彼女がいたのだ、と。でも、とその事実に気づき、ラースまでもが動きを止める。デカラビアは今、なんと言った? 自分に聞こえなかったそれは、…まさか、彼女の名前なのか?
くどくどと説教を続けるデカラビアだが、イーリスに聞こえている気配はない。ああ、そうだ。聞こえるはずがないのだ。だから自分は彼にその話題を振らなくなったし、自分以外は――誰一人として、思い出していないのだから。
「――ねえ、デカラビア」
静かに、呼びかける。アヴィにそのことを確認する、その意味も含めて。ちらり、と視線だけが返された。説教が止まったから、呼びかけを無視する気はないらしい。
「君は、僕の親友さんを覚えているのかい?」
「ええ、覚えていますわよ。皆は綺麗に、忘れてしまったようでしたけれど」
責めるような響きの声に、ラースは苦笑した。否定が出来ないどころか、事実である。自分が思い出せたのは、偶然が重なった結果に過ぎないのだから。
”自動書記”、あの術式を習得するために、様々な方法を試していた時期があった。読み出してそのまま記述するということが出来なかったから、自分の記憶を書き出して保存できないかと考えて実践したことがあるのだ。存在も忘れていたそれを見つけたのは、いつのことだったか。だがあいにくそれは、映像として記録したものに過ぎなくて、彼女がいたことを思い出したというよりは、覚えなおしたということが正しいだろう。・・・ときどき空く、記憶の穴に入るべき相手だ、と。
「彼女はさ。綺麗な赤い髪で、赤い瞳――だよね?」
ええ、とデカラビア――デカラビアが頷く。とても優しい笑顔で。
「どうして? どうして君は、覚えてるの? 僕でさえ、名前を思い出せないのに」
「知りませんわ。わかっているのは、わたくし以外に誰も、――のことを覚えておらず、フェネクスに至ってはこの様子、それだけです」
それだけじゃないよ、とラースは泣きそうな顔で呟いた。
「聞こえないんだよ、名前が。今も――今、君が口にしたのに!」
そうですね、とデカラビアはただ頷いた。それも、知っているのだ。知らぬそぶりの皆と話しているうちに、気づかされたから。だからきっと、何らかの術がかかっている。総結論付けたのは、もう遠い昔のこと。そしてその術を解くための手も、検討はしていた。だが、彼ほどの自由が利かない己が身に、歯痒い思いをしているところだ。まさか、こんな身近に例外がいたとは思わなかった。だが彼は、――この国を出られない。
「――て、さ。例の、あれ? イーリスの恋人?」
だから、その声が聞こえて思わず彼を凝視したことは――恥じらいを持って詫びるべきだろうか。でも、彼は今、確かにそのことを口にしたのだ。
「――アヴィ。あなた、聞こえたのですか?」
「アヴィくん、もう一度、言って? 彼女の名前、わかる?」
「ん、違った? ――、だよね?」
期待を込めた目で、ラースはデカラビアを見た。ええ、と力強く答えが返る。間違いなく、彼にはそれが聞こえている、と。
「彼女のことを、教えますわ。だからどうか、手伝ってくださいまし」
その真摯な声に、だろうか。それとも迫力に? いずれにしても、アヴィははっきりと、頷いた。
前作からがらりと変わっています。てかデカラビアが女性だったの忘れてたんですよぅ…




