9 ま、ここはそういう国だと理解すればいいさ(改)
「いって、ぇ…っ!?」
目覚めたとき、アーヴェントが感じたのは強烈な頭痛だった。と言うよりも、頭痛で目覚めさせられたというべきか。何かに締め付けられているようなそれは、人間なら”二日酔いのひどい奴”と言い表したことだろう。むろん、酒など飲んでいない彼に、二日酔いが起きるはずはない。そしてそれはイーリスも同様らしく、彼もまた、頭を押さえているのがわかった。ヘタクソめと声がもれ聞こえた気がしたが、そこに突っ込めるほどの余裕はない。
「少し待ってろ……」
ささやくような声でそれだけ告げて、イーリスが起き上がる。幾度かの深呼吸で落ち着いたのか、アーヴェントの額に手を伸ばした。反射的に身を縮める彼にかまわず、その額に触れる。
「あ」
「抜けたか?」
「うん、嘘みたいに」
「空間移動の副作用だよ。副作用なしの術式は知られてるはずなんだが……自己流で組んだな」
症状と現状から、対処方法は知っていた。なので、二人分を纏めて治してみたのである。
「空間移動って…塔から戻ってきた、あれ?」
「あれは、転移術。空間を動かすんじゃなくて、私たちが移動してるだけの別物だ」
「????」
まあつまり、とイーリスは寝台を降りて、天蓋と窓掛けを開け放つ。
「……へ? あれ? 庭? え、なんで……庭? あれ?」
窓からは、整えられた庭園が広がっていた。花壇の代わりに迷路状の生垣があり、その奥には何か光っているように見える。硝子屋根に見える気もするが、なんだろうか。そして迷路は、呆れるほど遠くまで続いているようだ。彼の屋敷だとしたら、とんでもなく広いことになるが、とイーリスを見る。
「妖皇宮の一室だよ。流石に迷路は作ってない」
嫌いではないが、そこまでやる趣味はないと嘆息が返された。
「向こうに光ってる屋根が見えるか?」
「あ、あれ屋根なんだ?」
「ああ、温室でね。この迷路を作った魔王が住みこんでるよ」
「……住み込み?」
「そう、住み込み。一応、妖皇宮内に部屋があるはずなんだが、まあ植物バカというかなんというか……あれでも初代妖皇の側近なんだけどな。ま、どうせ会いに行くから、そのときに紹介しよう」
親しいことを感じさせる物言いではあるが、「植物バカ」の呼び名については、本人がそう名乗るからだよと、念のため告げておく。別に揶揄でもなく陰口でもない真実である。
「向こうから来るだろうから、屋敷で出迎えたかったのだがな」
何しろ屋敷には、アヴィに出したものをはじめとして、いろいろなものがある。料理も好きだし、菓子造りもそこそこの腕だと自負しているし、彼らもそれを目当てに酒を持ってやってくる。気の置けない友人たちと一晩のみ明かすのは、イーリスの楽しみでもあるのだ。なのに、これである。とてもとても、残念だった。
それにしても、とイーリスは首を傾げた。どうして部屋ごと、しかもこんな奥まったところへ召喚されたのだろう。空間移動術であるのは、まあたぶん術式を覚えたからとか、そういう理由だとは思うけれど。いつもなら、妖皇の居室に近い辺りの部屋を用意されて、衣装その他の準備も抜かりないからこそ、文句を言わずに説教だけで付き合うのに。
「……怒らないんだ? お説教だけ?」
「別に、怒るほどのことじゃないしな。…まあ、早く側近を作れと思わなくはないが」
「側近って?」
「そのままさ。ま、夜会の時の賑やかしかな」
なにそれ、とアーヴェントは苦笑した。側近という言葉の響きからは考えられない発言である。
それはイーリスにも分かっていた。普通、側近――それも国主の側近ともなれば、相応の権力を持ち、政治を動かす存在である。しかし、エミーリアに於いてはそもそも、政治に関わる魔王がいないのだ。
「一応、内政の長は魔王だがね。今は内政と言うより妖皇宮内の管理が主体だから、政治はほぼ文官任せだそうだし。外征部に魔王はいないしなぁ」
「え、いないの?」
「いないさ。考えてもみろ、魔王じきじきに外政に乗り出したら、どう思われる?」
「……あー。そっか…」
幾人も魔王がいるとは言え、魔王なのである。魔王さまというのは、やはりどの国においても脅威の的であり、畏怖の対象なのだ。そんな相手に乗り込まれたら、どんな無茶でも呑みそうである。飲ませられそうである。ということで、外征部に魔王が置かれることはない。能力的には十分に魔王位を受けられそうな文官もいるらしいが、授位と同時に内政へ転勤させられるので、皆が皆、拒否していると聞く。まあ、頼もしい限り……である、たぶん。
「当代の妖皇は逆に、甘く見られててな。中継に魔王の誰かを側近として置いて、その魔王につながる文官なり商人なりを通して話を持って来させてるんだよ。でないと、ろくな話が来ないんだ」
「へ? なんで?」
「んー…ま、見た目だろうな。言っただろう、妖魔は成長しないと」
そう言われても、アーヴェントは苦笑した。何しろその妖皇陛下とやらの見た目を知らない。彼の話から、子供っぽいところがあるのではと思ったが、どうやら見た目もそれ相応らしいということは、分かるのだが。
「すぐに会うことになるから、楽しみにしておくといい。……あれを見るとまあ、代行くらいはと思うだろうさ」
我ながら甘いよ、とイーリスは苦笑した。
代行とは字のごとく、側近代わりを努めることである。ただそんな状態なので、他国の使者と妖皇が直接会うことは滅多にない。魔王までの話も、実は文官たちのほうが通じやすいので滅多にあがって来ない。結果として、夜会の賑やかし…つまりは、側近でございとその傍らに侍る役目が主体となるという現状である。ということも説明されて、理解は出来たけれど納得できないと、アーヴェントは渋い顔である。
「ま、ここはそういう国だと理解すれば、それでいいさ」
「いや、それはまあ、いいけど。……けっこうさ、妖皇さまってお気に入り?」
「ああ、何か懐かれているな」
「いや、イーリスの」
「…………え?」
「どう聞いてもそうなるけど!?」
なんというか、孫を見守るおじいちゃんとか、そんな雰囲気なんだけど。そう断言したアヴィに、イーリスは有り得ないと首を振る。
「側近への誘いは断り続けてるが?」
「えー……」
うん、わからない。理解できない理屈である。おじいちゃんなのは否定しないみたいだし、もういいや、とアーヴェントは理解を諦めた。とりあえず眠いし、頭も働いていないから、そのせいかもしれないと問題を先送りにしたのである。
「んでー…、どうすんの、これから?」
「あー…そうだなぁ」
口調が妖しいアーヴェントはもちろんだが、イーリスだって眠いのである。頭痛で目が覚めただけだから、すぐにでも寝なおせる程度には。だからもちろん、すぐにでも眠りたい――のだが、隣室ごと来てしまっているので、放置出来ないものがある。あれだけは何とかしなければならない。もちろん、彼には眠ってもらってかまわない。
それだけのことを判断するのに、ちょっとした時間が必要だった。
「…そのまま寝るといい。あれだけ片付けて、私も寝る」
「あれって?」
「落鳴琴さ。招かざる客が」
「ようフェネクス! 強制招待だってな、おつかれ!」
どがん、という音を引き連れて言葉を遮った闖入者に、イーリスは思わず拳を握り締めた。
遅かった。もう来てしまった。いや今ならまだ言いくるめて、とりあえずは追い出せる。うん、追い出そう。
そんな声がアーヴェントに聞こえたのは、イーリスがものすごい高速でそうつぶやいたからだ。当人に聞こえてはいないのかと他人事ながら心配になる彼を余所に、イーリスは闖入者――さわやかさが空回りしている青年とアーヴェントの間に立ちふさがると、高速で一発、拳骨を頭にくれてやる。
「いってぇ…っ」
「部屋に入るときは呼びかけろと、何度も言ったはずだな、勇者どの?」
教育的指導だ、とアーヴェントは興味津津である。だが、今何か聞き捨て鳴らない言葉が入らなかっただろうか。…ほら、そう、“勇者”とか。ああいや、そう言えば何か言っていた。…珍獣中扱い? 普通にただの教育? いや、勇者に教育的指導って、なんだそれ?
「あー……やり直すか?」
「やりなおすのかよ!?」
うん、と勇者が頷く。イーリスは頭を押さえ、大きく息を吐いた。
「やり直さなくていいから、出ていけ」
「え、なんで!?」
「なんでも何も夜中だろうが、こっちは寝たいんだよ!」
わあ、とアーヴェントは驚いた。イーリスって怒鳴るんだ、と。しかも今、寝たいとか言ったし。ていうか、あれ? そういや夜中なんだよな。なんでイーリスが来たって知ってんだ?
ふと、疑問に思う。可能性としては、移動術を仕掛けたという妖皇さまとやらが彼に教えたのでは、という辺りだが…それにしたって、夜中である。教えられたからといって、ほいほい来るものか? ていうかそれなら本人が来るのでは?
「え、でも、妖魔って別に、寝なくていいんだよな?」
ぶち、と何かが切れたような音を、アーヴェントは聞いた気がした。同時にイーリスは動いていて、勇者?の胸ぐらを掴む。
「失せろ」
ごぅ、と何かが唸るような音が轟き、開け放たれていた扉から勇者が叩き出された。
「主の権限を持って命ずる、誰も入れるな!」
りりん、と鈴のような音が響き、ついでに閉じられた扉からかちゃりと音がした。まったく、と扉を睨むイーリスは少々…いや、かなり機嫌が悪そうだ。
「悪くもなるさ、勇者相手じゃ、せいぜいが朝までだ」
妖皇宮には客の保護ということで、滞在している間のみの制限がある。人間たちに危害を加えないように、うっかりやってしまわないように、ということが主目的ではあるが、勇者も一応は人間なので、それに含まれる。
イーリスいわく、今しがたの命令は、室内が私室――つまりは妖皇宮外と判定されて効果が出ただけで、「入れるな」という命令がどこまで効果を持つかは、難しいらしい。
「いやでも、入れるなって、なんで? 別にイーリスなら平気じゃね?」
「勇者が異常なんだ。昔から、ほとんどの結界が無効化される。二代目が余計な称号を与えるから…あ、しまった。妖精の通り道を仕掛ければ…いやそれは消耗が激しいか……?」
ぶつぶつと何か呟き始めるイーリスに、アーヴェントは苦笑した。そして寝台へ戻ろうと思ったところで、ふと思い出す。さきほど、彼は何かをしようとしていなかったか?
「あのさ、イーリス?」
ぶつぶつと呟き続けてはいたものの、イーリスは視線だけをアーヴェントへ送った。
「さっき、何かしようとしてなかったか?」
「あ」
慌てて隣室へ向かうイーリスに苦笑し、アーヴェントもそれを追った。何をしようというのか、ちょっと興味が湧いたためだ。
そちらには、立派な机が一台、置かれていた。椅子もそれにふさわしく、豪華なものだ。
「おお、ちゃんと領主さまっぽい」
「領民がいないから、気楽なものだけどな」
一応は生態調査などもやるのだが、必須ではない。というか、興図の練磨という意味合いが強い。まあ崖崩れなどがあれば補修に赴いたりもするが、ほぼ暇つぶしである。
机の上にあった宝石箱が開かれて、中身が並べられた。繊細な意匠にさまざまな珠を散らしたそれらは、観賞用に飾っておいても悪くないと思わせる代物だ。そんなものを、イーリスは無造作に扱っている。そんな扱いでいいのかと思わず目を剥くアーヴェントに、イーリスは笑う。
「そんな柔じゃないのさ。宝石に見えるのは、私が作った魔素の塊だしな。ああ、さっき食べさせた花と同じものだよ」
「…もったいないな!?」
「いや、食べないから」
とても、満足そうである。むろん彼自身のお気に入りでもあるので、使いつぶすつもりはない。
ちなみに術で作ったものではなく、「術を利用して加工可能な高温を作り出し、銀線細工の技法を使って整形」したものが細工の本体であり、「術を利用して高密度に圧縮した」ものが疑似宝石である。実は細工師としてもやっていけるのではないだろうかとひそかに周囲が噂している程度に、熟達の技を持っている魔王さまである。
「最初はな。ちょっと面白そうだったのと、まあ人助けのつもりだったんだ」
素地とした金属は、世界を歩き回っていたときに見つけた。加工が困難な硬さに加え、融点が数千度。金にも匹敵する重量を持つために上流階級の女性陣に見向きもされない、といつしか利用されなくなったらしい。
遺跡から発掘したはいいが、使い道はないし価値もないのに捨てられず(あまりにも珍しくて、持ち主が限られるためである)、心底うんざりしていると嘆くので、買い取ってみたのだ。これが加工してみれば、糸のように細くして編むこともできるし、や出来上がれば壊れないしで、驚きの代物であった。しまいには、金属塊となったそれをあるだけ買い取ったのである。けっこうな量があったので、たぶん屋敷を探すと、インゴットのままで残っているのではないだろうか。
そんなことを話しながら、イーリスはそのうちの一つを手に取った。
「違うな」
並べた装飾品の一つ、大きめの球を連ねたネックレス――チョーカーと呼ばれるタイプである。真珠のような輝きが見事だが、これは宝石箱へと片づけられた。
次に手にしたのは、唐草のような線で小さな珠を連ねた、同じく首飾りだ。ラリエットと呼ばれる、留め金のないタイプである。けっこう苦労して作った鎖の出来には満足しているが、これも違うと片づけた。
三つ目に手に取ったそれは、透明な立方体の中に液体を封じたもので、いわゆるペンダントトップである。ただし、鎖はなく、それだけだ。
「……ふむ」
ふと思いついた、とイーリスが笑みを浮かべた。アーヴェントから 首輪回収し、手にした立方体と一緒に握り込む。拳が開かれたときには、大きな宝石と立方体が、揺れるように組み合わされた新たな意匠となっていた。
「派手になったなぁ」
「そうか? うん、似合うじゃないか」
改めて見ると、大きな黒い石の下に、赤い液体が揺れる立方体である。これを派手じゃないというかとアーヴェントはちょっと引き気味だが、気に入らないわけではないので、素直に受け取った。ためす眇めつしつつもふりふりと、中の液体を気にしている。
(まあ気になるだろうなあ)
それを狙って、わざわざ赤い液体にしたのである。単なる流体魔素なのだが、とあるものを連想するだろう、と。狙いは見事に当たったようだ。
だが、放置する。自分から聞いてくるまでは、教えない。それがイーリスの方針なのだ。
結局、宝石箱の中身はすべて、片づけられた。ついでに引き出しの中にしまいこんだのは、先ほどのような突撃を警戒してのことである。
「ああ、これがあったか」
イーリスが手に取ったのは、耳飾りである。窓際の飾り棚、その一角を占める硝子の樹にかけてあったものだ。
小さな珠を幾つも、房のように連ねてある。お気に入りではあるが、ほぼ飾りと化していて、使った覚えはない。確かこれは、と指先で軽く、つついてみる。
しゃらり、と記憶どおりに珠が触れ合う音が響いた。
「いい音だけど、それって耳飾りだよな」
「ああ、耳輪は好きじゃなくてね」
そういう意味じゃないんだけど、とアヴィは苦笑した。いい音とは言え、耳元で成るのである。何かしら手を打たないと、煩いのではないだろうか。というか、音が鳴るものを耳飾りにするものなのか。
「うん、実際に使うとけっこう煩い。まあ、術で音を切ることも出来るけどな」
音が鳴らないように固定するか、耳元で音を塞ぐか。イヤリングからの音だけを切ることも出来なくはないが、かなり面倒な思いをするので、もうそれをする気にならないイーリスである。
まあ今回は、その多数の珠がちょうどいい。見ていろと笑って、視線を落鳴琴に向ける。
「影は現出し、固着する」
寸分違わぬけれど透明な落鳴琴が、本物の隣に現れた。そのままであれば幻としか見えないそれは、ほんの数瞬で実体へと変化する。ころり、と転がった珠から響く音は申し分なく澄んでいて、知らぬ者なら複製品とは思わないだろう。実際、アーヴェントは先ほど聞いたきりだから、区別がつきそうにないなと感心している。
それだけでもすごいと思うのに、イーリスの術は止まらない。
「構成を解く」
開いた手から、耳飾りが淡い光を放ちつつ浮き上がった。落鳴琴は、その光の色に染まる。
「鍵盤は右に、構成する部品は左に」
詠うように呟かれた言葉に沿って、鍵盤が浮き上がり、耳飾りの宝珠に吸い込まれていく。本体もばらけて部品に戻り、それがもう一つの珠に収まった。
「珠は左右に同数連なれ」
透き通った硝子珠として連なったところで、術が終わりである。
言葉が出ないほどに感心しているアーヴェントに、それを渡したのは中身を見せるためだ。
「あ、すごい、分かるんだ」
「面白いだろ、こういうのも」
透明な石は、うっすらと色づいて見える。それをよくよく見ると、中に何かがあるのがわかり、更によく見れば、部品となったものがそのまま、小さく小さく見えていた。見えないようにも出来るが、それだと面白くないから、というのがイーリスの弁である。
「前に、勇者に壊されたことがあってな」
「……へ?」
落鳴琴を初めて見た勇者は、たいそう感心してくれた。近づいてその構造を見たいと言われて許してしまったのが運の尽き、鍵盤くらいは問題なかったが、その奥の、曲どおりに鍵盤を跳ね上げる機構を見たいと無理をされて壊れたのである。それが原因で材質を変え、今の見た目になったのだから怪我の功名と言えなくもないが、とイーリスは渋い顔になる。
「二度とご免だからな。あいつがいるときは、複製を出すことにしてるんだ」
「複製? 影って言ってなかったか?」
「ああ、影から作り出したからな。ほら、ほかより影が薄いだろ?」
イーリスが手を翳すと、確かに彼の影よりも落鳴琴の影のほうが薄いようだ。だが言われなければ、到底気づかないだろう――よほどの炎天下でもない限り。
「この”術”のこと、勇者には言うなよ。あいつ、これがお気に入りだから」
隠すのではなく複製を作るのはどういう理由だろうと思うけれど、その辺りはイーリスでなければ分からないだろうし、まあ聞かないほうがいいような気もしたので、アーヴェントはただ、頷いた。
やるべきことが終わって気が抜けたのか、イーリスが足をふらつかせた。
「…ああ、休む前に、一つだけ言っておくっと」
足をふらつかせるイーリスを、アーヴェントは慌てて支えた。疲れているところを叩き起こされて訪問者を放り出して術を使って、そりゃそうなるだろうなと苦笑する。とりあえず寝椅子に座らせると、頭を押さえながら悪い、と呻かれてしまった。相当眠いらしい。
「ここで、寝る」
その一言に続いて、寝息が聞こえる。…まさか、それをわざわざ言おうとしたのか?
「いやないだろそれ!?」
とりあえず起きる気配はないようなので、掛けてあった毛布を広げ、一応は覆っておく。…と、イーリスが目を開けた。
「ここでの、呼び名だが」
半分寝ぼけたような状態で、イーリスが頑張って言葉を紡ぐ。
「フェネクスと、呼べ。お前は、…アヴィと呼ぶ」
「はいはい、フェネクスさまですね。従者扱いってことですね」
うん、とイーリスが微笑む。でも、と言葉は続いた。その手が机の上にイヤリングを放り出す。けっこう、乱暴に。
「っておい!? 傷つくぞ!?」
「つかない、よ…ああ、あと、…言葉遣いは、変えなくていい、から…な…」
おやすみ、と一言を残してイーリスは寝息を立て始めた。同時に部屋が暗くなって、そういえばこの部屋に灯りらしきものがないのだなと、アーヴェントは気づく。なるほど、これも術の一つと言うわけか。まあ月明かりがもれこむおかげで、十分に室内は見えるから困りはしない。
(…傷つかないって、これはなぁ……お)
そんな中、脇机に裸で放り出されてしまったイヤリングがちょっとひどい扱いのような気がして、アーヴェントは周囲を見回した。何かを載せる台なのか、小さなクッションがあったので、ちょうどいいやとそれを借り出すことにした。載せてみれば、まるでそれに誂えたかのようにしっくりきたので、よしとする。
彼は知らぬことだが、魔素を超高密度で圧縮しただけのものである。その強度は金剛石にも匹敵するし、自己修復も出来る。それもあって格納庫扱いをしたのだから、実はまったく心配不要の代物である。
「…にしても、男物に見えないよなぁ…」
この飾りの一群、どれもこれも、どう見ても女物にしか見えない。イーリスなら似合うかもしれないけれど、どう見ても女物である。女装させれば似合うだろうか、いや、流石にそれは無理がある。ちょっと思い出したくないけれど、彼の地で会った女版イーリスなら悪くないかもしれない。またあの調子で粉を掛けられるのは御免だが。ああでも、このイヤリングを彼女がつけたところは、ちょっと見てみたい。うるさいとは言っていたが、歩くにつれてシャラシャラと鳴る様は、きっと映えることだろう。
その隣に立つ自分を想像して、アヴィは頭を押さえた。子供姿ではなくなったとは言え、あの身長である。隣に立つには、…ちょっと不足した。どう頑張っても、姉と弟にしか見えないだろう。
「いやいいんだけどさ、それで」
従者だし、女イーリスに惚れたわけでもないし、何の問題も無い。うん、そう、正直なところを言えば、あそこまでの美女だと気後れしてしまう。中身が彼だと分かっていても。ていうかまた迫られても困るしな?
「…フェネクスさまねぇ……」
旋毛をつんつんと突っついてみる。何の警戒心もなく眠っているこの男は、魔王さまである、らしいが。
「ま、いっか」
ふわ、とあくびが漏れて、そういえば眠かったんだと思い出しつつ、寝台へと潜り込む。部屋の主を差し置いて、しかも従者の自分が寝台を占領していいものなのかと思わなくはなかったが、いまさらである。
うとうとと眠りに入りながら、アヴィは思う。どうせなら、名前を呼び間違えないように”術”でもかけてほしいなあ、と。




