草津温泉
その後、擦った揉んだありつつもどうにか引っ越しを終え、俺は新居に住み始めた。とはいっても、実家も県内にあるのだからそれほど孤独感はない。ちなみに、俺が住んでいるのは埼玉県だ。
あの写真に対するモヤモヤは、小さくなるどころか日に日に増していった。それに加え、自分でも気付かないところでさらに何か忘れているのではないか……という恐怖まで、まとわりついてくる。
何とか記憶をたぐり寄せようと、俺は毎日寝る前に例の写真を眺め続けた。しかし、彼女に関する記憶が蘇る気配は一切ないまま……彼女の姿や雰囲気、表情などが、無闇に焼き付いていく。
……気がつけば俺は、その写真の娘のことが好きになっていた。いや、覚えていないだけでもともと好きだった可能性は高いから、「改めて好きになった」というほうが正しいのかもしれないが……。
現状では、この写真以外の情報が何も無い赤の他人だ。なのに、思春期特有のほろ苦い恋愛感情というか、片思いというか、そんな切ない情緒に支配されてゆく俺……。居場所も、名前すらも分からない女性に恋をしてしまうことが、こんなに辛いなんて……。
一体どんな声をしていて、どんな性格で、どんな趣味を持っているのか。……この子に対する疑問が、次から次へとわき上がってくる。彼女がどこの誰なのか、突き止めたくてたまらない。
時の経過と共に想いが募ってゆき、彼女のことばかりを考えるようになってしまった俺は、ついに一人で抱えきれなくなった。友人の聡へ件の写真をSNSで送信し、心当たりがないか尋ねてしまう。
『知らないなぁ、こんなヤツ。てか、お前高校の時彼女いたのか?』
「いや、いなかったと思う」
『思う、ってなんだよw 自分のことだろ?』
「それが、本当に心当たりがないんだ。聡ならなにか覚えてるかと思って……」
『俺だってお前に女がいたなんて心当たりねーよ。迷惑メールがどうのこうのっていう話は覚えてるけどなw』
「その話は今関係ないだろ!」
俺はため息を吐いた。高校二年生の夏頃、やけにしつこい迷惑メールが一日何件も届き、心配になって聡に相談したことを思い出す。
『アレマジやばかったよなw 今から会いに行くから、とかw』
「やめろよ、本当に怖かったんだぞ」
『もしかして、そのときのメールの相手がこの女だったりしてw』
「んなわけあるか。さすがに当時から記憶になかったなんてことないだろ。どんだけ即行で忘れたんだ俺は」
……そのメールのせいで「エロサイトに登録した」というデマが拡散し、俺のあだ名が一時的に「エロサイト」になったという黒歴史を回想して苦笑しながら、俺は返事を返した。
『つーか、知らない女といつの間にかツーショット撮ってるって、どういう状況だよ。呑みまくって酔っ払ってたのならまだしも、高校生だろ? しかも、これを見る限り完全にデートだし』
「だから、デートして写真撮った後に忘れた……とか?」
『もしそうなら、よほどの薄情者か頭の病気だな』
「うるさい黙れ」
確かに俺もそう思ったけど、人から言われるとスゲームカつくな、この台詞。「俺ってバカだよな!」って言ってるヤツに「お前ってバカだよな」って言ったらキレられるのと同じ現象か。
「もういい、心当たりがないなら相談する意味も無い。この件は忘れてくれ」
『そんな怒るなって。確かにこの女に心当たりはないけど、この風景には……なんか見覚えがあるんだよ』
「風景……?」
『うん。特に、この写真な。これ、たぶんそこそこ有名な場所だと思う。昔テレビで見た記憶がある』
「……そうなのか?」
聡が示してきたその写真の背景には、太めの木で作られた柵とゴツゴツとした岩肌、エメラルドグリーンの池のようなもの、それから大量の湯気が映り込んでいる。察するに、どこかの温泉街だろう。確かに温泉街なら、知れ渡っている場所である可能性は高い。
『ちょっと調べておくよ。どこなのか分かったらまた連絡する』
「お……おう。ありがと」
俺は一旦スマホを置き、隣に置いておいた八枚の写真の中から、例の温泉街で撮られたと思われる一枚を引き抜いた。そして、「埼玉 温泉街」というキーワードで検索してみる。
「……秩父温泉……でもないな。他に温泉街なんてあるのか?」
……が、やはりどの温泉街も写真の風景とは一致しない。もはや、別のパラレルワールドかなにかなんじゃ……とさえ思えてくる。この娘といいこの場所といい、実はこの世界には最初から存在していないんじゃないだろうか。
諦めかけたそのとき、『ブーッ』とスマホのバイブ音が唸った。俺はスマホを拾い上げ、メッセージを確認する。もちろん、相手は聡だ。
『写真の場所、わかったよ』
意外とあっさり特定できてしまったらしい。別の世界なんじゃないか? ……と思考停止に陥っていた俺はなんだったんだ。
「早いな。で、どこなんだ?」
『うん、そこ、草津温泉の湯畑っぽい』
……草津? ……って、どこだ? 聞き覚えはあるけど、少なくとも埼玉じゃないよな。そういえば昔お袋が、「私も草津に行きたい」とかなんとか……ぼやいていたような……。いやいや待て待て。県外の温泉街なんて、俺本気で知らないぞ。神に誓ってもいい。
「草津……って、どこだよ。何県だよ」
『は? お前知らないのか? 草津って言ったら群馬県だろ。それくらいしか有名なところないんだから、覚えておいてやれよ』
……知らねーよ。群馬県なんて行ったことないんだから。謎が解けるどころか、どんどんわけ分からなくなっていくだけじゃねーか。そろそろ俺、発狂していい?
「どうして俺、行ったこともない場所で会ったこともないヤツと写真撮ってるんだよ……」
『知るか。俺が聞きたいわ。とにかくそこは草津だ。間違いない。疑うんなら、自分で検索してみな』
別にそこを疑っているつもりはなかったが、一応検索してみた。……聡の言う通り、写真に写っていた場所は間違いなく草津だった。
すると、他の写真が撮られたのも全て草津なのだろうか。残念ながら、ランドマークになりうるものが無いので特定はできそうにない。しかし、どの写真も極めて自然が豊かな場所に見える。
(……もしかしたら、彼女の地元は草津なのかもしれない)
おのずと、俺の頭の中に一つの答えが浮かぶ。彼女と埼玉で出会い、草津に旅行したという可能性も大いにあり得るが、俺はこの時点で「彼女は草津に住んでいる」と確信しつつあった。……となると、次にとるべき行動は一つ。
(……行くか、草津へ)
……俺はとにかく、彼女に会いたかった。会って話したかった。俺が覚えていないことでも彼女は覚えているかもしれないし、それをきっかけに何かを思い出すかもしれない。この写真を撮った日から五、六年が経過している上に彼女の名前もわからないのだから、会える可能性はほとんど無いのかもしれないが……。
それでも、何も行動しないよりはマシだろう。群馬県なんて埼玉の隣だし、行こうと思えばすぐだ。俺は会社が夏の長期連休に突入するタイミングで、群馬県の草津町へ行くことに決めた。