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夜の湯畑

「とりあえず、明日の朝イチで一旦帰ることにします」


 民宿に戻ると、まず美和子さんにその旨を伝えた。この辺の融通を利かせてくれるあたりが、無計画な俺にとっては本当に有り難い。


 部屋へ戻って荷物をまとめ、帰る支度を済ませる俺。……やることが無くなったのでなんとなくテレビをつけてみたものの、面白そうな番組もない。……反動というか、千笑との距離が縮まった分だけ……一人になったときの心細さが倍増している気がする。


 彼女の匂い、声、抱いたときの感触……。全てが俺の体に刻み込まれているのに、そこに千笑がいないというもどかしさ。学生時代の彼女とは半同性状態だったから、こんな感情を抱いたこともなかった。


「早く会いてぇなぁ……」


 仰向けに寝っ転がって天井を見つめながら、独り呟いてみる。……つい数時間前までは一緒だったのに、この虚しさは何なのだろう。


 ……その時だった。


「矢吹様、玄関に……お客様が見えておりますが」


 コンコンコン……というノックが聞こえたので戸を開けると、満面の笑みを湛えた美和子さんがいて、俺にそんな知らせをくれた。


「お客様って……? ……えっ、どちら様ですか?」

「玄関に行けば分かると思いますよ。差し支えないようでしたら、お迎えに行ってあげてくださいな。それでは、失礼します」


 美和子さんは、意味ありげなウインクを俺に残した後、やけにニコニコした顔で立ち去ってしまった。……よく分からないが、とりあえず私服に着替え直してから、玄関へ行ってみる。……すると、そこで俺を待っていたのは……


「えへへ、来ちった」


 ……照れくさそうに微笑む、千笑だった。


「ち……千笑っ!? えっ、もうすぐ八時になるけど……平気なのか!?」

「うん、ウチんちすぐそこだし、ぜんぜんだいじょぶ!!」


 八重歯を剥き出しにして、その名に恥じない屈託の無い笑顔を見せてくる千笑。その顔を見たら、「もう遅いから帰れ」……なんて、とても言えなくなった。……言うつもりだったかどうかも怪しいのだが。


 そんな千笑は、いつもの紺色のジャージ(半袖ハーフパンツ)に身を包み、髪は縛らずに流してあった。長さは、肩甲骨が隠れるくらいある。


「帰る前にさ、これ……渡しとこうと思って」

「これは……?」

「今までに撮った写真!! さっき、コンビニで現像してきたんさ!!」


 続いて千笑から、見覚えのある茶色い封筒を手渡された。それは、あの時俺の部屋で見つけた封筒と……完全に同じものだった。お礼を言って受け取ると、千笑はもじもじしながら上目遣いで呟いた。


「ちっとさ、湯畑まで出てみね? 夜の湯畑、えらい綺麗なんだよ?」

「……そうなのか? じゃあ、行ってみる?」

「うん!! てなわけで、ミワちゃん!! トモくんをお借りしまーす!!」

「はいはい、暗いから二人とも気をつけてね」


 封筒を受け取ったままぼーっとしている間に話が進み……。ハッと我に返った頃には、夜のデートへ出向することになっていた。


「千笑って、縛ってないと意外と髪長いんだな。雰囲気が全然違う」

「んー? そぉ? ホントは縛りたいんだけどさ、さっきお風呂で髪洗ったばっかだから、結って変なクセがついちったら嫌だべ?」


 湯畑を目指して歩きながら、他愛ない会話に花を咲かせる俺たち。なるほど、昼間会ったときよりも石けんみたいな香りが強いと思ったら、風呂上がりだったのかコイツ。


「この辺の人って、やっぱり毎日のように温泉入ったりするの?」

「中にはそういう人もいんじゃない? あたしは、近くに無料で入れるところがあっから、火曜と木曜に温泉入ることにしてんさ。今日は木曜だから、温泉入ったよ。あ、今度トモくんにも教えてあげんね!!」

「無料……って、まさかあの『大霧湯』ってところ!?」

「なんだ、知ってたん? そう、そこ!! てんでいい湯だいねー」

「まてまてまて!! お前、あの温泉利用してたのか!? だってあそこ、男女の区別ないだろ!? 混浴とか、抵抗ないの!?」


 確か、爺さんと婆さんしか利用しないって話だったよな!? まさかの現役女子高生が使ってるみたいですけど、皆さんはご存じなのか!?


「あはは、火曜と木曜の午後五時から七時の間はレディースタイムだかんね、女の人しか入ってこないんさ」

「……あ、そういう時間割があるんですか。それなら……」

「でも、長湯しすぎて時間過ぎちゃうこともままあってさー。爺ちゃんが入ってきちゃったことは、数知れないな」

「数知れないの!? いや、そのジジイ絶対狙ってきてるだろ!?」

「まぁいいじゃん、八十近いお爺ちゃんなんだし。トモくんみたいな若い人が入ってきたら、さすがに恥ずかしいけどさ。爺ちゃんなら、孫みたいな歳のあたしの裸見たって……興奮したりしないべ?」

「……いや、う~ん……。そう……なのか?」

「その爺ちゃんさ、あたしに色々話してくれんの。……ちっと難しい話も多いけど、嬉しそうに話してくれっから、いつも聞いてんさ」


 なんだか、千笑と混浴することがその爺さんの生きがいになっている気がしてきた。千笑が嫌じゃないのなら、俺が口を挟むことでもないのか。……でも、条例的にはアウトだと思う。


「つか、その歳でよく温泉まで辿り着けるよな。結構険しいだろ?」

「それがあたしも心配でさ……。今日も割と長湯してたんに、爺ちゃん来なくて……。転げ落ちて怪我してたら大変だし、探し回っちゃったんさあたし。最近孫夫婦がひ孫連れて帰ってるって言ってたから、今日はひ孫の相手とかしてたんかなぁ……」


 んー……。これ、千笑も意図的に長湯してるよね、絶対。むしろ、「レディースタイム」が作られたことによって、爺さんと千笑が出会いやすくなってる気さえする。……田舎の文化はよく分からん。


「機会があったら、ひ孫に会わせてくれるって言ってた! ちょっと変わってるけど、めちゃくちゃ可愛いって!! 一緒に見にいかない?」

「へぇ、そうなんだ。そうだなー、機会があったら是非!!」

「そんとき、爺ちゃんにトモくんのことも紹介すんね! ホントは、今日話そうと思ってたんに、爺ちゃん来なかったから……」


 うん、やっぱりコイツ、自分から爺さんに会いに行ってる。確信犯だ、間違いない。……頼むから、犯罪には巻き込まれないでくれよ。


 そんな話をしている間に、俺たちは湯畑に到着していた。そして、目の前に広がる幻想的な光景に、思わず息を呑んでしまう俺……。


「見て見て!! 夜はこんな感じでライトアップされんだ!! どぉ?」

「……いや、すごいな」


 青や紫のライトが湯煙に散乱し、まるで得体の知れないオーラが湯畑全体を包み込んでいるようだ。……結界。そう、まさに結界だなこれ。ここだけ現世と隔離されているような気がする。


「……大好きな人と夜ここに来るんが、あたしの夢だったんさ……」


 手すりに寄りかかり、紫色に照らし出される湯畑に目を細めながら、千笑はそっと呟いた。……なんだコイツ、ただのロマンチストか。


「千笑の夢は、酪農関係の仕事に就くことだろ?」

「そうじゃなくてぇー!! それは将来の夢っ!! 今する話じゃないっしょ!? てか、そんなどうでもいいことよく覚えてたんね!」

「どうでもよくねぇよ。大好きな人の大切な夢だ」

「ば……ばかっ、今はあたしの進路とかどーでもいーじゃん!! 綺麗な湯畑を見て、感動する時間!! あと、愛を……♯△†〒♭……」

「……え? 何?」

「な……なんでもないしっ!! もぉー、ほら、見てっ!! 綺麗でしょ!?」

「そうだなぁ、綺麗って言葉で片付けるのはもったいないくらいだ」

「んあー、もう!! 違うチガウちがーうっ!! トモくんはさぁ!! 『こんな風景より千笑の方が綺麗だぜ』……とか言わないん!?」


 ……あぁ、なるほど。コイツ、その台詞が欲しかったのか。つか、さりげなく今、俺の真似してたよな。……似てないぞ、多分。


「綺麗のベクトルが違いすぎて比べられないだろ。それに、千笑は綺麗と言うより……可愛い。愛くるしい。この風景は、可愛くはない」

「……あたしの二つ目の夢はさ。ここで、『こんな風景より千笑の方が綺麗だぜ』……って、好きな人から言われることだったんに……」

「……。……こんな風景より、千笑の方が綺麗だぜ?」

「もう遅いからぁっ!! どうせあたしなんか、綺麗じゃないもん!!」

「いちいち拗ねるな、抱きしめたくなるだろ!?」

「じゃあ、抱きしめてよ!!」


 ガバッと、少し乱暴に抱きしめてやる。ふわりと泳いださらさらな髪の毛が俺の頬をかすめ、シャンプーの香りを鼻腔まで運んだ。


「……今度こそこれで……最後? 次はいつ会えるん……?」


 耳元で千笑が呟いた。……少し震えた声で。


「バカ、最後じゃねーよ。この先もずっと、俺は千笑のそばに居続ける。だから、最後とか言うな。本当に最後になったら……嫌だろ?」

「……わかった、ゆわない」


 時計を見ると、九時半を回っている。……いい加減戻らなきゃだな。


「……そろそろ、シンデレラは家に帰る時間だ」

「……そうだね。……あ、そうそう。また忘れるとこだった……!! 連絡先!! 連絡先教えてよ、トモくん!!」

「そういえばそうだな。てか、千笑って携帯持ってたんだ」

「うん、一応……。ガラケーなんだけど……。SNSはできないから、メアドと電話番号と……あと、トモくんちの住所も知りたい」


 ガラケー……。二○十三年なら、まだそれほど珍しくないのか? 


「その様子じゃ、赤外線通信とかもできないよな?」

「うん……。そもそも、今ケータイ持ってきてないんさ……。紙に書いてくれると、嬉しいな」

「……なんだろう、テクノロジーに置いて行かれた人間を見つけたよ」


 俺はメアドと電話番号と住所をメモし、千笑に渡す。なお、千笑はメアドも電話番号も覚えていないらしく、何も教えてくれなかった。


「ごめん、あとでメールすっから、そんとき登録してくんない?」

「はいはい、千笑のそういうところにはもう慣れたよ」

「それじゃあ……。そうそう、帰る前に是非、大霧湯入ってってね!!」

「あ、うん。そうだな。せっかくだから、そうするよ」

「……じゃあ……。またね、トモくん。……お休み」

「お休み」


 こうして今度こそ、俺と千笑は自分たちの家へ帰ることになった。


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