⑥
一郎は以前小向と何度か入った事のある喫茶店を目指した。そこはログハウス調の店で、照明が暗く、一郎もアトピーの事を割と気にせずに過ごせる喫茶店だった。店で流れているカントリーソングも、それほど嫌ではなかった。
一郎は景子と話して歩きながら、京子の事が少し頭に浮かんだ。京子は自分の事をどう思っているだろう。もう過去の人間になってしまっただろうか……。
天気の話や楢山大学の話を無難にしているうちに二人は喫茶店に着いた。最初は入口近くの席に案内されたが、外も暗くなりかけていたので、一郎は窓際の席に案内してもらった。
景子は一郎と同い年で、夏の間だけ楢山大学の理学部に通う留学生だという事だった。留学というのも、元々は日本の神奈川県で出生し育ったのだが、二年ほど前に鉄鋼会社に勤務する父の赴任先がアメリカのオハイオ州に決まり、家族で移住をしたのだという。そして去年から、オハイオ州立大学に通っているとの事だった。
一郎の問いかけに、景子はよく間を置いて、眉間を少し掻いたりしながら答えていた。割と綺麗な女性が頻繁に眉間を掻く姿は、少し不思議な光景だった。一郎には何か考える時眉間を掻く癖があったが、人にはこんな風に映るのかと、少し恥ずかしくもなった。また眉間を掻く度に、景子の左手薬指にはめられた指に沿って変に長い銀の指輪も気になった。しかし、これらの事が景子に対する妙な興味を覚えさせ、また、安心感を一郎に与えたのも事実だった。景子は一郎が質問をすればするほど落ち着きがなくなり、少々どぎまぎしていた。その為か、一郎は割と落ち着いて会話をする事が出来た。
景子は楢山大学にある設備の話をし始めた。初めのうちはちゃんと聞いていた一郎だったが、途中から専門用語が出てきてよく分からなくなり、それからはなんとなく話を聞いていた。しかしジュースを飲みながらふんふんと、さもまじめに聞いているかのように見せていた。
「へぇ、そんな設備が楢大にあるんですかぁ。楢大の事なんか何も知らないからなぁ……。でもそういうのって、それこそアメリカとかの方が最新の物が揃ってそうな感じがしますけどね」
「いえ、楢山大にしかない標本やデータが結構ありまして、それの持ち出しが出来ないものでしょうがなく来てるんです」
「元々は日本の方なのに留学なんですね」
「こんな形で戻るとは思いませんでした」
「お一人で来られたんですか?」
「あはい。僕、……私だけです」
一郎は景子が一瞬自分の事を「僕」と言った事が気になったが、会話の流れを止めたくなかった。
「そうなんですか。じゃ日本で過ごすサマーバケーションすね。あ、留学でしたね」
景子は笑顔を作った。一郎はジュースを一口飲んだ。
「秋山さん」
「はい?」
「私、この辺の事は右も左も分からなくて、留学って言っても研究室に行くのは週に三四回程度なんですね。だから、もし良ければ、この夏の間だけでいいんで、お友達になってもらえませんか?」
「え?」
景子は一郎を見て恥ずかしそうに笑った。
「だめですか?」
一郎は驚きながら嬉しさを感じた。やはり自分に気があるんだろうか、と思った。しかし景子の素性に不安も感じた。そしてなぜか不安を助長したくなった。とりあえず声を出して笑った。
「友達、ですか? 友達ですよね。あでも僕も、バイトとかあって……」
「あいいんです。お暇な時とかに、たまにこんな感じで話し相手にでもなって頂ければ」
一郎は少し期待して景子を見た。そして、いつもの事が気になり始めた。
「あいえ、僕は全然っていうか、全然いいんですけど……」
景子は一郎を見た。
「……見て分かると思うんですけど、僕はこんな奴で……、肌の病気があるんですね」
「……アトピーか何かですか?」
「あはい。……そうです」
一郎は脱力した。トイレに行って自分の顔を確認したくなった。また、自分の言ってる事が分からなくなり、ジュースを一口飲んだ。そして、少し笑った。
「何か……何か、すいませんね。なんだか今の状況がよく分からなくて……。本当なら、普通なら、……貴女みたいに、普通に綺麗な人に会って、そんな風に言われたら、失礼かもしれませんが普通にラッキーとか思って楽しく過ごせばいいんでしょうけど……。すいませんね、僕、思ってる事を全部口に出して不安を紛らわそうとする癖があって……」
景子は少し黙っていた。何か考えているらしかった。そして卓の上に目をやりながら、おもむろに口を開いた。
「秋山さんのこれまでの人生がどんなものだったのか、私には……よく分からないけど……、その人生は、今秋山さんが生きてる目の前の世界での話でしょう? ……私は、よそから来たよそ者だから、秋山さんの持ってる常識とは別の、違う常識を持ってます。だからその私の行動が、秋山さんにとっては異質的なものに見えるかもしれないけど、でもそれを新鮮だと思えば、今みたいな状況も、秋山さんの新しい人生になり得るんじゃないかしら。またもう一度、どこかでお話をしてから考えてもらってもいいし、選ぶのは、秋山さんの自由なんですから」
一郎は緊張した。元々日本人とはいえ、人によっては海外に行くとこんな考え方やものの言い方をするようになるのかとあれこれ想像した。しかし同時に、信用出来る人かもしれない、とも思った。
一郎はなぜか急に恥ずかしくなった。そして話題を変えたくなった。一郎は少し眉間を掻き、もう一度笑ってみせた。
「何か、趣味とかありますか?」
「え?」
「好きな映画とか」
「ああ……。えっと……、あ、ショーン・ペンとか」
「え?」
「あ、あでも……、……知ってますか?」
一郎は興奮した。
「マジっすか? 僕ショーン・ペン大好きですよ。監督作も大好き……、……やっぱりキャッチセールスなのかな」
景子は焦りだした。
「あでも、この前、テレビでやってたのを、ちょっと見ただけなんです。……観ましたか? 詳しくはよく知らなくて……。そうですね……、マイケル・ジャクソンとか好きですよ」
「え?」
景子は顔を伏せて笑った。顔を上げた時に長い髪を掻き分け、一郎はその姿にどきっとした。
「ああ、あれは歌か」
景子は言った後も笑った。一郎は、やはりこの人とは少々距離を置いた方がいいのかもしれない、と考えた。
それから三十分ほどして二人は店を出た。一郎が景子に時間を聞き、じゃあそろそろ、という形になった。景子に勘定を払ってもらう時、一郎は緊張して腹が痛くなった。腹が痛くなりながらも、Tシャツの襟から出た景子の首すじをずっと眺めていた。
帰り道、一郎は自分も好きなマイケル・ジャクソンの話をしようかと考えたが、景子がショーン・ペンの事を色々と聞いてくるので、いつのまにか得意になってショーン・ペンの話をしていた。一郎は大好きな『クロッシング・ガード』という映画の話をした。
「――娘を交通事故で亡くした両親と、その事故を起こした人の話なんです」
「へぇ、そうなんだ。……あそうだ。明日この辺りで花火があるんですよね」
「あ、はい。美染川沿いで」
「行きません? 花火。明日予定とかあります?」
「あ、ああ、いや夕方からは空いてます」
「行きましょうよ」
「あ、はい、じゃ行きましょうか」
二人はみどりやの前に着いた。
「ホテルはどちらなんですか?」
「あっちです」
景子はみどりやの左後方を指差して答えた。
「あそうですか。……じゃ明日、四時頃携帯にお電話する形でもいいですか?」
「はい」
沈黙になった。一郎は景子が何を考えているのか不安になった。四時に電話じゃ遅いだろうか。もっと正確な時間と場所を、今決めた方がいいか……。
「今日はどうも。こうやって秋山さんと知り合えたのも何かの縁だと思うんです。私たち年も同じだし……。じゃまた明日! 電話待ってます」
「はい。じゃおやすみなさい」
「おやすみ~」
景子は手を振って笑顔で去って行った。一郎は非常に嬉しくなった。誰かが自分の言葉にこれほど元気に気持ちよく言葉を返してくれたのは本当に久しぶりだった。杉本なんかは俺のおはようございますの挨拶でさえも、いつもきちんと返してくれない。俺が普通の人間として、ひょっとしたら少しいい印象の人として、受け取られているのかもしれない。しかも女性に。あんな綺麗な女性に。
一郎は生きている喜びを感じた。自分の身が軽くなって、今誰かに声をかけられたら自然に笑顔で話が出来るだろうと感じた。一郎は、今日のアトピーの調子がいつもより少し良くて本当に良かったと思った。一郎は神に感謝したくなった。駐輪場に行き、自転車の鍵を開けながら、景子に対する不安と期待で一郎は楽しくなった。
景子はホテルへと歩きながら、右手で頭を押さえ始めていた。眉間に皺を寄せ、苦しそうにしていたが、不意に笑顔になった。