⑦
オフィスビルの中にある眼科の待合室で、一郎は京子の字が書かれた箸袋を眺めながら順番を待っていた。待合室には、一郎以外にもアトピーが顔に出ている患者がいた。一郎は、その人と目が合うと何となく恥ずかしい思いがした。それは、向こうも自分と同じような気持ちかもしれない、と何となく想像出来たからだった。
「秋山さん、秋山一郎さん診察室へどうぞ」
一郎は箸袋を畳んで財布にしまった。
暗い中診察機に顎を乗せ、目だけにライトが当てられ診察が行われた。一郎は白内障だった。右目は、まだ気にならない程度だった。
「はい、いいですよ」
明かりがついた。
「ん~もうそろそろ手術だね。だいぶ見えないでしょ」
「……そうですね。昼は外とかだと、左目はほとんど真っ白で何も見えないです」
「ここ二ヶ月でまた急に進んでるから。早い方がいいよ。手術もうまくいき易いし。アトピーも辛そうだけど、皮膚科には通ってるんだっけ」
「あいえ……。あの、手術するとなるといつ頃になりますか?」
医師はノートパソコンを見て、色々とクリックし始めた。
「一番早くて……再来月、九月の三十日だね。その次だと……十一月の初めになっちゃうかな。ま、ご両親とも相談して……」
「じゃお願いします」
「そう。じゃいつにしよっか」
「じゃ再来月の三十日で」
「分かりました。じゃ九月の三十日に手術をしま~す」
医師はパソコンをクリックしながら軽い口調で言った。
「また再来週に一回来てくれる?」
「あ、はい」
少しの間、沈黙になった。
「じゃいいですよー」
「あ、はい。ありがとうございました」
「は~い」
一郎は退室する際に頭を下げた。三十代後半に見えるその医師はパソコンの操作をし続けていた。
帰りの電車の中で、一郎は、白内障の手術をするのが本当に今通っている眼科で良いのか不安になった。今の眼科は一応地元でそれなりの評判を聞いて通い始めた眼科だった。一郎は、これまで医師の事を明らかに嫌だと感じた事は恐らくなかった。しかし、医師なんて明らかに酷くない限り、どこも同じような感じかもしれない、とも思っていた。手術さえうまくいってくれたらいいんだ。一郎はそう自分に言い聞かせた。
しかしその瞬間、一郎は自分の人生に閉塞感を感じた。暗闇を感じた。暗闇の中で永遠にこの世に生を受けない小さな胎児のような気持ちがした。暗闇の中でずっと歩き続けているのに、それはこの先永遠に開かれる事のない真っ暗なドアの前での、ただの足踏みに過ぎなかったと知らされたような気持ちがした。
一郎は、つり革に掴まりながら窓の外を見た。左目の視界は、白い曇りガラスの向こうに世界を見ているような感覚だった。窓の外の景色は、ちゃんと右から左へ流れていた。一郎は自分のアトピーがこの先本当に治るのか不安になった。そして、眼科の医師にほんの少しだけ嫉妬をした。ある意味当たり前のように生きていると見られる医師の、何百人といる患者の中のほんの一つである自分の苦しみや人生が切なく、悲しかった。
電車は混んでいて、その乗客の殆どが、一郎と同じ備宮駅で降りた。学生風の、若い人たちが多かった。一郎は浴衣を着た女の子たちに目がいった。皆それぞれに軽く笑顔で、一郎は自分の人生を嘘のように感じた。
一郎は電車に乗る前に公衆電話から景子の携帯に電話をしていた。混んだ駅のトイレで顔を確認した後、一郎は待ち合わせ場所の交番を目指した。駅の時計は待ち合わせ時間を五分ほど過ぎていた。駅構内はどこも人が多く、歩くのが困難で、一郎はなかなか前へと進めなかった。人生を、若さを楽しんでいるように見える多くの若い人たち、カップルを前に、普段の一郎なら顔を伏せ、孤独を感じ、早くその場から立ち去りたいと嫌な汗をかくはずなのに、この日の一郎は、気持ちに少しだけゆとりがあった。それは女性と待ち合わせをしているという役目が自分にあったからだった。一郎は若い女の人たちを見て、ひょっとしたら景子は特に綺麗な人なのかもしれない、と思った。歩きながら一郎は、気持ちの上澄みの中で、景子に会う事が少し嬉しくなっていた。アトピーも昨日と同じくらいだから、印象的に大丈夫であって欲しいと、いつのまにか切に願っていた。一郎は交番に着いた。
景子はまだ来ていないらしかった。見過ごしたかと思い、もう一度交番の周りを見回したが、やはりいなかった。一郎はドタキャンをされたのかと一瞬不安になった。
とりあえず待つ事にした。交番の周りには何人も待ち合わせらしき人がいて、一郎は自分の立ち場所を探すのに苦労した。しかしいいタイミングで若い女子が携帯電話で話をし始め、そのまま交番を離れていった。一郎は彼女のいたスペースに立った。交番の壁にもたれ、一郎は一息つく事が出来た。
一郎は行き交う多くの人々を眺めた。一郎はいつ頃からか、外で風景や人々を見ていると、自分が暗くて狭い路地のずっと奥にいるかのような感覚になる事があった。遠くに陽の当たる道があり、そこに人々が歩いているのが見えてはいるものの、自分はそれを路地のずっと奥から見ているだけのような、そんな感覚がしていた。一郎は、自分は外の世界を見て歩いたりはしているものの、頭の中はずっと寝ているんじゃないかと思う事があった。一郎は、寝ながら生きているような気がする事がよくあった。
「ごめん! ごめんね」
景子が現れて、一郎に声をかけた。一郎は少し驚いた。
「いや……、僕も遅れて、今来たんですよ」
「服選ぶのに時間かかっちゃった。私の方が近いのにね」
早口で言う景子は、目の焦点が乱れ、顔が痙攣しているように見えた。景子の尋常じゃない様子に、一郎は驚いて、少し引いてしまった。景子は、少々異様な、リズムのおかしい呼吸をしながら、どこかの地面に目をやっていた。しかし、不思議と汗をかいている様子はなかった。
「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫。遅れてごめんね」
景子は薄黄色のTシャツにジーンズというシンプルな服装だった。一郎はそういうものに疎い為よくは分からなかったが、良さそうなものを着ていて、スラッとした背の高い景子によく似合っているなと感じた。
「あ全然待ってないですよ。……そのTシャツいいですね」
景子は笑顔になり、初めて一郎の目を見た。
「良かった~」
そう言いながら、景子は急に咳をした。突発的に息を吐き出すような、少し不自然な空咳だった。
「本当に、大丈夫ですか? どこかで休みます?」
「大丈夫大丈夫。本当に大丈夫なんだから。行こう。場所行こう」
一生懸命な景子を、一郎は不思議と愛らしく思った。一郎は少し笑った。
「はい。じゃ行きますか。本当に大丈夫なんですね?」
景子はハンカチを顔にあてて、三四回首を縦に振った。
「あ、その前にトイレ行かして」
「分かりました」
一郎は少し楽しくなった。




