③
一郎は家に帰るとすぐ風呂に入った。一郎はアトピーの為に湯治療法をしていた。湯治といっても水道水の一般的な風呂だが、循環機を通す事によって、二十四時間いつでも一定の温度で風呂に入る事が出来る。元々は、自宅温泉療法として始めた湯治だった。ステロイド外用薬が効かなくなり、一郎がアトピー性皮膚炎で深刻に悩み始めた大学二年生の頃、漢方などの幾つかの治療法を試し、関連本を何冊か読んで、行き着いた治療法がこれだった。自宅に温泉を配送し、それを温めて一日三四時間程度、朝昼晩に入る。この治療法が書かれた本には、自分と同じような症状と経過を辿ってきた人々の改善例が幾つも掲載されていた。彼らの湯治開始時の一番酷い時期の写真と、改善後のきれいになった肌の写真とが、比較されて複数載せられていた。一郎は、これなら、と思ったのだ。
当時、一郎は大学をやめたがっていた。やりたい事が決まっていたし、その為にも酷くなったアトピーをいち早く治す事が、あまりにもはっきりとした人生の目標となっていた。とりあえず休学をして、治療に専念させてくれと、一郎は何度も両親に懇願した。しかし、卒業する事がお前のけじめだ、と父親の幹夫は言った。また母親の陽子は、アトピーなんて気にする方がおかしい、と半分笑いながら言った。一郎は、一般的な皮膚科の治療法はもうあてに出来ないんだと何度も訴えた。しかし両親は、どこかにいい病院はないの? と離れたところから言い放つだけだった。一郎がアトピーの苦しさを泣きながら陽子に訴えた時、陽子は、話の途中で見ていたテレビ番組の事を話し始めていた。
一郎には当然自信がなかった。大学をやめて、アルバイトをしながら自宅温泉療法をする事は不可能だと分かっていた。なぜなら、それまで使っていたステロイド外用薬を断てば動けなくなるほど全身のアトピーが悪化するのは目に見えていたし、またこの治療法は民間療法の為、初年度に二百万円ほど費用がかかってしまうからだ。自分一人ではやっていけない、と一郎は思った。しかし、それほど一郎は、この治療法に心を奪われていた。一郎は、父親の経済力に頼りたかった。
結局、アトピーで辛く、苦しいほど恥ずかしい思いをしながらも、一郎は卒業するまで大学に通った。皆お洒落をし、恋愛をし、豊富な時間を使って自由に学生生活を謳歌している中、一郎は、時には滲出液の出ている顔を隠す為、マスクをつけて大学へ行った。そして、卒業する直前に、再度自宅温泉療法を両親に懇願した。自分は子としての役目を果たしたのだから、次は貴方たちが僕の願いを聞いてください。今まで僕と同じように病気を苦しんで来ましたか? 僕は喘息もあって動物アレルギーなのに、家はいつも汚くて、犬や猫の毛がそこら中にあるじゃないですか。今までに本屋などで僕の病気に関する本を立ち読みした事がありますか? 両親は一郎を批判しながらも、渋々自宅温泉療法を引き受けた。
かなり高額な治療をさせてもらい、一郎は両親に感謝した。しかし、引け目を感じながらも、どこかで当然の権利だと一郎は信じていた。
湯治が始まり、一郎のアトピーは薬を断った反動で日に日に悪化していった。ひと月も経たないうちに全身の表皮が剥がれ、ベタつく薄黄色い滲出液が出始めた。体毛は全て皮膚と共に抜け落ち、頭髪も半分近くが抜けた。一郎は動く事が出来なくなった。トイレと風呂に行く時以外はほとんどベッドの上で胡坐をかいて座り、その足の上に顔を伏せていた。四六時中全身の神経が外気にさらされ、掻き傷、裂け傷、肉が痛く、気が狂うほどの痒みが一郎を襲った。横になって寝るよりも、胡坐の上に顔を伏せた方が幾分耐えられる為そうしていたのだが、それでも痛さと痒さで、一郎は時折呻くような声を出さずにはいられなかった。呼吸する事で起きる腹の動きでさえ、腹の神経が裂けるような痛みがあった。
当然夜も昼も眠れない。長く眠れて四五十分程度だった。下着は滲出液で体中に張りつき、脱ぐ時にはそれを剥がすのが大変だった。シーツはいつも皮だらけで、一郎は、自分の落とした皮の中で寝ているような気がしていた。下着から染み出た滲出液の跡が沢山シーツにつき、洗濯を頻繁に行う必要があった。
衛生の為に晴れた日は必ず布団を干した。溜まった皮を捨てる為、一日一回は必ずベランダでシーツを振るった。日中は大抵誰も家にいないので、一郎は外気の苦痛に狂いそうになりながら、それをやった。布団を干す時、風呂に行く時、トイレに行く時、一郎は意を決して動き始めるのにいつも十分ほど時間がかかった。相当の気を入れて動かないと、全身の苦痛を相手にする事が出来なかった。こんな苦痛をずっと感じながら何ヶ月も生きて、自分は正常な精神でいられるんだろうかと、一郎は時々ぼんやりと思う事があった。
当時、父幹夫は前にいた会社の退職金で自身の会社を始めてから一年ほど経っており、少しだけ時間に余裕があった。その為、一郎の身の回りの世話や温泉の交換など、諸々を、帰宅後ほぼ毎日やってくれていた。一郎は、学生の頃はあまり幹夫との接点がなく、会話も殆どしなかった。その幹夫があんなに反対した温泉の交換をし、浴槽と循環機の洗浄を定期的に行ってくれた。自分の愚痴や不満も素直に聞いてくれるようになった幹夫に対し、一郎は戸惑いを覚えながらも、初めて父との間柄を持てた事に嬉しさを感じていた。
それまで、幹夫の事は幼少期から聞いていた陽子の愚痴のイメージしかなかった。幹夫の人柄、暴力、女性関係等……。しかしその愚痴をほぼ毎日のように一郎に聞かせた陽子は、世話という世話を何もしてくれなかった。一郎には四つ離れた兄がいたが、秋山家にとって最大の悪者とされてきた父幹夫が、幹夫だけが、一郎の身の周りの世話をした。一郎は不思議な気持ちと共に、陽子に対して強く不満を募らせた。一郎だって陽子の愚痴を好きで聞いていた訳ではなかったのだ。自分は病気で世話のかかる子供だから、せめて聞き役ぐらいにはなろうと、少年期の一郎なりにどこかで使命を感じて聞いていたのだ。しかし、陽子は一郎の心配事をあまり聞こうとはしなかった。むしろその心配事をネタに、一郎をからかう事の方が多かった。
しかし、湯治を開始してから数ヶ月が経った頃、幹夫の多額の借金が明るみになった。幹夫にはサラリーマン時代からずっと返済し続けている数千万円の負債があったのだ。幹夫は「全てお前たちの為に使ったお金だ」と家族には言っていたが、幹夫の性格からいって必ずしもそれだけではない事は家族全員が分かっていた。温泉湯治をしていた一郎は不安になると同時に、家族に対して余計に引け目を感じるようになった。
そんな矢先の事だった。その日幹夫は出張で家に居ず、一郎の夕食は、パート帰りの陽子が買って帰る事になっていた。一郎は普段なら夜の八時頃夕食を食べていたが、その日は陽子の帰る十時過ぎまで待つ事となった。
夕食を食べた後は、いつも少し経ってからトイレに行かなくてはいけなくなるので、一郎は、夕食を取る事が少し不安になっていた。というのも、二階の一郎の部屋から出て、頑張って一階のトイレに行き、便座に跨っても、なかなか便が出てくれない事が多かったからだ。顔や体を掻き、全身の苦痛に耐えながらなんとか力を入れ、やっとの思いでいつも用を足していた。また、トイレに行った後は、風呂に行かなくてはいけなかった。そして一時間ほど入浴した後、頑張って部屋に戻り、睡眠を試みるのであった。その為十時以降に夕食を取るのはその後の行動も全て遅くなるので、体を気遣いたい一郎にとっては、出来れば避けたい事柄だった。しかしこの日は仕方がなかった。一郎は、陽子の帰宅を待った。
しかし十時を過ぎても、陽子は帰らなかった。一郎はいい加減腹がすいてきた。何も運動をしなくても、長時間風呂に入り、ずっと苦痛に耐えるだけで、充分腹はすくのだ。
しかし十一時になっても、陽子は帰らなかった。一郎は苛々してきた。こんな事なら、昨日のうちに幹夫に何か買ってきてもらっておけば良かったと思った。一階にはパンもないし、米を洗って研ぐのは滲出液だらけの裂けた手では出来ればやりたくない。たとえ気を入れて頑張ってしたとしても、出来るのは一時間後だし、出来たら出来たでまた一階に行かなくてはいけなくなる。それにもうすぐ母親が帰ってくるのであれば、出来れば少しも動きたくない。
一郎は陽子を待った。しかし陽子が帰ってきたのは、深夜の一時前だった。
車が帰ってくる音がし、ガレージが開けられ、車庫に入った。一二分して、車のドアの開く音が聞こえた。ビニール袋の揺れる音と足音が聞こえ、玄関が開いた。陽子は下で衣類を脱いだり、郵便物を見たり、何かしているらしかった。一郎は苛々した。暫くしてからビニール袋の音がして、そのまま、階段を上がってきた。部屋の襖が開くと、陽子が袋を持って入ってきた。
「……ありがと」
一郎は苛つきを抑えて言った。
「あんたこの部屋むんむんするよ。時々は換気してんの?」
袋から弁当を出し、ラップを外しながら陽子が言った。
「……いや、寒いから」
「こんな所で暗くしてじーっとして、誰だって病気になるわ」
一郎は腹が立つと同時に、悔しくなった。
「……何でこんなに遅くなるの?」
「しょうがないでしょ、私だってパートで忙しいんだから」
「だったら行く前に何でもいいから食べ物置いていってくれないかな。こんな遅くに食いたくないよ」
「あんたもね、こんな所でじーっとしてないで、お兄ちゃんみたいにジムでも行って運動しなきゃだめよ」
「行けるんだったら行ってるよ!」
「そんな感じだから治らないのよ」
一郎は悔しさと腹立たしさで耐え切れなくなり、弁当の置かれた小さな机をひっくり返した。
「俺が好きでこうやってると思ってんのか! こんな所で!」
「あんたが選んだんでしょ? あんな高い温泉入って……」
陽子は散らばった弁当を拾い始めた。
「俺の体の事真剣に考えた事あんのか? アトピーの何を知ってんだよ! 喘息の何を知ってんだよ!」
「あんたの病気はねぇ、全部精神的なものからきてんのよ。気が弱いんよ……」
一郎は近くにあったリモコンや雑誌を陽子に投げつけた。
「何すんのよ」
「おい! てめぇ二度とそんな事言うな!」
「ずっとこんな生活してるからよ……」
「てめぇ二度と言うなっつっただろ!」
一郎は泣きながら、近くにある物を陽子に投げつけた。
「てめぇまた言ったら殺すからな!」
「痛いなぁ! 勝手にしなさいよ!」
半泣きで部屋を出た陽子は、そのまま階段を降りていった。一郎は喘息で気管からヒューヒューと音を出し、涙を流しながら、全身の痛みを感じた。
弁当の中身は意外と遠くまで飛んでいた。一郎の好きな俳優ショーン・ペンのポスターにも少しかかっていた。一郎は、苦痛に耐えながら散らばったご飯やおかずをちり紙で拾い集めた。集めたものをゴミ箱へ捨てながら、このまま自殺してしまおうか、と一郎は考えた。そこへ、ちょうど帰ってきたばかりの兄隆が階段を上がってきて襖を開けた。
「おい、お前さっき母さんに何したんだ」
一郎は床を拭いた。
「母さんいろんな所にアザ作って紫色になってたぞ」
一郎は拭いたちり紙をゴミ箱に捨て、ベッドに座った。
「お前何やってんだよ。今うち大変なの知ってんだろ。広山の母さんの土地も全部売って、その金でやっと何とか生活してんだ。高い治療費払わせて、挙句の果ては暴力か。飯くらい自分で何とかしろよ。わざわざ部屋まで持ってこさせて」
「……下には猫がいるから喘息が出るんだ」
「取りに行くぐらい出来るだろ。手足がねぇ訳じゃあるめぇし」
「全身から汁が出てるんだよ。それに、生活の事はお兄ちゃんには言われたくない。自分だって都合のいいフリーターじゃん」
隆は一郎の両肩を掴んで壁に押し当てた。
「お前何様のつもりなんだよ」
「ジムで鍛えた体はどんだけ凄ぇんだ?」
一郎は隆の腹に拳を当てた。
「あ? 何だこのパンチは、おい!」
隆は一郎をベッドから引きずりおろし、何度も何度も顔を殴った。一郎は隆の体を何とか掴もうとしたが、強い力で振り払われ、何度も何度も殴られた。
「おい! おい! 調子に乗んなよてめぇ」
殴られ続けながら一郎は、兄は随分と長く殴るんだなぁ、と思った。顔ばかり殴るんだなぁ、と思った。いつまで続くんだろう。これはひょっとしたらやばい状況なのかもしれない。人にこんなに殴られるのは初めてだ。一郎はジェットコースターに乗っている時の感覚を思い出していた。「おい、おい」と不快に言われながら、一郎は隆に好き放題殴られた。
殴り疲れたのか、隆は荒い息でベッドに腰を下ろした。一郎はCDを入れた棚の前で、暫くそのまま横になっていた。
「俺もキレると、どうなるか分かんねぇからなぁ」
隆は少し笑って気持ち良さそうに言った。ゴミ箱のご飯とおかずが、再び部屋中に散らばっているのを一郎は見た。
隆が出て行った後、一郎は自分の小指の第一間接がずれている事に気がついた。その夜、一郎のアトピーは不思議と痒くなかった。