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 府郷神社では沢山の蝉の鳴き声が幾重にも重なって波のように響き、境内全体をうねっていた。その中依然表情を変えず、何の音も立てずに、本堂は佇んでいた。

 赤い光の柱が、一瞬本堂の上に突き抜けた。本堂から、ゴツ、ゴツ、と鈍い音が聞こえてきた。少しすると、本堂の下の木々の暗がりから、厚手のコートを着た女が一人、大きなトランクを引きずって、外に出てきた。佐藤景子だった。景子は出て立つと、暑そうな顔で、辺りを少し見回した。そして自身を見て、コートやトランクに付いた砂を手で振り払った。景子は黒髪が長く、背の高い、大きな目をした若い女だった。景子は本堂の前まで行き、一度、しめ縄を鳴らしてみた。

 景子は神社を出ると、脱いだコートを脇に抱え、トランクを引きずり、暫く歩いた。折り目の付いた長さ二十センチほどの紙を右手に持ち、それをよく見ながら歩いた。紙を見て確認すると、景子は「パールホテル」というビジネスホテルに入っていった。

 チェックインを済ませ、部屋に入ると、景子は水を三杯飲んだ。そしてTシャツとジーンズに着替えると、そのまますぐ、ホテルを出た。紙を見ながら十分ほど歩き、ある店の前で立ち止まった。コンビニエンスストア風の商店だった。店の入口の上には「みどりや」という文字が掲げられていた。景子は特に表情も変えず、紙を持ったままみどりやに入っていった。

 みどりやの二階では、一郎が休憩を取っていた。一郎は椅子に座り、箸袋を眺めていた。箸袋には、京子の携帯電話の番号が京子の字で書かれてあった。一郎は、暫くの間その箸袋を眺めていた。

 エプロンを付け、一郎はみどりやのレジに戻った。

「寝てた?」

 同じアルバイトの杉本が雑用をしながら言った。

「あ、いや」

「上の時計少し遅れてんの知ってる?」

「あほんと? 遅れた?」

 一郎は言いながらレジ内の掛け時計に目をやった。

「じゃ行ってきまーす」

 杉本は休憩に行った。杉本が自分の事を馬鹿にしているのはもう随分前から一郎には分かっていた。しかし仕事が遅く、接客も不安定で、なおかつ異常に腰を低くしてしまう一郎は、杉本の態度が本当に嫌ではあったが、どこかで、仕方がないと諦めてもいた。

「いらっしゃいませ」

 客が来て、一郎は接客を始めた。接客をしながら、不意に菓子棚の前から女が自分を見ている事に気がついた。景子だった。

「ありがとうございました」

 一郎はレジに金を入れながら、ちらっと景子を見た。景子は目を逸らし、商品を見始めた。一郎はレジを閉め、従業員用の連絡帳を開いて読み始めた。昨日の欄に「ポットが故障していて、湯が沸いていないと客から苦情があった」と書かれてあった。ポットを見ると『故障中』の張り紙が張られてあった。景子がカレーパンをレジに置いた。一郎は慌てて連絡帳を閉じた。

「いらっしゃいませ」

 一郎はバーコードを打った。

「百三十六円になります」

「あの、すいません」

「はい」

「楢山大学はどの辺にありますか?」

「楢山大学ですか?……すいません僕もちょっと詳しくは分からないんですけど……」

 一郎は少し考えて、店の前の道を指差した。

「この道を右にまっすぐ行くと百メートルほど先で倉島街道という道と交差してるんですよ。その交差点を左に行って、……そうですね、三分ほど歩いて頂いたら大学の辺りに出るんじゃないかと思うんですけど……」

 景子は道を見ながら難しい表情をした。少し考えた後、目を下にやり、難しい表情のまま口を開いた。

「よく分からないんで一緒に行ってもらえません?」

「え?」

「分かんないんですよ、今の説明だと」

 一郎は目の前の女が少し怖くなった。

「いや、僕も、仕事がありますんで……。信号で言ったら……、三つ目の信号を左に曲がるだけなんで……。後はまっすぐ行って頂いて、すいませんが、またその辺りで聞いてもらえませんか?……」

 景子は目を下にやったまま眉間に皴を寄せていた。

「……あ、すいません、百三十六円になります」

 次の客がレジに来た。

「……すいません」

 景子は難しい顔をしたまま、ゆっくりと手をポケットに入れ、そこから二つ折りにされた一万円札の束を取り出した。そして、そのうち一枚をレジに放った。

「一万円からで……お預かりします。……九千八百六十四円のお返しです」

 景子は釣りを手の平で受け取ると、そのまま小銭ごと握ってジーンズのポケットへねじ込んだ。その瞬間、急に景子の息が荒くなった。左手を頭に当て、奥歯を食いしばり始めた。

「こちらこのままで……」

 景子はパンを取って足早に出て行った。

「ありがとうございました。いらっしゃいませ」

 一郎は接客をしながら、出て行った景子を目で追った。

 景子は頭を手で押さえ、呼吸を乱して足早に歩いた。そして何とか目を開き、数メートル先に細い脇道を見つけた。

 日陰になった脇道に入ると、景子は民家の塀にもたれた。手に持っていたパンを落としてポケットから五センチ四方のケースを出すと、札束と小銭も一緒に出てしまい、それらが落ちて地面に散らばった。震える手でケースから錠剤を数粒手の平に出すと、景子はそれを一気に口へ放り込んだ。苦しみに耐え、塀にもたれたまま、景子は地面に腰を下ろした。

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