12
一郎のアパートの前に車が一台停まった。ビニール袋を提げた幹夫が、車から降りた。
一郎は部屋のベッドに腰掛け、アルバムのジャケットを見ながらプリンスのCDを聞いていた。アパートの階段を上がる足音が聞こえ、父だと思い、CDを止めた。足音が近づいて、ドアベルと共にドアが開いた。一郎は父が夕食を持ってくるという事で、予め鍵を開けていた。
「遅くなってごめんな」
幹夫が袋を持って入ってきた。
「いや、ありがとう」
一郎は一応立ち上がった。幹夫は袋の中からラップで包んだカレーライスの皿を出し、机の上に置いた。そしてもう一つ、小さな皿を出してカレーライスの横に置いた。福神漬けだった。幹夫は台所に行き、溜まっていた洗い物を洗い始めた。
「ありがとう。腹減ったぁ。カレー久しぶりだな」
「体の調子はどうだ」
「……あまり良くないかな。……白内障の手術日決まったよ。再来月の三十日」
「そうか……」
幹夫は洗ったスプーンを一郎に渡した。
「ありがと」
一郎はラップを皿の隅から少しずつ外していった。
「……一郎、すまんが五万円ほど貸してくれんか」
やはりそうか。一郎はそう思った。
「また? 今月は僕も余裕が無いのに……」
「じゃいい……」
一郎は、毎月のようにある幹夫の金銭の催促に嫌気がさしていた。また、これまでに貸した分の金を本当に返してもらえるのか心配になっていた。
「あとどれだけ借金があるの? いつもいつも支払いって……」
「……二千万くらい」
「え? 二千万円? そんなにあるの? 何でそんなに……」
「お前の治療に幾らかかったと思ってんだ! あんなよくも分からん治療に!」
幹夫の手放した食器が他の洗い物に当たり、台所に水が飛び散った。
「……それは、感謝してるって言ってるじゃん」
「今は大変なんだ! そうやって、わしの神経を逆撫でするな!」
一郎は理不尽だと感じた。
「……別に、責めてるわけじゃないじゃん」
「責めてるじゃないか!」
一郎は、自宅温泉療法にかかった費用を思い出した。そして、未だ良くならないアトピーの症状を申し訳なく思った。
「……貸したら、いつ返してくれるの?」
「もういい!」
幹夫は出て行こうとした。
「ちょっと待って」
一郎は咄嗟に言った。幹夫は立ち止まった。財布を取った一郎は、中から紙幣を出した。
「二万円でいい? いつ返してくれる?」
「来月の月末には払う」
一郎は紙幣を二枚、幹夫に渡した。
「これで二十七万な。借りてる金は必ず返す。余計な事は言わんでくれ。じゃあな」
幹夫は履いてきたサンダルを履き、ドアを開けて出て行った。一郎は、自分の立場は本当に弱いものなんだと感じた。お金を貸す事は当然であり、その事に関して良い気持ちがしない自分の方が悪いのではないかと自身を疑った。貸すという名目なだけいいじゃないか。本当だったら、自分は少しずつ治療費を返すくらいじゃないといけないのだから……。
しかし一郎は、幹夫の言動におかしさを感じ、少し引きつって笑ってみた。
一郎は首と顎のアトピーを掻き始めた。そして、自分の存在が分からなくなった。自分はどうしてこの世にいるんだろう。アトピーに耐え、夜も熟睡出来ず、外に出れば人目を避けるようにして動く。自分は俳優になりたかったはずだ。好きな俳優、思い入れのある俳優は沢山いる。好きな映画を話し出せばきりがない。好きなシーンを思い出せば涙も出るし、愛も感じる。……湯治に手を抜いた事は一度もない。自分は、湯治では治らないのか。湯治は、失敗だったのか……。本当は白内障だって嫌なんだ……。
眼科医から初めて白内障の診断を受けた時、一郎は自分の人生から太陽が失せたような、確実的な暗闇の中に自分の人生があるような、そんな気持ちになった。
「アトピーで目を強く擦ったりとか、あと今まで使ってきた、強いステロイド薬の影響があるかもね」
白内障の原因として、一郎は眼科医にそう言われた。まだ白内障の症状が出ていなかった頃、一郎は、時々内服するものや、顔に塗っている強いステロイド薬に対する不安を、当時通っていた皮膚科の医師に相談した事があった。
「君がステロイドを嫌がるのは自由だけど、アトピーはそういうもんなんだよね。ステロイドを上手く使って、付き合っていかなきゃ」
医師は、一瞬鼻で笑った後にそう言った。
一郎は、白内障になった事にある程度慣れ、ある程度諦めがついたつもりでいたが、やはりどうしても悔しく、悲しく、やりきれなくなる事が、意外と頻繁にあった。
一郎は自分の気持ちの中に、逃げる場所を自分で作る事が出来なくなっていた。死んでやろうか、と一郎は考えた。しかしそう思った瞬間、悲しくなった。自分は何者にも、神にさえも愛されていない。むしろ自分は昔から神に嫌われている。……一度、一瞬でいいから誰かに愛してもらいたい。自分は愛してきたはずだ。なのにこの仕打ちはなんだろう。自分は、人に優越感や興味などの精神的快楽を謙譲する為だけに生まれてきたのか。その為に毎日二時間風呂に入り、夜中に身体を掻きむしり、身体から出る滲出液の臭いを嗅ぎ、無理をしてバイトに行き、頑張って、真剣に、まじめに生きているのか。
死んだ方がいい。一郎はそう感じた。神を信じた自分をバカにした。そして、自分を思う事が出来なくなった。自分はゴミだと思った。
一郎は寂しくて、泣き出しそうになった。そして、昨日数時間一緒に過ごした、景子の事を思い出した。時計は十時を過ぎていた。
一郎は電話の受話器を取った。番号を押し、呼び出し音が鳴り始めると、一郎は景子に嫌われる覚悟をした。暫く鳴らしても、景子は出なかった。風呂にでも入っているのかと思い、諦めかけ、緊張がほぐれかけた頃、景子は出た。
「あ、佐藤さん? すいませんね。あ、昨日はどうも。……あ、今大丈夫すか? ……あの、こんな夜にあれなんすけど、時間とかありますか? ……いや、もしよければ、数分でいいので、ちょっと話でもしてくれませんか。……あ、すいませんあの、出来ればどこかで、お会いして……。はい。ほんとすいません。悪いです。昨日に今日であれなんですけど……。今日は蒸し暑いですよね。明日大学とか早いですか? ……ほんとですか? いいんですか? ありがとうございます。あ、マジでいいんですか? ……ああ、ありがとうございます。じゃあ、どうしようかな……」
景子は意外とすんなり受け入れてくれた。一郎はカレーライスの皿に再びラップをかけた。




