10
花火が終わった後、二人はそのままマンションを出て、土手からの帰り客と合流した。
「お腹すかない?」
景子の食事への誘いは、夜景を見るのを忘れてしまった事と、これからの行動について切迫気味に悩み、歩く事すらおぼつかなかった一郎にとってとてもありがたいものとなった。
「そうすね。何か食べましょう。……何か食べたいものとかあります?」
「ん~。何でもいいよ。それよりトイレに行きたいんだ」
景子の返答に、一郎はなぜか強い寂しさを感じた。
駅付近のお店はどこもいっぱいで、結局二人は駅から少し離れた、少々寂れ気味のラーメン屋に入った。一郎は痒くなり始めていた顔のアトピーを我慢しながら、花火の話や、店内のテレビで放映されていたバラエティ番組に出ているタレントの話などを、笑顔を作って景子にしていった。景子は時折笑顔を見せ、自然に応えてくれた。一郎は景子の反応が嬉しかった。しかし、絶え間ないアトピーの痒みと、景子の落ち着きに反比例するかのように高まっていく緊張の中、ラーメンの正常な食べ方すら分からなくなり、急に、腹を下しそうになった。
「ちょっとトイレ行ってきます」
「あはい」
一郎がトイレから戻った頃には景子の器はなく、伸びた麺が多少残っている、冷え切ったスープの入った一郎の器だけが卓の上にあった。景子は、テレビを見ながら何かの薬を水で飲んでいた。
会計は別で払った。一郎は緊張で再び腹を下しそうになった。
「そんなに美味しくなかったですかね。すいません」
一郎は店を出てすぐに言った。
「そう? 俺、……私味とかよく分からないから」
「いや、すいません」
一郎はとりあえず謝りたかった。
景子と歩きながら、景子の腕や、顔や、鎖骨の辺り、揺れる髪の毛を、一郎はちらちらとよく見ていた。一郎は、自分は女の人といるんだという事を、もう少しだけ余計に感じていたかった。しかし、そんな下心がばれるのも怖いと思い、何か適当に話題を考えた。下を向いた時、不意に景子の左手薬指に付けた、指に沿って細長い銀の指輪が一郎の視界に入った。
「佐藤さん、その指輪変わってますね」
「あ、これ……」
景子は一瞬指輪を隠そうとした。しかし、何か考えた後急に笑顔を作った。
「これいいでしょう。なかなか手に入らないんだから」
景子の一転した態度を一郎は不思議に思った。
「そ、そうなんですか? 確かに変わってますもんね」
景子は少しだけ、瞬きに落ち着きがなくなったように見えた。一郎は咄嗟に別の話題を考えた。
「そういえばさっきのお店、ゆで卵が食べ放題でしたね」
「あ、そうだったね」
「あ見ました? 実は僕、ゆで卵駄目なんですよね」
「へ~……」
「小さい時に腐ったやつを食べちゃって……」
「それでか! 何か私もゆで卵の字を見て変だなぁって思ったんだ」
「え?」
「いや……、私も苦手なんだと思うんだ、ゆで卵は。だってあれ、確かほら、中身、黄身が、歯の間にくっついちゃうでしょ?」
妙な展開ではあるが、リアルな話をする景子を一郎は面白いと思った。
「そうなんですよ! 腐ったやつが歯に付いた時なんか最悪でしたよ! ……すいません。でも嬉しいなぁ。初めてですよ。ゆで卵嫌いに賛同してくれた人」
景子は「はっはっは」と声を出して笑った。適当に始めた話が意外な共感を得られる会話になって、一郎は嬉しかった。これに乗って、もっと苦手なものの話を広げようかと考えた。
しかし、口の周りの痒みが急に強くなった。一郎は痒みをごまかそうと口の周りに力を入れたり、表情で鼻の下を伸ばしたりしたが、痒みは弱まるどころか、さらに強まった。景子との今の雰囲気を何とかもう少しだけ維持させたいと思ったが、痒みを我慢する事にどうしても意識が奪われていった。大通りに出た所で、景子が立ち止まった。
「今日はありがとう」
「あ、どうも……」
「私の泊まってるとこそっちだから」
景子は大通りの先を指差した。景子の「泊まってる」の言葉に一郎は少しだけ猥褻な想像をした。
「いえ、こちらこそ……。近いんですか?」
「うんすぐそこ」
「あぁそうですか」
一郎は痒みを我慢しながら、景子に対する敬語使いをそろそろやめてみようかと考えた。その方が、自分の中で景子ともう少し距離を縮められるかもしれない。しかし急に敬語をやめたら、景子に不快に思われるだろうか。しかし、景子はいつのまにか自分と友達のように話をしている。それならいいんじゃないだろうか。
「……じゃ、また、おやすみなさい」
一郎はいつのまにかそう言っていた。
「おやすみなさ~い」
景子は笑顔で手を振った。一郎も手を振り返した。景子は手を振りながら、後ろを向いて去っていった。一郎も歩き出した。
一郎は歩きながら首や口の周りを掻き始めた。掻きながら振り返り、歩いていく景子の後ろ姿を眺めた。景子は普通に歩いていた。むしろ悠然と歩いているように見えた。一郎は前を向き、顔を掻きながら歩いた。
景子は、歩きながら何か考えていた。そして後ろを振り返った。歩いていく一郎の後ろ姿を見ながら、景子は暫く後ろ向きに歩いた。
一郎は顔を掻きながら自転車に乗り、アパートへ戻った。部屋に入るなり、それまで掻いていた手をより強め、顔と首を両手で掻きむしり始めた。今日一日の自分の不甲斐なさや恥ずかしさを思い出し、またその事について、あの不思議だが綺麗な景子はどう思ったのか、考えながら何度も何度も掻き、叩き、指と手で強く擦った。掻いている内に体温が上がり、汗が出始め、余計に痒みが増した。床に落ちて散らばる沢山の皮を見ながら、一郎は、また何日か分アトピーの治るのが遅れたと感じ、翌日のアルバイトが心配になっていた。




