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 二〇〇三年七月。その日も天気が良かったので秋山一郎は嫌だった。電車のつり革に掴まる一郎の顔に、まだ昼のような外の明るさが反射する。一郎は恥ずかしかった。つり革を掴む薄赤く、腫れ、所々皮が剥け、裂けて中の肉が見えるアトピー性皮膚炎の酷い手と手首もそうだが、それ以上に首から上のアトピーの酷い顔が、外からの明かりでありのままに鮮明に、公共の場で露呈されていると感じたからだ。後ろのつり革に掴まればよかった。一郎はそう思った。後ろは日影側だから、ここまで自分の正体をリアルに露呈する事はなかったんじゃないのか……。時々大きなビルや建物で一瞬影が出来るが、電車は走っているのですぐにまた外の明かりが一郎の顔を照らす。一郎は、電車と太陽に弄ばれているような気がした。

 一郎は、彼の中で、髪の毛が少し伸び気味の状態であった。髪の毛先が顔や耳や首に当たって時折急に痒くなり、電車の中でもさり気なさを装いながら少し強めに掻く事があった。しかし一郎は、この髪の毛の長さが耳の裏の切れて黄色い滲出液を出しているアトピーを隠せて丁度いいかもしれない、とも思っていた。しかし、耳の裏のアトピーがもう少し良くなってくれないと床屋には行き辛いな、とも感じていた。

 つり革に掴まる手の腕に顔を伏せ、疲れてもいないのに疲れて眠いような態度を一郎はとった。

 電車が栄籐駅に着いた。もう既に待ち合わせの時間に十分近く遅れている。しかし一郎はトイレに行かなければいけなかった。別に尿意を催した訳ではなかった。自分の顔を、確認しに行かなければいけなかった。

 一郎はさり気なく駅のトイレに入った。トイレは臭かった。頻繁に人の出入りする中、少し恥ずかしい気も持ちながら、一郎はそのまま鏡の前に立った。やはり結構アトピーが出ている。家を出る時に何度も確認したが、その時よりも酷く見える。鏡の上から照らしている白色の電光が、俺の顔をより酷く見せるのだろうか。口の周りや顎、眉の部分や目の周囲の皮の剥け具合、荒れ具合もよく分かる。いやいや、今は夏だ。ひょっとしたらこれくらいの顔の炎症と皮剥けは、学生や自分くらいの年齢の男なら、海かどこかへ遊びに行った際の日焼けの範囲内として充分通用するんじゃないのか。一郎はトイレに出入りする若い男たちの顔と、隣で手を洗う同年代くらいの男の顔を見た。そして自分の顔を見た。……違う。俺はアトピーなんだ。一郎は腕の、アトピーの少ないまだ幾分きれいな部分の肌の色と、首から上の、顔の肌の色を鏡で見比べてみた。やはり違う。首から上は全体的に不自然に赤く、その赤さは目の周りや額など、部分部分によっては特に変な赤さだ。何度も何度も掻いているから肌が肥厚しているし、何本ものくっきりとした皺は、明らかにアトピーらしさを物語っている。象のような肌とはよく言ったものだ……。

 一郎は二十七歳だった。一郎は思った。俺は本当はどんな顔をしているんだろう。もうここ何年も目蓋がちゃんと開いていない。今日初めて会う女の人二人は俺を見てどう思うだろう。アトピーだという事は小向に伝えてもらってある。俺の事を厚ぼったい二重目蓋の人だと思うだろうか。それともアトピーでむくんだ目をした人だと思うだろうか。俺は、本当は割とくっきりとした二重目蓋なんだ。俺の顔を見て引くだろうか。心理的に距離を置かれるだろうか。もし素敵な女の人が待っていたとしたら……、その人にとって俺は恋愛の可能性など考えられないタイプの男になるんだろうか。キス……、ましてやセックスなんて……。

 トイレが先ほどにも増して混み始めてきた。自分は迷惑な奴かもしれない。一郎はそう思った。お前のせいで手が洗えねぇじゃねぇかと思われていたらどうしよう……。一郎は少し焦りながらトートバッグの中からスキンオイルの小瓶を出し、口や目の周りの皮を所々剥き取り、少しずつオイルを塗っていった。

 改札を通りながら一郎は考えた。アトピーは今はもうメジャーな病気だ。アトピーの事は伝えてもらってあるし、彼女たちが俺の顔を見てたとえ不安を覚えたとしてもその時間はそう長くはないはずだ。女の人に僕ら男性にはない受容性と優しさと大人びた素性があるのであれば、すまないがそこに甘えさせてもらいたい。……外は明るいな。オイルを塗った刺激で今少し顔が痒いが、まだ我慢出来る範囲内だ。たのむから家に帰るまでもってくれ。ひどい痒みを堪えながら平静を装って皆と接するのは、本当に辛いんだ……。

 待ち合わせ場所に着いた一郎は、小向誠二と沢井麗華と今中京子を見つけた。その瞬間、それまで自身の懐に抱え込んでいた不安や思いを、一郎は一気にどこかへやった。

「すいません……」

「出たよ」

 言いながら小向が腕時計を見た。

「すいません遅れて」

 一郎は京子と麗華に謝った。

「いえ」

 麗華が少し含んだ調子で言った。

「じゃ行こうか」

 言いながら、小向が歩き出そうとした。

「あそうそう」

 一郎が口を挟んだ。

「え?」

「俺ね、ジンクスがあってね、遅刻する奴だけは信用出来ねえっていうジンクスがあんだ」

 一郎は冷静を装って言った。一瞬笑った京子が麗華を見たが、麗華はどこか別の所を見ていた。

「行くよ」

 小向が半笑いで言った。小向の先導に三人はついていった。

 人通りの多い通りを歩く四人だったが、いつのまにか小向と麗華が先を歩き、その少し後方を一郎と京子が歩いて追う形になった。一郎は通り過ぎていく店々を見流していたが、本当は、すぐ近くを歩く京子に何か話しかけなくてはと、少々切迫気味だった。京子は小柄で、癖のない顔をしていて、ショートへアの綺麗な人だった。

「あごめん、名前なんて言うんだっけ」

「あ、今中です」

「そうだ今中さんだ。下の名前は?」

「あ、京子です」

「京子さんか。俺秋山一郎っていうの。よろしくね」

「よろしく」

 京子は笑顔でそう言った。一郎は嬉しかった。

「小向歩くの速えなぁ。沢井さんもよくついて歩いてるよ。ね」

 京子は意外と自然に笑った。一郎は嬉しかったが、言葉の返答ではなかったので、会話が途切れる事に次第に不安を感じ始めていった。何気なく視線を下に落とすと、京子の靴紐がほどけている事に一郎は気がついた。

「……今中さん、靴の紐ほどけてるよ」

「え? あ、うん、……いつの間にかほどけたみたい」

 一郎と京子は歩き続けた。靴の紐をたらりと揺らしながら、京子の足は前後に動き続けた。

「……直さなくていいの?」

「……いや、何か今紐結んだら麗ちゃんたち先行って見失いそうだから」

「気にしなくていいよ。小向携帯あるし」

「行く所知ってる?」

「いや知らないけど……。ほんの数秒でしょ? 紐踏んだりしたら危ないし、今日湿気があるから汚れちゃうよ」

「……いいよ。何かトロい女とか思われたらやだし」

 京子は微笑を浮かべて言った。一郎と京子は歩き続けた。一郎は、小向の後ろ姿を眺めながら歩いた。雑踏の中、一郎は自分の足音と京子の足音を聞いた。

「いいよ、直そ。俺ちょっと自分の靴の紐直したいから付き合ってくれる?」

「え?」

「悪い、ちょっと待ってくれる?」

 一郎は歩道の脇に腰を下ろして、靴の紐を結び直した。

「直さないの?」

「え? あ、うん」

 少し戸惑いながら、京子は一郎の横に腰を下ろした。

 一郎と京子は早足で歩いた。小向と麗華がビルの前でこちらを眺めていた。一郎はほっとした。

「あ、いたいた」

「良かった。ごめんね」

 荒い息で謝る京子を、一郎は可愛い人だと感じた。二人はビルの前に着いた。

「どうした?」

「え? あ、ごめんCD屋のポスター見てたら遅れちった」

「京子ちゃんを巻き込むなよ」

 一郎はすまなそうに笑った。

「ごめんごめん。ここ?」

「おう」

 四人はビルの中に入った。


 アラビア風の装飾がふんだんに施された店だった。それぞれの席には王宮の寝室にあるようなカーテンが天井から下がっていて、どの席も、ランプの淡い明かりがカーテンに揺れていた。店の暗い明るさに一郎は安心し、その日一日が少し楽しめそうな気分になった。

 カーテンで仕切られた四人席で、感じの良い女性二人を前にしての飲みながらの会話は、一郎にとってはとても新鮮だった。こんな機会を持てるのも、自分には小向という友人がいてくれるからだ、と一郎は思った。四人での会話は小向が率先して話題を出し、二人に話をふり、不自然な間が出来ないように進めていった。

小向は一郎の高校の同級生だった。一郎は小向という人に対して、時折複雑な気持ちになる事がそれまでに幾度となくあった。しかし、この席での小向の立ち振る舞いを見て、一郎はすまない気持ちを覚えると共に、小向に対して感謝の念を抱いた。そして、小向と友達でいる現在の自分を嬉しく感じた。

 四人は話をしながら連絡先を教え合った。携帯電話を持っていない一郎に、麗華はオリジナルの名刺を渡した。

「麗しい華で麗華だよ。ありえないよ」

 小向が言った。

「うるさいなぁ」

 麗華は笑って言った。

「お父さんが名づけたの?」

 一郎は名刺を見ながら聞いた。

「そうなのよ」

 小向が嬉しそうな顔になった。

「親父のセンスやばくね? 何かさ、AV女優みたいじゃね? 十年前くらいの。……痛っ」

 小向は卓の下の足を撫でた。一郎は少し大袈裟に笑った。京子は苦笑いをした。

「麗しい華かぁ。じゃお父さんの願いは通じたんだ」

 一郎はそう言ってみた。

「まぁありがとう。秋山君て優しいのね」

 女の人に初めて「優しい」と言われ、一郎は嬉しくなった。しかし恥ずかしくなり、京子に話題をふった。

「今中さんは? 京子って普通に京都の京に子供の子とかでいいの?」

「え? あそう。そうだよ。うん。普通に京子。……何か面白くなくてごめんね」

 一郎と小向と麗華はそれぞれに笑った。

「京子ってきれいな名前だよな」

 小向が卓の上を見ながら自然に言った。

「ありがとう」

 はにかむ京子を見て、一郎はどきっとした。自然な表情をする人だ、と思った。堂々とした人だな、と感じた。一郎は京子に、女を感じた。

 時間が過ぎた。ケバブなどのアラビア料理をつまみながら、こういう風に食事を一つの企画として自分の人生にあてがうのもいいものだな、などと一郎は思っていた。京子や麗華との会話も、割とうまくこなせたような気がしていた。むしろ先ほどの会話における自分の発言などは、かなり良かったんじゃないのか。麗華はあまり反応がなかったが、俺の中ではかなり満足のいくタイミングと言葉の選びと言い方だった。小向と京子はよく笑ってくれた。京子は自分の狙い通りに笑ってくれたんだろうか。もしそうであったなら、これほど嬉しい事はない。

 そんな事を考えていた一郎は、麗華と京子が自分の口元をちらちらと見ている事にふと気がついた。

「秋山日焼けでもしたの?」

 小向が口元を見て言ってきた。一郎は全身が凍りついた。

「え?」

「いや、口の周りが、何かボロボロになってっから」

 自分の指が咄嗟に口の横をなぞるのを一郎は止められなかった。一郎の前の卓上に、細かい皮が幾つか落ちた。麗華は不快な顔をした。

「ちょっとごめん……」

 ちゃんと言ったのか言わなかったのか、一郎は席を立った。

 トイレに入ると、一郎はすぐに鏡を見た。鼻の下、口の周り、顎にかけて、全体的に駅のトイレで見た時よりも酷く皮が剥けていた。また頬も、所々鱗がはがれるように皮が剥けていた。取り返しのつかない恥ずかしさで、一郎は一瞬にして全身に汗をかいた。落胆よりも、虚しさと焦りの方が勝った。自分はどうやって席に戻ればいいんだろう……。一郎は何も考えず、ただ数十箇所剥けている皮の一つ一つを、剥けている皮の大きいものから剥いていった。しかし、途中で急に口の周りが痒くなり、人差し指の爪で少し掻いてみた。すると余計に痒くなり、両手の人差し指と中指で口の周りを掻き始めた。すると全てが痒くなった。頬、眉間、額、顎、首。一郎は全てを掻き始めて、思った。あぁ、俺はこんな所で掻いている……。皮は限りなく剥けていった。

 そこへ一人、スーツを着た若い男がドアを開けてトイレに入ってきた。男は一郎を見ずに大の方へ入っていった。一郎は何とか冷静になろうと努めた。少し泣きたい気もあった。

 席に戻らなければいけない。朦朧とした意識の中で、一郎は悲しく気づき、戸惑った。戻るには、今よりももう少し見た目をごまかさないといけない。男が大の方に入ったのはラッキーだった。お陰でもう少し、鏡の前にいられる……。一郎は精神状態が少し麻痺していた。再び大きめの皮を剥き取ると、ポケットからスキンオイルの小瓶を出した。

 一郎は、オイルの塗りたくった顔を伏せて、トイレを出た。徐々に近づいてきた席では、小向が携帯電話を見せながら京子と麗華に話をしていた。一郎は恥ずかしくて仕方がなかったが、行くしかなかった。席に着くと、三人が一郎を見た。

「大丈夫か?」

 小向が軽く聞いた。

「いや、ちょっと肌の調子が悪くて……」

 一郎は誰に言うでもなく、そう言葉を発しながら、顔を伏せて椅子に座った。下に目をやる一郎の顔にはスキンオイルの光沢があり、額には、反射したランプの明かりが映っていた。一郎はどこかを見て、ちらっと京子を見た。京子は心配気に一郎を見ていた。一郎はすぐ目を逸らした。

 それから一時間ほどして、四人は店を出た。一郎には苦しい時間だった。痒みを我慢し過ぎて、武者震いのような痙攣をする事が何度かあった。一ミリ程度の小さな虫が何万匹も顔中に張り付いて、気まぐれにモゾモゾと動いたり、チクチクと咬んだりしているような感覚だった。

 四人は栄籐駅に着き、切符売り場の前で立ち止まった。駅は人通りも激しく、とても明るかった。一郎は顔を伏せ、頻繁に鼻の辺りを指で触った。

「じゃまたいつか飲もうよ」

 小向が京子と麗華に言った。

「うんいいよ~」

 麗華が自然に可愛らしく答えた。

「じゃまたね~」

 小向は手を振って言った。

「じゃあね~」

 麗華はそう言いながら、京子と手を振って歩いていった。京子は手を振りながら、軽くお辞儀をしていた。一郎は手を少しだけ振りながら、去って行く京子と麗華の後ろ姿を見た。一郎と小向も歩き出した。

「……どうした?」

「え?」

「何か後半元気なかったな」

「あぁ……いや、最近ちょっと忙しかったから疲れてんのかもしんねぇよ……」

 一郎は鼻の辺りを指で触りながら言った。

 アパートへの帰り道、一郎はアパートの数十メートル手前から顔を掻き始めていた。顔を掻きながら鍵を開け、中に入り、そのまま鍵をベッドの上に放って、思いのままに強く掻き始めた。強く擦ったり、表情を変えて顔や首の皮膚を伸ばしたりしながら、一心不乱に掻いた。俺は痒みをずっと我慢していたんだ。そう思うと、一郎は余計に自分の顔を掻きむしってやりたくなった。このクソ、このクソ……。掻けば掻くほどいろんな痒みが湧き出てくる。ここまで掻くと当然いろんな所から滲出液が出てくる。薄黄色く、嫌な臭いがし、乾くとべたついてかさぶたになるやつだ。滲出液が出始めているのを感じながらも、一郎はなおも強く顔を擦った。それだけ、ずっと痒かったのだ。吹き出る汗と滲出液でぬるぬるになり、ぐちゅぐちゅになりながらも、なお擦って、掻き続けた。一郎のアトピーの痒みは、一度熱めのシャワーである程度の時間流し続けないとなかなか落ち着かない。もうシャワーを浴びに行こうと思いながらも、一郎は再度顔を掻き続けた。こげ茶色のフローリングの床に、満天の星空のように、一郎の皮が落ちて散らばった。一郎は、明日酷い顔でバイトに行きたくないな、と思った。

 一郎にとってこの日の出来事は特に普段となんら変わりない流れだった。アトピーを気にして外出し、アトピーを気にして行動し、アトピーの痒さに耐えながら夜を向かえ、家に着くと同時に顔をこれでもかと掻きむしる。また一日分アトピーの治るのが遅れたと思うのが、一日のしめだった。そしていつのまにか、自分の存在を、ゴミ箱に捨てられた鼻をかんだ後のちり紙のように感じていた。





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