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保健室を出て肘にガーゼを貼りつけたまま、世界が水玉に見えるほど水玉柄を頭に思い描きながら二階の教室へと向かう。昼休みはもう二分も残っていない。朝飯を中途半端な時間に食べていなかったら、教室へは向かわずに高校の目の前にあるパン屋に向かっていたであろう。そうなっていたら、五時間目の出席も危ぶまれるところだった。
二年五組の教室に着くと、まだ半数ほどしか人がいない。それもほとんど女子だ。男どもは体育館か外かで何かしらのスポーツに興じているのだろう。そのまま帰ってこなくてもよいと念じつつ、俺は隣の席の渡見さんに声をかける。
「おはよ」
「ああ、おはよ。坂上くん、相変わらずの遅刻だねぇ」
渡見さんは化粧を直している。元から大きい目をさらに大きく見せようと奮闘中だ。
「地球に時差がある限りウィンブルドンの期間はやむを得ない。いや、もし家でWOWOWが見られたら全豪、全仏、全米の時期もやむを得ないな。どっかの局でマスターズシリーズなんかやってたりしたら、今後一切始業には間に合わないかも知れない」
「どうせいつも遅刻じゃん。それより、記憶喪失って本当?我門くんが言ってたけど」
「部分的にね。でも、渡見さんのことは少しも忘れちゃいないから安心してくれ。君の魅力はテニスボールが直撃したくらいで忘れてしまうようなものじゃない」
「嘘でも嬉しい」
「嘘じゃないさ」
「じゃあ、千円貸したことも覚えてる?」
強打に見せかけてドロップショットを打つように渡見さんはけろりとして言ったが、むろんのこと記憶喪失のせいではなく普通に借りた覚えはない。
「次の授業何だっけ?」
慌てて会話の流れを逸らす。
「世界史だよ」
渡見さんは化粧をしながら相変わらず顔色一つ変えずに答える。まったくもって見習うべきメンタルの強さである。テニスという個人競技ではこのように強いメンタルが往々にして試合を左右するのだ。
感心しているとチャイムが鳴り、男どもが汗臭さを漂わせながら教室になだれ込んできた。
「ようやく出勤か」
我門はジャージ姿だ。
「ああ、まあな。何やってたんだ?」
「バスケだ。あれは楽しいな。テニス部辞めて、バスケ部でも入るかな」
「阿呆なこと考えるな」
「お前、肘どうしたの?」
「先生来たぞ」
「お、やべ」
我門はいそいそと席に戻った。
世界史の田辺先生は入ってくるなり、厳しい顔つきで出席簿を睨んでいる。厳しい中にもユーモアを持ち合わせた先生であるが、さすがに出席簿のチェック欄は冗談で済まさない。間もなく俺の名前のところに付いているチェックに言及するだろう。
「坂上はまだ来てないのか?」
やはり。
「います。先生、いますよ」
「おお、お前いつ来たんだ?」
「いや、朝からいますけど……」
「正直に言わないと、この授業も欠課にしてやるぞ」
「すいません。昼休みに来ました」
教室に笑いが起こった。我門はこっちを見てにやにやしていやがる。
「まったく。遅刻の上に堂々とTシャツまで着てきおって」
田辺先生は文句を言ったが、あまり咎める気はないようで、すぐに授業を開始した。それはそうだろう。教室を見れば普通に制服を着ている方が少数派であることは一目瞭然だ。ウィンブルドンの服装規定の方が遥かに厳しい。




