殿下、離れられないんですけど!?②
長椅子へ着くと、殿下が先に足を止めた。
「座ろうか」
「はい」
殿下に合わせて腰を下ろし、私はようやく腕から手を離した。
隣へ座っていれば、光の筋にも十分な余裕がある。
ほっと息を吐いたところで、殿下がこちらを見る。
「そこまで緊張しなくても」
「……努力は、しているんですけど」
正直に答えると、彼が小さく笑った。
「そうか」
「殿下は、こういうことがあっても落ち着いていらっしゃるんですね」
私ばかり、慌てている。
殿下は最初から、声も表情も穏やかだった。
輪を見ても、引っ張られかけた私を支えたときも。
そう思って顔を向けると、彼は少しだけ眉を上げた。
「落ち着いて見える?」
「はい」
殿下はすぐには答えなかった。
右手を動かしかけて、輪へ目を落とす。
私の左手首も、少しだけ動いた。
彼はその手を止め、静かに膝へ戻した。
「……そう見えるなら、よかった」
不思議な返事だった。
尋ねようとしたところで、先生が準備室から戻ってくる。
手には、小さな道具を持っていた。
「お待たせいたしました」
私は慌てて姿勢を正す。
先生は輪を確かめ、殿下へ頭を下げた。
「順に外しますので、手首を近づけていただけますか」
殿下が右手を差し出す。
私も左手を伸ばすと、光の筋が短くなった。
先生が解除具を輪へ当てる。
小さな音がして、殿下の輪が開いた。
次に私の手首からも輪が外れ、二人を繋いでいた光が消える。
「これで、外れました」
「ありがとうございます!」
ほっとして手を引いた。
左手を動かしても、もう殿下の手は動かない。
当たり前のことなのに、少し不思議だった。
先生は手首に跡がないことを確かめると、道具を机へ運んだ。
点検が済むまで、展示は取りやめるらしい。
私は自分の手を一度開き、隣へ顔を向けた。
「殿下、お時間を取らせてしまって――」
「……もう少し、そのままでもよかったんだが」
動きが止まった。
……え。
殿下自身も、言ってから口を閉じた。
右腕へ落としていた視線が、ゆっくり私へ戻る。
「……殿下?」
呼びかけると、ほんの少し間があった。
それから、彼はいつものように微笑んだ。
「いや。歩調が合ってきたところだったからね」
……歩く速さの、お話?
そう思っても、すぐには頷けなかった。
さっきまで腕へ添えていた手が、妙に気になる。
私は左手を右手で包み、膝の上へ戻した。
「……私は、引っ張られないようにするので精いっぱいでした」
何とか答えると、殿下が小さく笑った。
「そうだったね。うまく合わせてくれて、助かったよ」
今度は自然に返ってきた声に、私も少し笑えた。
でも、先ほどの言葉は。
なかなか、頭から離れてくれなかった。
* * *
先生から改めて説明とお詫びを受けたあと、私は机へ置いていた鞄を持ち上げた。
手首に痛みはない。
何か変わった感覚が残っているわけでもなかった。
……ただ、心臓の方は。
まだ、少し忙しいです。
殿下も書類をまとめ、先生へ短く言葉をかけた。
それから、私へ向き直る。
「帰るところだったんだね」
「はい。図書館で本を借りていて」
「では、玄関まで一緒に行こう。私も、そちらへ向かうから」
「ありがとうございます」
二人で廊下を歩き始める。
今度は、腕に手を添えていない。
手首の間にも、何もなかった。
そのことを確かめるように左手を動かすと、隣から声がした。
「本当に、痛みはない?」
「はい。大丈夫です」
「それなら、よかった」
殿下は頷いた。
それから、いつもの調子で口元を緩める。
「ノアも、聞いたら驚くだろうね」
「……そうですね」
手首を繋がれたと聞いたら、何があったのか心配すると思う。
「でも、怪我もしていませんし。殿下が歩く速さを合わせてくださったので、大丈夫でした」
「君も、工夫してくれたからね」
その言葉に、腕へ掴まったときのことが浮かんだ。
歩きやすくするため。
本当に、最初はそれだけだった。
なのに、今は。
殿下の右腕を見ないようにしている自分がいた。
* * *
玄関が近づくと、外で待つ馬車が見えた。
私は足を止め、殿下へ礼をする。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。手伝ってもらったのに、足止めしてしまったね」
「いえ。少し、びっくりしましたけど」
顔を上げると、殿下が続きを待つように私を見た。
「殿下と一緒だったので、慌てずに済みました」
言ってから、少し考える。
……いや。
慌てては、いましたね。
「最初だけ、ですけど」
正直に付け足すと、殿下が笑った。
私もつられて笑い、ようやく肩の力が抜ける。
「では、気をつけて」
「はい。失礼いたします」
外へ出る前に、もう一度だけ振り返った。
殿下はその場に立っていた。
右の袖口へ、左手の指を添えている。
目が合うと、その手が止まった。
私は会釈をして、馬車へ向かった。
――もう少し、そのままでもよかったんだが。
歩調が合ってきたから。
殿下は、そうおっしゃった。
……それなら、どうして。
思い出すと、また顔が熱くなるんだろう。
私は何もついていない左手首へ目を落とした。
輪は、ちゃんと外れたのに。
まだ、あの短い言葉に、引き止められている気がした。




