弟のままでは、届かない
――リオン視点――
姉様は、まだ気づいていない。
髪へ手を伸ばしかけるたび、僕がその指先を見ていることも。
リボンがほどけていないと伝えながら、本当はもう一度、その髪へ触れたくなっていることも。
隣を歩く姉様が、店の窓へ目を向けた。
硝子に映る自分の後ろ姿を、少しだけ確かめている。
「気になりますか?」
尋ねると、姉様は慌ててこちらを見た。
「……結び目、綺麗だなって思って」
「ありがとうございます」
「何だか、自分で結ぶより綺麗かも」
嬉しそうに笑う。
その顔を見られただけで、贈ってよかったと思った。
けれど、それだけで満足できるなら。
店で、あんなことはしなかった。
* * *
店主に恋人だと言われたとき、すぐに訂正することはできた。
姉様と呼べば、それで済んだ。
いつものように、何も考えずに呼ぶだけで。
でも、呼ばなかった。
鏡越しに目が合った姉様は、驚いていた。
困ってもいた。
それでも、嫌そうな顔ではなかった。
だから、少しだけ欲が出た。
昔、呼んでもいいと言ってくれた名前。
僕は、その許可をずっと覚えていた。
「似合ってるよ、ティア」
髪へ唇を寄せて伝えると、姉様の頬が少しずつ赤くなった。
あんな顔をさせたのは、僕だった。
ノア兄様でも、殿下でもなく。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
けれど。
――自慢の弟なんです。
あの言葉に、嘘はなかった。
本当に誇らしそうに、紹介してくれた。
嬉しくないわけがない。
昔の僕なら、何度でも思い返して喜んだだろう。
今だって、大切な言葉だ。
ただ。
弟だと知っていても、僕にどきどきしてくれたら。
そんなことまで、考えるようになってしまった。
* * *
「リオン?」
呼ばれ、顔を向ける。
姉様が、少し先の看板を指さしていた。
「あのお店?」
「はい。窓際から、通りを見下ろせるそうです」
「へえ! 楽しそう」
案内したのは、菓子を出す小さな店だった。
店内の階段を上がり、二階の窓際へ座る。
護衛は、階段に近い席で待ってくれている。
向かいの姉様が、窓の外を覗いた。
「さっき歩いたところが見える!」
「ええ」
「あっ、硝子の猫のお店も」
こちらを振り返って、笑う。
何かを見つけると、必ず教えてくれる。
僕が同じものを見るまで待って、それから嬉しそうに話し始める。
子どもの頃から、ずっとそうだ。
姉様の見ている世界に、僕の場所がある。
そのことに、何度も救われてきた。
「リオンは、何を頼む?」
差し出された品書きを受け取る。
姉様の指が、一つの菓子の名前のそばにあった。
「そちらが気になりますか?」
「うん。でも、こっちも美味しそうで」
二つを見比べる顔は、真剣だった。
僕は店員を呼び、それぞれ一つずつ頼んだ。
「あとで、少し分けていただけますか」
「もちろん! リオンのも、ひと口もらっていい?」
「はい」
姉様が、ほっとしたように品書きを閉じる。
「よかった。どちらも食べられるね」
そんなことで、こんなに喜ぶ。
もっと喜ばせたいと思ってしまうのも、仕方がないだろう。
菓子が運ばれてくると、姉様は目を輝かせた。
果物の載った小さな焼き菓子と、柔らかなクリームを挟んだもの。
皿を見比べてから、僕を見る。
「交換するの、忘れないでね」
「姉様こそ」
笑って答え、先にひと口分を切り分けた。
姉様の皿へ移すと、代わりに果物の載ったひとかけらがやってくる。
「はい。こっちも美味しいよ」
受け取って、口へ運ぶ。
甘かった。
けれど、向かいの姉様を見ていたら、味を確かめるのが少し遅れた。
僕の選んだリボンをつけて。
僕と一緒に選んだ菓子を食べている。
今日は、姉様の向かいに座っているのも、僕だ。
「……リオン?」
「はい」
「何か、ついてる?」
姉様が口元へ手を添える。
僕は首を振った。
「いいえ。楽しそうだなと思って」
「楽しいよ」
返事は、すぐだった。
「リオンと二人で、こんなふうにゆっくりするの、久しぶりだもの」
胸の奥が温かくなる。
でも、ここで頷くだけでは。
きっと、いつもと同じだ。
「僕も、楽しみにしていました」
姉様を見たまま、続けた。
「今日は、二人で過ごしたかったので」
姉様のフォークが止まった。
少しだけ、目が丸くなる。
「……うん。そのための約束だったものね」
頷きながら、カップへ手を伸ばす。
視線が、一度だけ僕から外れた。
僕は、その仕草を見ていた。
さっきまでなら、何も考えずに笑ってくれたはずだ。
今までとは、少し違う。
姉様にも、僕を意識してもらえただろうか。
食べ終えた皿が下げられ、姉様が窓の外へ目を向けた。
僕はカップを置き、尋ねる。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「なあに?」
姉様が、こちらを見る。
「店で、恋人だと間違われたことですけど」
肩が、わずかに動いた。
「……うん」
「嫌でしたか?」
姉様はすぐには答えなかった。
膝の上へ目を落とす。
それから、少し困ったように眉を下げた。
「嫌というか、びっくりしたの。そんなふうに見えると思っていなかったから」
わかっていた答えだった。
姉様にとって、僕は弟だ。
だから、間違いだと伝えてくれた。
「……そうですか」
頷くと、姉様が顔を上げた。
「リオンは?」
僕は彼女を見た。
「僕ですか?」
「うん。間違われて、困らなかった?」
困ったのは、そのあとだ。
姉様が赤くなって。
自分が、それを喜んでしまって。
もう一度見たいと思ったから。
けれど、そのまま伝える代わりに、僕は微笑んだ。
「少し、嬉しかったです」
姉様が瞬きをする。
「嬉しかったの?」
「はい」
ここで、また冗談にしてしまえば簡単だった。
姉様と仲がよく見えたから。
大人に見てもらえたから。
どちらも、間違いではない。
でも、今日は。
「隣に並んで、お似合いだと思ってもらえたので」
姉様の唇が、少し開いた。
僕は返事を待った。
通りから聞こえる声。
食器の触れ合う音。
その中で、姉様だけが黙っている。
やがて彼女は、髪のリボンへ手を伸ばしかけた。
触れる前に止め、その手を膝へ戻す。
「……今日のリオン、ちょっとずるいね」
声が小さかった。
胸が、跳ねる。
「そうですか?」
「そうだよ」
姉様は僕を見た。
頬は、まだ少し赤い。
「そんなことを、真面目な顔で言うんだもの」
僕は笑いそうになって、こらえた。
今、笑ってしまったら。
また、からかわれたのだと思われる。
だから、姉様を見たまま頷いた。
「本当に、嬉しかったので」
今度こそ、姉様が目を逸らした。
その横顔を見て、思う。
今日は、これくらいにしておこう。
そう決めるのに、少しだけ時間がかかった。
* * *
帰りの馬車で、姉様は買ったリボンの話をしていた。
どの服に合わせようか。
ミアにも、結び方を見てもらいたい。
楽しそうに話すたび、僕も嬉しくなった。
「また、一緒に選んでね」
姉様が言う。
僕は頷いた。
「はい。何度でも」
次も。
その次も。
次は、姉様に贈るものだと知って、一緒に選んでほしい。
馬車が揺れ、姉様が窓の方へ顔を向ける。
髪で、淡い紫色が動いた。
姉様。
心の中で、いつものように呼ぶ。
その呼び方で振り向いてくれることが、ずっと嬉しかった。
今も、大切だ。
けれど、今日知ってしまった。
ティアと呼んだとき。
姉様は、僕を少し違う目で見てくれた。
あの顔を、もう一度見たい。
「姉様」と呼べば、きっといつもの笑顔が返ってくる。
でも、次に「ティア」と呼んだときは。
今日みたいに、少しだけ照れてほしい。
弟だとわかっていても。




