マリー「壁に耳あり障子にメアリー」
マリーが警備を搔い潜りサン=モストロ城のザナドゥの元へユッタを送り届け、そこに現れたアドルフに銃撃され命からがら逃げだし、サン=モストロ城の牢に身を潜め最低限の体力を回復し、協力を申し出るラゴンバ達に背を向けて立ち去った、翌日の話。
サン=モストロの市街地の上流地区の宿で、アラミス商会の商会長フィリップこと、カーターは暇を持て余していた。マリーには外出してもいいと言われているが、この町には知り合いも居るのだ、変装はしているものの、ばれたら面倒な事になると思うとおちおち散歩も出来ない。
その妻クロエことアイリは、少し遅い時間になってようやくリビングに出て来た。一昨日の夜に徹夜でドレスを作ったせいで昨日昼間に寝ていた為、睡眠時間がずれてしまったのだ。
「朝食はダイニングのワゴンに取り分けておいたぞ」
「ごめんなさい貴方。お茶でも煎れましょうか?」
この夫婦の真似事は、カーターもまんざらではなかった。
アイリは文句なしの美人だし性格も明るく優しい、そしてこの芝居にきちんと乗って来ていた。仲睦まじい夫婦に見えるよう、人前に出る時はカーターの腕に手を回してくれたりもする。
「ん、ああそうだな、御願い出来るか」
アイリは頷き、この贅沢な宿の備品でお茶を煎れる。茶葉は本物のモーラの茶葉だ、焙煎した大麦やミントのような、安価な代替品ではない。
寝起きのアイリの姿には綻びもある。髪は少し乱れているし、服も多少着崩れている。カーターにはそれがご褒美のように思えた。化粧なしでも十分美しい彼女の、こんな姿を見られる男が何人居るのか。
しかしカーターはそこで密かに首を振る。自分の心はニーナ・ラグランジュのものである。それにこれは仮初めの夫婦の真似事なのだ、のめり込んではいけない。
「どうぞ」
そうこうするうちに、アイリがお茶を持ってやって来た。
アンドリニア製の長椅子に座るカーターの前の、コルジア製のテーブルに、セリカの白磁で作られたソーサーとカップが置かれる。そしてモーラの茶葉を十分に開かせて抽出された茶が、セリカの白磁のポットから注がれる。
全てが、上質だ。カップを手にしたカーターはその香りを存分に堪能し、一口、口に含む。
「……ふふふ。中太洋で任務に当たっていた頃は、別段美味いとは思わなかったのだが。実に良い」
一方アイリにも時間があった。今回マリーの冒険のお供に選ばれたのは光栄だったが、仕事と言えばここで待機する事だけだった。
マリーと二人で小さな女の子の為のドレスを作るのは、中々楽しかったが……今もマリーと行動を共にしているであろう、カイヴァーンが羨ましい。
気を取り直したアイリは純粋な好奇心から、カーターに話を向ける。
「その頃のお話、聞いてみたいですわ。バース湾の英雄と呼ばれていたのでしょう?」
「それは……勘弁してくれ、昔の話だし、今の私はローバー海峡でワインの密輸に手を染めていたただの悪党、そして歌姫、ニーナ・ラグランジュを崇拝する一信者だ」
横顔を向けてそう呻くカーター。アイリは苦笑いを浮かべる。
「だけどマリーちゃんは貴方の何かを尊敬してますの。貴方をとても大事に思っていて、レイヴン海軍から守った……私にはそう見えましたわ」
今度はカーターが苦笑いを浮かべ、首を振る。
「母親のファンだと聞いて、情けを掛けてくれたんだろう。それ以上でも以下でもないさ……貴方はニーナ嬢を御覧になった事がありますか?」
アイリは視線を宙に彷徨わせ、クスリと笑ってから、口元を抑える。
「一度だけ、ウインダムで」
カーターは目を見開き、アイリに真っ直ぐに向き直る。
「ウインダム! では割と最近ですな、彼女はどんな舞台に出ていましたか?」
「いえ、私が見たのは港の市場の近くでした、マリーちゃんと話してましたわ……大昔のグースかフェザントのお姫様のような服を着ていましたわ、もしかすると、あれは舞台衣装だったのかしら」
「その話、もう少し深く伺う訳には行かないでしょうか」
カーターは空になったカップをソーサーの上に戻し、身を乗り出す。アイリはポットを取る……その時。
―― パタン……
先ほどまでアイリが居た、アイリとマリーが使っている寝室の窓辺から、小さな物音がした。アイリはそのまま、カーターのカップにもう一度茶を注ぐ。
「私が知ってる事は、ほとんどないけれど……ニーナさんが、マリーちゃんのお父様とは離婚されてるのは御存知かしら」
お茶のおかわりを注ぎ終えたアイリは、少し気まずそうにそう切り出す。
カーターはカップを手に取り、その香り立つ琥珀色の水面を見つめる。彼は、フォルコン号の船牢での出来事を思い出していた。
―― フハハハ、どうした、飲み過ぎかコンドル
―― 俺の名は本当はフォルコン、そして……十年前、愛想を尽かした彼女が一人で出て行ってしまうまでは、ニーナの夫だった男なんだ
―― はあああー!? 適当な事を言うなこの酔っ払い!」
―― 本当なんだ、アイビスのレッドポーチという港で生まれ育った彼女は運命に導かれ、売り出し中の若手天才航海士で格闘のチャンピオンだった俺と出会い、実家の猛反対を振り切って駆け落ちした、その一年後に天から授かったのが、マリーという娘なんだ
―― 嘘だ……嘘だーッ!!」
「大丈夫。それを知った時は少々、驚いたがね」
カーターはため息をつき、もう一口紅茶を飲む。その、男の哀愁のようなものを帯びた仕草を見たアイリは、自分がニーナについて知っている事は全部、話してあげようと考えたのだが。
―― パタパタ……
寝室の窓辺でカーテンがはためく音が、妙に気になる。確かに自分は先ほど遅く起きた後、外の空気が吸いたくなり、寝室の窓を開け、サン=モストロ市街と港を見下ろす景色を見つめ深呼吸をした……窓はその後で、きちんと閉めたつもりだったのだが。
「ごめんなさい、寝室の窓が開けっ放しだったみたい」
アイリはそう言ってカーターの向かいの安楽椅子から立ち上がり、自分の寝室に向かう。カーターはただ、カップを持ったままそれを見つめていた。
寝室に戻ったアイリが見たのは、開け放たれた板窓と、風にはためくカーテンだった。きちんと閉めてなかったのだろうか? アイリは窓を閉めようとしたが、思い直し、カーテンがはためかないよう、紐を掛けるだけにする。今日の風はこの辺りにしては程よく乾いていて心地が良いようだ、このまま部屋に吹きこませるのも悪くない。
居間に戻ってカーターとの話を続けようとしたアイリはふと、マリーが使っているベッドの横に、小さく畳まれた麻袋が置かれてるのを見つける。
あんな袋、さっきはあっただろうか? もちろん、部屋にはマリーの姿はない。
アイリはベッドに近づき、目立たないように置かれていた袋を取り、その中身を取り出す。
最初に出て来たのはズボンだ、濃褐色の丈夫な生地で作られた長ズボンで、マリーが好んで着ている、銃士見習いの少年のような服のものだ。
生地の手触りに違和感を感じたアイリは、それを鼻に近づけて嗅ぐ。潮の臭いがする……マリーはこれを着て海に落ちたのではないか。
アイリは肩を落とし、ため息をつく。
マリーは何をしているのだろう。何か危険な事でなければいいのだが。彼女は何故海水に落ちたのか? また水路に落ちた子供を助けたりしたのだろうか。
そして海水に落ちた服を、こんなふうに麻袋に入れて放り出しておいてはいけない。これは真水で洗って砂や塩を流し、風通しの良い所に干すべきだ。
ズボンを軽く畳んで傍らに置いたアイリは次に、革のジャーキンを取り出す。こちらも海水に浸かったようだが、素材の性質上、まだ乾ききってもいない。
このジャーキンはアイリがマリーの為に作ったものだ。これを着たマリーはますます男の子のようになってしまうが、多少の防護効果はあるだろう。
そのジャーキンの左胸の辺りに、鈎裂きのような破れ目が出来ている。どこかでテークルにでも挟んだのだろうか。言ってくれれば、すぐに直すのに。
表層思考ではそう考えながらも、アイリは慌ただしく、そして祈るような気持ちで、袋から続けてシャツを取り出す。こちらもずぶ濡れになったらしく、あちこちに塩と砂粒がこびり付いている。
そしてそのシャツの左肩には、つまりジャーキンの鈎裂きと同じ所には、銃弾でも通過したかのような穴が開いていた。その周りには、海水で洗われ斑になった血痕が残っていた。
アイリはシャツを手放し両手で強く自分の口を抑え、自らの絶叫を食い止める。
部屋に風が吹き込み、窓に提げられた短い飾りカーテンがパタパタと揺れる。





