ニーナ「ソフィの風邪が治りますように……いい仕事が見つかりますように……出来れば富くじが当たりますように……世界人類が平和でありますように……ついでにマリーもそこそこ幸せでありますように……」
+【コラム:航海者の死因その③弾丸】
弾丸は、短期的には脳や心臓を破壊する事で航海者の命を奪う。これを避ける方法はないので、人は只々、銃で額を撃ち抜かれぬように生きる他はない。
中期的には失血によって命を奪う。血の流出は力ずくでも止めねばならぬ。そして止血をしてくれる医師や友人が居ない時に、使える方法が一つある。傷口に火薬を盛り火花を散らせ。一瞬の烈火は血肉を凝固させ生命という名の流体を封じ込めるだろう。これは信仰ではなく熱力学的な必然だ。激痛に意識を失うな。天の理が調和を保つよう、汝の肉体もまた、火を以てその秩序を取り戻すべきである。
さてしかし、弾丸が航海者の命を奪うのは長期的には後の腐敗によるものだ。天体の円舞に終わりがある如く、時間を掛けて緩やかに、弾丸は航海者を死に至らしめるのである。実の所、有史以来最も多くの航海者の命を奪って来たのは即死でも失血死でもなく、この時間を掛けた死なのだ。
但しこれは正しく対処する事で防ぐ事が出来る。先ず体内に残った弾丸は必ず排出する事。例え己が身体を切り刻んでもだ。それからしっかりと止血をし、傷口を清廉に保つ事。最後に、傷が癒えるまでは絶対に安静にし、万事控えめに行動する事。これは統計によって明らかにされた科学的事実である。
科学を疑うことなかれ。傷も癒えぬうちから走り暴れ周るなどというのは、己が首を絞めるに等しい愚行の極みであると心得よ。
謎の老人ナーディルことカイヴァーンは密林の中で、時々ごく小さな金属製の笛を短く鳴らしながら、城の様子を注視していた。
笛の音は地元の鳥達の囀りに紛れていて人の耳には聞こえないが、勘の鋭い猫ならば聞き分けられる。
そしてもう一度笛を吹こうとしていた所に、彼が待つぶち猫は戻って来た。
ぶち猫が海水に浸かってしまったのだという事は、カイヴァーンにもすぐに解った。そのまま走り回ったせいで半ば乾きかけたその毛並みは、いつになくボロボロだ。
「ああ、待て」
毛繕いをしようとする猫を止め、カイヴァーンはまず手持ちの水筒の水をまんべんなく掛けて、それから自分のガラベーヤで拭ってやる。
「姉ちゃんは一緒じゃないのか」
ぶち猫はされるがままになりながら、カイヴァーンの顔を見上げる。カイヴァーンも猫の言葉が解る訳ではない。
城の警鐘が鳴っている。駐屯している全ての兵士が動員され、辺りには物々しい気配が広がって行く。
しかし、カイヴァーンの目にはぶち猫は落ち着いているように見えた。今すぐ助けに来て欲しいとか、そういう顔はしていない。
「出番がないまま退却かよ」
カイヴァーンは小さく呟く。しかしちょうどその時、近くにある密林を切り開いた細道を、二頭の騎馬が慌ただしく駆け抜けて行く。
―― ドドッ、ドドッ、ドドッ……
それはミラレス麾下の騎馬だった。カイヴァーンはその名前は知らなかったが、侮ってはいけない精鋭である事は見抜いていた。彼らが非常に熱心に、魔女を探してるという事も。今、道に戻るのは危険だ。
「向こうに岩清水がある」
カイヴァーンが身を屈めて囁くと、ぶち猫はその肩にヒョイと飛び乗る。猫を乗せたカイヴァーンは背後にそびえる小山の麓の方へ、静かに密林を掻き分けて進んで行く。
◇◇◇
サルバズが直接率いるデル・エ・ヴァファ号の水夫達は、城の兵士の一団と共に、ターミガン風の老人が落ちて行った海岸線を陸海から捜索していた。
「船長! そこにこれが」
やがて数人の水夫が、磯の方からずぶ濡れになったガラベーヤを持ってやって来る。その生地には銃弾によってつけられた穴が開いていた。
「中身はどこへ消えたんだ……間違いない、奴は生きている! 磯伝いに南へ向かった可能性もある、隊を分け捜索範囲を広げろ!」
城の門は北側に、地下一階の水路の出口は東側にある。そしてここは城の南東側、サルバズが城主部屋からここに来るまで数分の時間があったし、水夫や兵士達が着いたのはもっと後だ。そして今はそれから30分は経っている。
サルバズは先日の入り江での出来事を思い出す。魔女は老人にも少年にも化けるし、小さな隙間からでも入り込む。正に神出鬼没だ。
とは言え向こうも本物の悪魔という訳でもあるまい。アドルフの撃った弾は間違いなく魔女に当たったはずだ。自分も血痕を確認したし、このガラベーヤも証拠になる。敵は、負傷している。
「今度こそ、見つけだして始末するんだ!」
サルバズは魔女が城から離れるように逃げて行った可能性と、磯の岩陰に隠れて休んでいる可能性を考慮しながら、陸海の捜索の指揮を執る。
◇◇◇
少し前。サン=モストロ城内の吹き抜けでは、たくさんの兵士達の怒号が飛び交っていた。
「城主部屋に賊が出た! 賊は撃退され城外に落ちた、捜して見つけ出せ!」
「階段警備以外の者は外の捜索に加われ、非番の奴も起こせ!」
「階段警備は何をやっていたんだ!?」
「わっ、我々はきちんと見ていた、他の場所から入られたんだろう!」
一方城の二階のいくつもに分けられた収監部屋の一つでは、部屋のリーダー格の男クワクが、出入口の格子戸の辺りで、それらに聞き耳を立てていた。
彼は普段は解らないふりをしているが、本当は北大陸の言葉を多少理解出来る。
別の男がクワクの背中を突いて囁く。
「外で何か起きてるんだ?」
「城内の兵士達も外の捜索に動員されている。大変な騒ぎになっているようだ」
しかし皮肉な事に、サン=モストロ近くで生まれたクワクと、もっと南から連れて来られたその男では言葉が通じない。他の者もそうだ……支配者達は、一つのグループに単一の民族の者が集まらないよう分別しているのだ。
それでも彼らは、作業で培った絆と、助け合いを尊ぶラゴンバの精神で意思疎通を図って来た。
その時だ。
「あれは何だ……?」
「あ……うわあ!?」
部屋の奥の方に居た男達が、明り取りの小窓を指差して騒ぐ。
それは床から2mを超える高さにある、格子も何もない30cm角の切り欠き窓だった。外は切り立った壁面であるその窓から、栗毛色の髪の少年か少女に似た姿をした怪異が、にじり入って来るのだ。
ずぶ濡れの服を着た、ずぶ濡れの髪の怪異は、先に通った両腕を突っ張り、小さめの頭と厚みの少ない胸板をすんなりと30cm角の小窓に通し、通り抜けた半身をだらりと垂れ下がらせる。
「ひいぃっ、動く死体だ!」
南から来たラゴンバの一人が叫ぶ。上半身だけの怪異は窓から垂れ下がったまま、少しの間呼吸を荒らげていたが、やがてさらに這い入って来る。それにはちゃんと下半身もあった。白いシャツに革のジャーキン、そして濃灰色のズボンを着ている。
―― ズルズル……ボトッ!
引き摺るように窓を通り抜けた怪異は、そのまま壁を伝いながら逆さまに床に落ち、ボロ雑巾のようにうずくまる。
誰もが足をすくませている中、部屋のリーダー、クワクは恐る恐る壁際にうずくまっている怪異、いや少年か少女に近づく。
「おい……大丈夫か」
「助けてくれぇい」
クワクの問い掛けに、怪異はかすれた声で応えた。
◇◇◇
この窓は城の南西角近くにあり西側を向いている。この辺りの窓は昔は兵士の居住区画、今は奴隷の収監部屋となっている一帯で、仮に賊が窓から入った所でそこは檻の中だという事で、警備が手薄にされていた。
マリーは今の身体で追手を振り切り遠くに逃げるのは無理だと考え、ここに賭けた。
そして残された力を振り絞り、監視の隙を突いて岩場を這いずりサン=モストロ城の外壁に取りつき、左腕にほとんど力が入らない状態で死に物狂いで壁を登って、その窓を素早く通り抜けたのだ。
◇◇◇
マリーの言葉はアイビス語ではなく、ラゴンバの間の共用語だった。それを言われてしまったラゴンバの男達は、顔を見合わせ、やがて揃ってクワクの顔を見る。
「兵士共が探してるのは、この子だろうか……奥の部屋に運ぼう」
クワクがそう応えると、他の男達はまた顔を見合わせて頷きあう。
彼等はまず入口の格子戸から見えない奥の部屋に、洗濯済みの衣類を積み上げる。そして四人で少女を運ぶ。
「ずいぶん軽いな。赤ん坊みたいだ」
「この子、銃で撃たれてるぞ」
「可哀想に、なんて事だ」
「まだ子供のようなのに」
男達は気の毒そうに少女を見つめ、銃創のあるその左腕に触れたり引っ張ったりしないよう気をつけながら、そっと衣類の山の上に乗せる。
「何か食わせてくれぇい」
少女は額に脂汗を浮かべたまま、がらがら声でそう呟く。
クワクは毎日の食事に提供される物の中から、保存の効く物を密かに貯め込んでいた。乾パンや干し肉、干し魚、ナッツ類など、何かの時に使えるように。
「あるにはあるが……食べられるだろうか」
クワクは衰弱したボロ雑巾のような少女を横目で見ながら、物陰に隠してある食料を取りに行こうとする。騒ぎに気付いた、同じ区画に収監されている他のラゴンバの男達も集まって来る。
その中の一人、タルカシュコーンの近郊、ブルバル川流域出身の男が、マリーを見るなり声を落として叫ぶ。
「この子は……キャプテン・マリーじゃないのか!? ゲスピノッサを倒し、たくさんのラゴンバの女子供を救い出した英雄、キャプテン・マリーだ!」
キャプテン・マリー。その噂はクワクも聞いた事があった。クワクはその幽霊船とガイコツの水夫を操って戦うという少女の姿をしたヒーローの噂を、ただの迷信か船乗り達の与太話だと思っていた。
しかし。振り向いてもう一度少女を見たクワクは、驚きに目を見開く。よく見れば少女の肩に巻かれているあの布は、ほんの少し前に魔法のように現れ幻のように消えたあの小柄な老人が、頭に巻いていたクーフィーヤの布ではないか。





