マリー「ワンダボ!」ゲスピノッサ「ワンダボー!」
マリーのように素早く木に登り、木から木へと飛んで移動出来る奴はともかく、普通の人間はガイドもなしにジャングルに踏み込んではいけません、方向感覚なんか一瞬でなくなりますし、元の場所に戻る事も覚束なくなります。
しかしジュリアンには逃亡生活と溝掃除で身に着けた、並外れた根性と空間認識能力がありました。彼は既に地図もないラグーンやジャングルでも道に迷わず、目的地に辿り着くという冒険を何度も成し遂げています。
マンサは息を切らせて戻って来た。探検隊が来ているという知らせは受けていたが、若い女が三人も含まれているとは聞いていない。
そうでなくてもあの「部族に伝わる精霊の踊り」は人に見せるのが恥ずかしいのに。集落の外れの小屋で、ズボンとチュニックを着直しながらため息をつく。
探検隊はこれで諦めてくれるだろうか。北大陸人の女連れでは、この密林を突破できないとは思うが。マンサはそう考えながら、濡らした手拭いで、顔に赤土の練り物で描いた戦化粧を拭い落とす。
「おーい、みんなちゃんと戻ってるかー?」
身支度を終えたマンサは、そう叫びながら小屋を出て行く。集落を取り囲む密林からは、三々五々、探検隊への威嚇の為に同行してくれた仲間達が戻って来ている所だった。
そしてマンサが出て行ってから数十秒後。若い身空で海賊船長となってしまった少年ジュリアンは、辺りを警戒しながら、チョロチョロと小屋の中に飛び込んで来た。
小屋は柱に藁を掛けただけの素朴な物だったが、中にあったのはきちんとした銃架と、整頓された棚だった。
ジュリアンは銃架に並んでいるマッチロック式の銃を一つ手に取り、つぶさに調べる。最低限の手入れはしてあるようだが、型は古いしガタが来ている。ジュリアンは若いが、銃の手入れは先輩海賊の下で何週間もやったのだ。
銃を元の場所に戻したジュリアンは、小屋の入口から集落を覗き込む。
サトウキビの事は話には聞いた事がある。収穫して絞って煮詰めると、甘い砂糖が精製出来る、アンドリニア商人の特産品だ。実際、周囲からは甘く焦げたような、何とも言えない薫りが漂って来る。
ジャングルを切り開いた集落にあったのはそのサトウキビ畑と、キャッサバやタロイモの植え込み、そして石積みの作業場に、高床式の倉庫だった。
北大陸に居た頃のジュリアンは、ラゴンバについては噂で聞いた事しか知らなかった。彼等は原始的な生活をする未開の人類なのだと。
しかしタルカシュコーンで自分を助けてくれたのは、厳格だが情に厚い女性司法官のディアバや、ラゴンバの医師だった。
これは商品作物であるサトウキビと、自分達が生きる為の自給作物をバランス良く栽培し、製糖能力のある工場までも備えたラゴンバの隠れ里だ。ジュリアンは、そう思った。
そして集落を見下ろしているのはあの、高さ300mを越える岩の尖塔だ。これは一体どういう事なのか。
この隠れ里。これ自体が、ゲスピノッサが奥歯の暗号に書き残した宝物なのではないのか?
そんな事があるのだろうか。ゲスピノッサは自分でも言っていた、自分は奴隷商人なのだと。
―― 俺は奴隷商人として多くの人間を売り飛ばした、男も女も、子供だって容赦なく売った、今の俺の有り様が気の毒に見えるか? とんでもねえ、俺は百回殺されても文句が言えねえ程罪を重ねた人間だ……
かつてゲスピノッサは自分にそう言っていた。それはつまり、彼には罪を重ねているという自覚があったという事でもある。
「だ……誰だ!?」
次の瞬間、小屋の前に歩いて来たラゴンバの男が、ジュリアンを見つけて驚いて叫ぶ。ジュリアンは落ち着いて、男の方に歩いて行く。
「こちらは異常ありません」
ジュリアンは男の前で立ち止まり、真顔で軍人のような敬礼をする。ラゴンバの男は目を見開いたまま、おずおずとその仕草を真似る。ジュリアンはそのまま、男とすれ違う。
「知らない男の子が居るぞ!?」
背後で男が叫ぶのを合図に、ジュリアンは集落の外の密林へと駆け出す。
集落の方からは、マンサと共に偵察に出掛けていた男達が慌てて戻って来る。彼等もまた、密林へと逃げ込んで行く子供の後ろ姿を見た。
「何だ? 迷子か!?」「戻ったばかりだってのに!」
男達は子供を追い、再び密林へと飛び込んで行く。
◇◇◇
集落は再び静かになり、辺りはまた、虫と両生類、そして鳥達の奏でる賑やかな音楽に包まれる。
―― バサバサバササ! ホ、ホ、ホ、ホ、ホ、ホ、ずぃーっ。ずぃーっ。グェーッコッ、グェーッコッ、グェーッコッ。どどど。どどどどど。バサバサバサバサ! キェーッ! キェッキェーッ! ピヨピヨ、ピヨ。ぶわーん、ぶわーん。
捕食者が居ないこの島のジャングルは、彼等にとって楽園だった。二百年前に来てしまった人間共も、今のところ彼等にはあまり興味を示していない。
それでも、人間共の船に乗ってやって来てしまった北大陸産のネズミなどは、その旺盛な繁殖力と、激しい生存競争の中で磨かれた狡猾さで、瞬く間に島中に蔓延ってしまった。
その事がこの長く平和だった楽園に、どんな影響を与えるのか。島の生活に慣れきり、警戒心を失った鳥やトカゲ達は知らなかった。
蔓延るネズミ共に手を焼いた人間共は、恐ろしい力に手を出そうとしていた。地上で最も小型で高性能、群れに頼らず単独で狩猟が出来、繁殖力も旺盛な怪物、そう、ネコの導入である。
◇◇◇
数分後。密林からひょっこり顔を出したのはジュリアン一人だった。追手の男達は誰も戻っていない。今頃はまだ、秘密の集落に迷い込んだ子供を探しジャングルを走り回っているのだろう。
辺りを見渡し安全を確認したジュリアンは、石積みの作業場の方に向かう。
緩やかな斜面に掘り下げた竪穴に、石と漆喰で屋根をつけた低い建物だ、堅牢で風雨に強く、排水の事もきちんと計算されているようだ。溝掃除の専門家のジュリアンはそう見立てる。
作業場の向こうには貯水池があり、水位を調整する段差と、石積みの水路が整備されている。この高度な建造物は動力を得る為の物だった。水車は今は停止していたが、水門を操作すれば動き出し、作業場の中へ動力を提供するのだろう。
ジュリアンは慎重に、作業場の中を覗き込む。今は誰も居ないようだ。
低く広い作業場には様々な設備が詰め込まれていた。水力で回るローラーはサトウキビを絞る為の物で、それを煮詰める大釜と竈門も何基もある。
そこで何度も煮詰められたサトウキビの汁は素焼きの粘土型に入れられ、さらに水分を飛ばされて結晶化し、パンのような形になる。
この「シュガーローフ」と呼ばれる物が、輸出品としての砂糖になる。
北大陸の町、例えばアイビス南部の港町で、砂糖がどんなに高価な物だったか、ジュリアンはよく知っていた。年に一度のお祭りの日に教会で振舞われた、砂糖のかかった焼き菓子の味は今でも忘れられない。しかし、砂糖は貧しいジュリアンの家では決して手の届かない贅沢品だった。
この作業場では一体どれだけの砂糖が製造されるのだろう。相当な量になるのではないか。
しかし、作業場にあるのは製糖施設だけではなかった。
作業場の奥には大きな銅製の釜があった。釜の周りには外の水路から水を取り入れる管が走っている。これは蒸留器と呼ばれる物なのだが、ジュリアンはそれを知らなかった。
◇◇◇
砂糖を精製する時に、余る物が二つある。サトウキビを煮詰める時に浮いて来る不純物と、砂糖の結晶を取り出した後に残る廃糖蜜だ。これに加水して甕に入れて一定期間放置するだけで、酒が出来る。しかしそのままでは酸味も苦味も強く、飲めたものではない。
これを蒸留器に掛け、熱してアルコールを蒸気として飛ばし、その蒸気を水路の水で冷やして液体に戻す事で、酸味や苦味の飛んだ、そして暴力的にアルコール度数が高く喉を焼くような強烈なパンチを持つ、蒸留酒が出来る。この火を吹くように荒々しい無色透明の酒、「ラム酒」を、船乗り達は「悪魔殺し」と呼ぶ事もある。
マンサ達の造るラム酒には、その不快とも言える強烈なパンチを少しでも和らげようという意図で、南大陸本土由来の木の実と、島にしかない香草が漬け込まれていた。
そうして完成したスパイス入りラム酒だが、実の所売る相手がない。砂糖はどんどん精製され出荷されて行くが、ラム酒は残る。そしてマンサ達ラゴンバはあまりこんな物を、人を怠け者にする液体を飲みたくない。
しかしせっかく作った物を捨てるのは惜しい。そこで彼等は作業所からさらに深く掘った地下貯蔵庫の中に、作ったラム酒を収蔵していた。
ラム酒を入れる器には、中太洋から戻って来た貿易船が島で捨てて行った、古いワインの空き樽が使われていた。
ラゴンバの秘密のスパイスを施された荒々しいラム酒は、ワインの染み込んだオーク材の樽の中に詰められ、封印をされて、温度も湿度も一定の地下室に並べられ、長い眠りにつく。
一年。二年。樽に染み込んだワインの果実味とオーク材の成分が、無色透明だった液体を美しい琥珀色へと変えて行く。
三年。四年。荒々しい刺激成分は樽に吸収され、その味わいは驚く程まろやかになって行く。
五年、六年……樽の呼吸により水分の蒸発が進み、中の液量は減る。北大陸人が「天使の分け前」と呼ぶものだ。スパイスの薫りはますます凝縮され複雑に絡み合って行く。
七年、八年……そこにあるのはもはや、バニラやキャラメルのような芳香、深くまろやかで優しい口当たり、口の中で踊るナッツやフルーツのような隠し味、そして上質の音楽のような余韻を持った、どんな王侯貴族も飲んだ事のない極上の蒸留酒である。
この「幸福な事故」の事を知る者は、今の所、誰も居ない。熟成ラム酒はただ、売れないけど処分も出来ない厄介物として、貯蔵庫に眠っている。
◇◇◇
その辺りで見つけた蝋燭を手に貯蔵庫の奥へとやって来たジュリアンは、辺りを見回す。いくら見回しても、あるのは古い樽ばかりだが……少年船長は何かの確信があるかのように、いくつもの樽の表面を照らして行く。
「……あった」
やがてそれを見つけだし、ジュリアンは息を飲む。目玉のついた三日月。人から顎の長さを揶揄され、自らもネタにしていた、誰もが恐れた悪の帝王、海賊にして奴隷商人のゲスピノッサ親分が、自分の持ち物や居場所に、気まぐれに描き加えていた落書きだ。
ジュリアンは思わず尻もちをつき、次いでため息をつく。本当に、ラゴンバが自由に暮らすこの村が、この製糖施設が親分の遺産なのか。
―― 俺はなァ、海賊になりてぇと思った事は一度もなかった
親分の最後の言葉が、ジュリアンの脳裏に蘇る。
やがて物思いから立ち直ったジュリアンは立ち上がり、腰に提げた自分の水筒に手を伸ばす。ゲスピノッサに最後の水を飲ませた時にも使ったあの瓢箪だ。
しかし、とある樽の脇にタンカードが一つ置かれているのを目にしたジュリアンは、そちらに近づいてみる。どうという事のないタンカードが一つ、何故かそこに置かれている。さらに辺りを見回したジュリアンは、樽の一つに木製の栓がつけられている事に気付く。
好奇心に駆られたジュリアンは、タンカードを近づけ、その栓を抜いてみる。たちまち樽の中から勢いよく、茶色い液体が流れ出す……少年はすぐにその栓を再び閉める。
タンカードの中には3分の1くらいまで液体が溜まっていた。その色は茶色というよりは深い琥珀色で、揺らめく蝋燭の明かりに照らされ、怪しい光を放っていた。ジュリアンはその臭いを嗅いでみる……嫌な臭いはしない。これはむしろ……今よりもっと幼い日に、母に手を引かれお祭りの日の教会に連れて行ってもらい、姉と二人で食べた……焼き上がったばかりの焼き菓子のような匂いだ。
目を閉じれば、あの日の思い出が蘇って来る。病気になる前の元気な母、いつも一緒に居た優しい姉……知らず知らずのうちに、閉じた瞼の間から涙が染み出す。その時にはもう、ジュリアンはこの液体の持つ魔法に取り込まれていたのかもしれない。
たっぷりと砂糖がかかったバター香る焼き菓子を頬張った、あの日のように。ジュリアンは一気に、タンカードの中の液体を飲み込む。
次の瞬間。食道を駆け抜ける凄まじい刺激に、ジュリアンは目を見開く。何かが自分の身体の中を駆け下りて行く、鼻腔は強烈な芳香に満たされ、口からは火が出る。
少年は知らなかった。彼が一気に飲み込んでしまったのは、強烈な度数を持つ8年熟成のダークラム、その原酒である。
―― ワンダボ! ワンダボー!
ジュリアンの頭の中で、聖歌隊の恰好をしたゲスピノッサとマリー・パスファインダーが立ち上がって叫ぶ。その周りを、ラッパを持った天使たちが取り囲む。
天使たちのラッパが鼓膜を内から外へと突き抜け、暗い地下室を満たして行く。視界は極彩色の万華鏡へと変わり、土の地面は雲のように柔らかく波打って、ジュリアンの体をふわりと浮かび上がらせる。
鼻腔を抜ける黒糖の焦げた香りは、今や巨大な黄金の翼となって彼を包み込んでいた。亡き母の腕に抱かれているような、抗いがたい熱い安らぎ。
ゲスピノッサとマリー・パスファインダーは仲良く腕を組んだまま、満面の笑みで歌い、くるくると舞い踊る。
「火を飲め小僧、喉を焼け、サトウキビの汗、悪魔の唾、八年眠った黒犬が、お前の腹で吠え出した、ワンダボ! ワンダボー! 帆を上げろ、コンパスなんて捨てちまえ、琥珀の海に飛び込めば、お日様だって南を向くぞ!」
少年は自分が船長であることを忘れ、光り輝く琥珀の海を泳ぐ一匹の魚となり、永遠に続く祭りの喧騒の中へと溶けていった。
―― バターン!
※17世紀に未成年飲酒を禁じる法はなく、薄めた醸造酒は比較的安全な飲料水として普通に用いられてました。しかし21世紀現在、未成年が飲酒する事には何らメリットはなくリスクしかありません、未成年飲酒ダメ、絶対、お酒は二十歳になってから





