第9話 真の勇者
「はあ……」
マグナの口から、思わず溜息がこぼれ出る。
あれから数日、《融合》を始めとしたいくつもの古代魔法を試してみたが、まるで成果を出すことができなかった。最初は頼もしい言葉をかけてくれていた〈レイド〉も、次第に「タイミングが悪いのかもしれない」や「時間はかかるがきっとできるはずだ」といった気安めに近い言葉をかけるに至っていた。
できなくて元々の話だが、こうも成果がでないとやっぱり人間は落ちこむものだ。
だからこうして溜息も出る。娯楽のろくにないこの世界、部屋に帰ってもこの落ち込んだ心を紛らわせてくれるものもないのだ。
本は貴重品で、閲覧室からは持ち出し厳禁。夜にできることと言ったらせいぜい月を眺めるくらいだ。その月も今夜は新月かその姿は見えない。つまり娯楽はない。
「溜息すると幸せが逃げちゃうよ?」
「うわっ! ……なんだセイラか」
習慣から、自然と夜空を眺めていたマグナの視界に、わっと瀬名セイラの顔が迫って驚く。
「なんだって何よ?」
「テンプレな反応ありがとう。……ごめんって。帰ってきてたんだ?」
「うん、いま帰ってきたところ」
魔錬機の騎乗士であるセイラと、単なる雑用係であるマグナでは作業内容から食事をとる場所まで全く違う。セイラが部屋へと帰ってくるのは、きまってマグナより遅い時間だ。
「溜息なんてついちゃって、どうしたの?」
「それは……」
「月、見てたんだよね?」
「え?」
「マグナは落ち込むといつも月を見ているよね。今日は新月だからお月様は出てないみたいだけど」
「……!」
図星をつかれてハッと息をのんだ。見抜かれていた恥ずかしさと、気を使われている情けなさとが一気にせり上がってきて、今すぐ逃げ出したい。そんなマグナの口から出たのは、自嘲だった。
「ははっ、情けないよな。無能勇者の俺は、月を見て溜息をつくことしかできない。本当に弱くて情けないよ」
ジョークでもなく純然たる事実だ。あまりの情けない事実に、涙が出そうになる。けれど松平マグナが無能勇者であると言うのは、泣こうが逃げ出そうが変わらないのだ。
そんな一杯一杯な彼を、瀬名セイラは笑わず、なぐさめようとも空気を変えるための冗談をも言おうともせず、真剣に――ただ真剣にじっと見つめていた。そして、何かを決意したように口を開いた。
「弱くなんかない。私はマグナのこと強いと思うよ」
「え……?」
聞き間違いだと思った。次に気休めだと思った。揺らめく蝋燭の明かりに照らされた瀬名セイラのその顔は、決意を灯した真剣さを少しも崩してはいない。
フリーズするマグナをさておき、セイラは言葉続ける。
「マグナはさ、誰のせいにもしないし誰にも文句言わないじゃん。ギフト診断の時も、雑用係に任命された時も、川尻から馬鹿にされた時だって、相手の悪口言わなかった。不満もほとんど言わないで、何かあったら寝る時に月を見上げる。それって心が強いってことだと思うよ」
「俺は……」
「そんなんじゃないって? 私がマグナの立場だったら、もう参っていたかも」
「それは、セイラだけは話を聞いてくれたりしてくれるからで……」
「それはお互い様じゃん。マグナだって私の相談に乗ってくれる。人の悪口を言わなかったり、物に当たらないマグナだからこそ私は安心して相談できるんだよ。川尻みたいなのは最悪ね。下の下だわ。機嫌が悪いとすーぐに当たり散らすし」
セイラはべーっと可愛らしく舌を出していかにマサヤが下劣であるか表現してみせると、すぐに元の笑顔になってマグナの両手を掴んだ。
「マグナは強いよ。この私が保証する」
「あの……その……、ありがとう」
顔が赤くなっているのがわかる。照れくさくて頭をかこうとしても、マグナの両手はセイラにしっかりと握りしめられている。自分の汗か彼女の汗か。わからないけれど柔らかさと温かさの中にしっとりとした感触がある。
「ふふ、どういたしまして。そして私は、そんな強いマグナが好き」
「……!」
不意をつかれたマグナには、どうすることもできなかった。急にぎゅっとセイラの方へと引っ張られ、そのまま彼の唇は何か柔らかいものに触れた。セイラのそれだ。
一瞬、あるいはずっと。マグナよりも少し背の低いセイラは、その分ほんの少しだけ背伸びをして。唇が触れ合うだけの柔らかいキスだった。それでもバクバクとマグナの心臓は高鳴り、唇がそっと離されてから冷静さを取り戻すまでにいやに時間がかかった気がした。
「セ、セイラ、急に何を!?」
「なんかもう勢いで言っちゃえーって。その……嫌だった?」
緊張しているのはマグナだけかと思ったが、セイラものようだ。その顔がリンゴの様に真っ赤に染まって見えるのは、決して蝋燭の炎だけが要因ではないだろう。セイラはその真っ赤な顔で、おずおずとそんな事をマグナへと問いかける。
「そ、そんな事はないよ! むしろその……嬉しい。俺もセイラの事いいなって思っていたから」
マグナの元の世界での記憶は薄らぼんやりとしているが、瀬名セイラのことは元から可愛いと感じていた。いつも笑顔でボブカットの似合う彼女の優し気な微笑みが、自分だけに向けられたらなんて妄想をしたことは、一度や二度ではなかったはずだ。
こちらの世界へと召喚されてからは言わずもがなだ。マグナはセイラの事を一番――それどころか唯一心から信用しているし、無能勇者の自分だが何か彼女の助けになりたいと考えていた。
マグナの答えにセイラは満足したのか、すぐにいつもの――いや、いつも以上の万回の笑顔になった。
「ほんと!? 嬉しい、勇気だしてよかった! もう一回!」
「むおっ!?」
今度はギュッと抱きしめられ、その勢いのままベッドにばたんと押し倒され、さっきよりも長い感触がマグナの口にあった。今度もセイラから唇を離すと、彼女は顔をマグナの胸へとうずめた。
「マグナ……」
「何だ?」
身体の上にセイラの温く柔らかい感触を感じながら、マグナは返事をする。高鳴る鼓動がもはやどちらのものかわからないけれど、真面目な雰囲気を感じて努めて冷静にだ。
「勇者ってさ、大昔にこの世界を救った人に由来するんでしょ?」
「……そうらしいな」
千年程前に世界を大魔王の魔の手から救い、このガルダナ大陸に人族による統一国家を建国した存在。それが“原初の勇者”だ。マグナ達が勇者と称されるのは彼にちなむ。
「そんな立派な事をした人なんだし、私はただ力を持っていただけじゃないんだと思うんだ。心の強い人――たぶんそんな人だと思う。だったらいいな」
「そうだな」
「だよね。だからさ、私はマグナこそが案外“真の勇者”なのかもしれないって思うよ。マグナみたいに、心が強くて、力を持たない人の苦しみを知っている人が戦いを終わらせる」
だといいな、そうマグナは思う。セイラの表情は彼にはわからない。けれど真面目に言っているのは間違いない。
「だからさ、頑張ろうねマグナ。一緒に生き抜いて、きっと平和な時を一緒に過ごそうね。約束だよ?」
「ああ、約束だ」
「それとさ……」
「まだ何か?」
「明かり消してくれない? その……、脱ぐのに恥ずかしくてさ」
「――!」
その言葉を聞いた瞬間のマグナはまさに神速だった。そっと優しくセイラをどけ、さっと立ち上がり蝋燭の元へ。その間わずか三秒。そしてその瞬間だった――
――ドーン!
そんな音が、強烈な振動をともなって響いたのだった。
「地震か!?」
マグナはぱっと蝋燭の火を消すとセイラの元へと駆け寄り、彼女をかばうように覆いかぶさった。
「……揺れないね」
「そうだな。――だとすれば!」
セイラの安全を確認すると、マグナは再び立ち上がって窓の側へ。
この砦は国都シュルティアのやや郊外にあり、窓からは市街や王城が見渡せる。何かしら現状を把握しようと窓の外へと目をやったのだが――。
「……!」
「どうしたのマグナ?」
「街が――いいや、シュルティアも王城も燃えている!」