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後編

 翌日。ミーナは母親のお使いで街に来ていたが、気はそぞろだった。うっかり目当ての店を通り過ぎ、慌てて引き返す。

 原因はもちろん、昨日渡された『恋の媚薬』だ。


(惚れ薬なんて…………本物だとしても、使っていいの…………?)


 クラウスに対して、完全に恋心がなくなったかといえば肯定はできない。今も彼の優しい笑顔を思い出すと、胸がしめつけられる。

 だが、媚薬を使ってまでとり戻したいかというと…………迷いがあった。

 経緯はどうあれ、クラウスが今、ライラを愛しているのは事実なのだ。ミーナが媚薬を使ったら、それはクラウスの気持ちを踏みにじってしまうことにならないか?

 心から好きな人がいるのに、無理やり別の人を好きになってしまうなんて。

 たとえばミーナが迷いなくクラウスを好きだった頃に、クラウス以外の誰かに媚薬によって心変わりさせられたら…………とうてい相手を許せなかったはずだ。

 ミーナはぶんぶんと首をふった。

 目当ての店のドアを開けながら思う。


(やっぱり惚れ薬なんて良くない。使うなんて良くないわよね…………)


「あら。ごきげんよう、ミーナ」


 聞き覚えある声が笑って挨拶してきて、ミーナは一瞬で物思いを覚まされる。

 店内にいたのはライラだった。

 相変わらず、いや、今まで以上に美しい。『恋は女を美しくする』というが、ライラは恋のみならず人生の勝者となった自信と優越感に、まばゆいほど輝いていた。

 ミーナは自分がみすぼらしい枯れ木になった気がした。


「珍しいですわね、こちらでお会いするなんて。こちらは貴族の方のためのお店なのに、どのようなご用件ですの?」


「あ、わ、私は…………」


 いつの間にか貴族の言葉遣いを身につけたらしいライラに、見下されているとわかっていながらミーナは言葉が出てこない。

 助け船を出したのは店のなじみの店員だった。


「あらミーナ、いらっしゃい。待っていたのよ」


「あ、これ、母からです。頼まれていた品物です」


「ありがとう。こちらが報酬よ。『急にお願いして、ごめんなさい』ってセルマに伝えておいてくれる?」


「いえ、こちらこそ。『いつでも頼って』と母が言っていました」


 ミーナは母から預かった品を店員の女に渡し、女から代金を受け取る。

 そのままさっさと店を出ようとすると、楽しげな声が響いた。


「なあんだ。母親のお使いでしたのね。だと思いましたわ。ミーナがこんな高級なお店に買い物に来るなんて、分不相応ですもの」


 くすくす笑う声にミーナは思わず足を止め、ライラをふりかえる。

 愛した婚約者を奪われ、侮辱まで受けて黙っていなければならない理由はなかった。


「私がどの店に入ろうと、あなたにあれこれ言われる覚えはないわ、ライラ。あなただって、貴族ではないという点では同じ平民じゃないの!」


 途端、ライラは眉をつりあげ、憤怒の形相となる。


「あんた達と一緒にしないで! 我が家はこの街一番の名家よ! 爵位を持たなくたって、準男爵家が縁談を持ち込んでくるほどの家柄なのよ!? 私はあんた達みたいなただの村娘とは違う、お金も教養もある淑女なんだからね!!」


 普段の言葉遣いに戻ったライラの反論に、ミーナは閃くように理解する。

 クラウスと婚約していた間、ミーナはムルト家の事情を多少聞いていた。

 現在のムルト家当主であるクラウスの父は資産運用が不得手で、いつもなにかしら金銭が不足しているらしい。贅沢に興味がないクラウスは、その件については「質素に暮らせばいい」と考え、その点はミーナも同意していたのだが、ムルト準男爵の考えは異なっていたようだ。準男爵は、街一番の豪商に結婚を口実に援助を依頼し、ライラの父も貴族と縁つづきになるのを受け容れた、というわけだ。

 クラウスとライラ、当人達は純粋に愛し合っているだけかもしれないが、互いの親達には「子供達の恋を応援してやりたい」以外の思惑があるのは確実だった。

 謎が一つ解けた…………と納得したミーナの視線は、ライラの背後に釘付けになる。

 ライラはミーナの反応に気づかず、さらにしゃべりつづける。


「私は、この街でもっとも美しくて賢くてお金持ちの娘なのよ? ふさわしい夫を得るのは当然だわ。クラウス様には、私のような優れた淑女がつりあうの。あなたみたいな無教養の村娘、クラウス様と一時婚約していただけでも身の程知らずだわ!!」


 周りに人がいなければ、引っ叩いていたかもしれない。

 ミーナはそうしないために拳をにぎって踵を返し、別れの言葉を叩きつけた。


「帰ります。ご結婚お幸せにね、ライラ。()()()()も」


「えっ…………」


 ライラは己の背後をふりかえった。

 従者を連れたクラウスが立っている。


「ライラ…………」


 クラウスの優しげな緑の目が哀しげに細められ、ライラは一瞬で失態を悟った。


「違います、クラウス様!」


 ライラは即座に泣き出しそうな表情になり、クラウスに駆け寄って彼の手をとる。


「ごめんなさい、クラウス様。私がいけませんでしたわ。冗談でも、あんなことを口にするなんて…………でも我慢できなかったんです。ミーナはつい先月まで、クラウス様の婚約者だったから。クラウス様がもし、まだミーナを愛していたらと思うと…………」


「ライラ」


「ごめんなさい、クラウス様。私、自信がないんです。クラウス様が愛しているのは私一人だって、信じきることができないの。だってクラウス様は高貴な家の子息で、勉強も運動もなんでもよくできて、私はただの成り上がり者の娘で…………あなたにはもっとふさわしい方がいるのではないかと思ったら、すごく不安になって、あんな口汚いことを…………自分でも嫌な女だと思います。こんな愚かな女…………嫌?」


 なよなよと、不自然にならない範囲でライラは可憐に身をよじり、最後の台詞で目瞳に涙をため、一心にクラウスを上目づかいで見あげる。

 クラウスは哀しげだった顔を嘘のように明るくした。


「嫌なものか、ライラ。僕が愛しているのも結婚したいのも、ライラだけだ。だから、そんな風に不安がらないでくれ」


「クラウス様…………!」


 クラウスは優しくライラを抱きしめ、ライラは喜びに満ちた顔で彼に抱きつく。

 真昼の店内で二人の世界がくりひろげられる。

 店員は声をかけられず、ミーナもさーっと興奮がひいていくのがわかる。


「それじゃ、私は帰ります」


 なじみの店員に挨拶して、今度こそ店を出て行こうとする。

 だがクラウスの声が引きとめた。


「待ってくれ、ミーナ。ライラの暴言は許してやってくれ。僕を愛するあまり、君とのことを誤解して不安になっただけなんだ。愛ゆえなんだよ、ライラの本心じゃない」


(いやいや、間違いなく本心でしょ)とミーナも居合わせた店員達も全員思ったが、口には出さない。


「ご心配なく。もう忘れました」


 ミーナは自分でも驚くほど冷ややかな声が出た。

 クラウスはさらに謝罪の言葉を重ねる。


「そういえば、こちらの都合で婚約を解消したのに、詫びの品一つ送っていなかったね。すぐに手配するので、それでライラの暴言は許してあげてくれ」


 ミーナは愕然とし、それから声をしぼり出した。


「けっこうです。物なんか必要ありません!」


 クラウスの返事を待たずに店を飛び出した。






「返しに来たのかい? 使わないのかい?」


 ミーナがさし出したガラス瓶を見て、ヴェーラ婆さんはちょっと驚いたようだった。

 ミーナは苦笑いをうかべて、うなずく。


「必要ないって、さっきクラウスに会ってわかったの」


 母の使いで店に行った帰り。その足で、ミーナはヴェーラ婆さんの家を訪ねていた。


「偶然だったけど…………ライラと話しているクラウス様を見て、はっきりわかったの。この人はもう、私の手の届かないところに行ってしまった。私の知っているクラウス様は、もうどこにもいないんだって」


 ライラの暴言を聞いていたのに、彼女の言い訳にころりとひっかかったクラウス。

 あの時に心底、実感させられた。

 今のクラウスはミーナよりライラが大事なのだ。

 クラウスは「詫びの品を送るからライラを許してやってほしい」と言った。

 その台詞を聞いた時、ミーナは心から情けなく思った。

 ミーナは詫びの品物なんて要らなかった。

 ただ一言、心から「すまなかった」と謝罪してくれれば、それで救われたのだ。

 だがクラウスは、ミーナが言葉より物を優先する人間ではないことさえ、わからなくなっていた。心からの言葉ではなく、物品で解決しようとする人間になっていた。

 ミーナが愛した、穏やかで華美を好まず、幻想的な物語を好んではミーナに話して聞かせ、文字を教えてくれた彼はもう、どこにもいないのだ。


「私が結婚したかったのは、昔のクラウス様。今のクラウス様にその薬を飲ませても、昔のクラウス様は戻ってこないと思うの。だから、その薬は要らないの」


 ミーナはきっぱり言った。自分自身に言いきかせるように。


「あの時、崖から飛び降りようと思ったのは、本当。でも、今はそんな気ないの。実際に崖を降りたら怖くなって…………私にはまだ、死ぬ勇気はない。死ぬには絶望が足りない、死ねるほど絶望していないんだって気がついたの。だから、もう飛び降りないし、その媚薬も要らないわ」


 死ぬつもりで、あの崖に行った。

 けれど実際に崖を降りて戻ってきたら、その意欲は失せていた。

 うまく言えないが、自分はあそこで一度、死んだのだと思う。

 肉体的には死んでいない。けれど死ぬような恐怖を味わうことで、死を疑似体験した。

 それで心のほうは死んだというか、気が済んだのだと思う。

『死んだ気になればなんでもできる』とは、よく言ったものだ。今の自分はたしかに、あんなに苦痛だった『生きること』が、ふたたびできるようになっている。

 悲しみのすべてがなくなったわけではない。けれど、あれほど拒絶していた明日を、今は受け容れることができた。

 やりきれなくても生きていく、そう心を切りかえることができたのだった。


「そういうことかい」


 ヴェーラ婆さんも笑って、ミーナからガラス瓶を受けとった。


「どうやら、ふっきれたようだね。それがいいよ。ミーナは自分が捨てられたのは、若様のライラとやらへの気持ちが勝ったから、つまり愛情ゆえと思っているんだろうけどね。あの若様は単に、自分の気持ちや都合が最優先なだけだよ。あの若様とは結婚しなくて正解だよ。男女関係なく、一度心変わりした人間はまた心変わりするからね」


 ミーナはあいまいに笑った。

 先ほどの様子を見た限り、クラウスが他の女性に心変わりするとは、とても思えない。

 だが老婆は確信があるようだった。


「人間、心は簡単に変わるけど、性格はなかなか変わらないものさ」


 老婆はガラス瓶を戸棚にしまい、ぱたん、と戸を閉めた。






 満月の晩も過ぎた、ある晴れた日の昼前。

 街の教会では、盛大にクラウスとライラの結婚式が挙げられた。

 ライラはこの日のために用意した、レースをたっぷり用いた花嫁衣装に身を包み、花の妖精もかくやの美しさを招待客に見せつける。

 一方クラウスはとっておきの晴れ着をまとい、最高級の髪油で金髪を整えながらも、どこか浮かない表情をしていた。

 もともと端正な顔立ちのため、憂い顔も様にはなるが、結婚式にはふつりあいだ。

 しかし盛りあがった周囲は花婿の表情に気づいても「緊張しているのだろう」と深く考えず、式後はムルト準男爵家の広い庭園に移動して、山ほどのごちそうと酒を堪能した。

 そして太陽が沈み、使用人達が用意した無数のロウソクが庭を照らす頃。

 それは現れた。


「クラウス――――」


 澄んだ美しい声が響いて、騒いでいた酔客達がいっせいに静まる。

 クラウスははじかれたように腰を浮かせ、声のしたほうを見やる。


「クラウス」


 宵闇の中、館の背後の森につづく庭園の隅に、光放つような美女が一人、立っていた。

 月光を梳いたような癖のない銀髪に紫水晶の双眸、白磁の肌。銀の古風なドレスに包まれた肩はたおやかで、細い首と額に水晶を嵌めた銀細工の飾りが輝いている。


「女神…………?」


 招待客の誰かが呟く。その単語に誰もが同意する、儚げで神秘的な美女だった。

 今日の主役である花嫁でさえ、周囲の祝福と感嘆の視線を奪った女の出現に苛立ちながらも、その圧倒的な美に気圧されて声をはりあげることができない。


「だ、誰よ、あの女…………」


 ライラの問いに答える声がある。


「プリマヴェーラ…………」


 なんとライラの隣に座るクラウスは、涙を流して正体不明の美女を見つめていた。

 女神の白い手が花婿を誘う。


「やっと迎えに来られたわ…………さあ来て、クラウス――――」


「な、なにを言っているのよ、あなた! 呼ばれもしないで押しかけて…………!」


 ライラが腰を浮かせて怒鳴りつける。

 だがクラウスはこの上なく幸せそうにほほ笑むと、席を離れて美女へと歩み寄った。

 両親を含めた招待客の視線を一身に集めながら、差し出された美女の手をとる。


「愛しているわ、クラウス――――」


「僕もだよ、プリマヴェーラ。ずっとこの時を待っていた。これは夢ではないんだね。愛している、プリマヴェーラ――――」


「はあ!?」とライラは声をあげたし、客達もすっかり酔いが冷めている。


 クラウスは美女を抱擁し、両親や招待客、そして挙式したばかりの己の花嫁をふりかえる。


「申し訳ありません、父上、母上。この結婚は破棄します。僕が愛しているのは、プリマヴェーラただ一人です。彼女との再会が果たされた以上、自分の気持ちを偽ることはできません」


 ムルト準男爵と夫人は息子の言葉にあ然と口と目を丸くする。


「なにを言っているの、クラウス!! あなた、私を愛しているって言ったじゃない!!」


 ライラがテーブルを叩いたが、花嫁を見るクラウスの瞳からは、すべての熱と愛が失われていた。


「突然すまない、ライラ。だが、君との結婚は破棄する。僕が本当に愛しているのは、プリマヴェーラなんだ。君への想いは妹に対するようなもので、それを恋と勘違いしていただけだと、プリマヴェーラと出会って理解したんだ」


 クラウスは銀髪の女神を愛おしげに見つめる。女神はクラウスをうながした。


「行きましょう、クラウス。私達の世界へ――――」


「ああ、プリマヴェーラ。これからはずっと一緒だ――――さようなら、父上、母上、みなさん――――」


 クラウスと美女がそろって歩き出す。日の沈んだ森の中へと。


「待って! クラウス!!」


「待ちなさい、クラウス!! どういうことだ!!」


 花嫁もムルト準男爵も準男爵家に仕える使用人達も、花婿を追おうとした。

 が、とうとつに強い冷風が吹きつけて一時、人々の視力と動きを奪う。

 ふたたび目を開いた時、花婿と美女の姿はどこにも見当らなかった。






「不思議よねぇ。妖精かなにかに騙されたんじゃないかしら」


 友達がしきりに首をかしげながら語る。

 先月、ムルト準男爵家の子息クラウスは、街一番の豪商の娘ライラと結婚式を挙げた。

 しかし結婚を祝う宴の最中、とつじょ謎の美女が現れてクラウスを誘い、クラウスは「僕が愛しているのは彼女だけだ」と宣言して、美女と共に姿を消してしまったという。


「まあ、クラウス様が心変わりしたのも、わからないでもないわ。すごい美人だったもの。お月様みたいな銀髪に、黄昏の空みたいな紫色の瞳でね。なんというか…………ライラとは格が違うの。人間離れした美しさだったわ」


 ライラに招待されて祝宴に出席し、現場を目の当たりにした友達は語る。


「使用人総出でクラウス様を探したんだけど…………全然、見つからなかったのよ。いくら夜の森といっても、すぐに追いかけたし、結婚式と宴の準備で人手と灯りはたくさん用意されていたし、女まで駆り出されて夜通し探したのに」


 クラウスと美女が発見されることはなかった。

 だが一週間後、憔悴しきったムルト準男爵の館に、当のクラウスがひょっこり戻ってくる。

 準男爵達は驚き、けれど安堵した。てっきり例の美女と破局したと思ったのだ。

 しかしクラウスの返事はまったく予想外のものだった。

 クラウスが説明するには、プリマヴェーラはこの辺り一帯の森を司る女神で、普段は神々の世界に住んでいる。しかし偶然のぞいた人間の世界でクラウスを見つけ、恋に落ちた。


「結婚式の一週間前の夜、僕は夢ではじめてプリマヴェーラに出会いました。そして夢と知りつつ、彼女に恋をしました。彼女は三日三晩、僕の夢に現れ、僕は彼女と愛を交わし、互いの心を確かめあったのです」


 父親である準男爵に説明するクラウスは幸せそうに照れ、己に一点の非もないというように堂々としていたそうだ。


「けれど夢から覚めて、僕は迷いました。プリマヴェーラは必ずもう一度、僕のもとに来ると誓った…………けれど、あれはただの夢かもしれない…………僕の心はとっくにプリマヴェーラのものでしたが、情けないことに彼女と再会できる自信はなかったんです。ですが、そんな僕の前に彼女はふたたび現れ、他の女と結婚しようとしていた過ちを許して、僕を愛していると言ってくれたんです。僕は、もう二度と彼女を裏切りません。僕が愛しているのはプリマヴェーラだけです。僕達はあちらの世界で、正式に式を挙げました。父上がなんと言おうと、僕の妻はプリマヴェーラただ一人です」


 きらきら輝く瞳で断言した息子に、両親は、新妻はどのような思いを抱いたろう。


「なんでも、クラウス様は人間だから、あちらの世界でずっと一緒にいるには、いろいろ準備が必要で、プリマヴェーラ様がそれをやっておくから、その間に館に戻って家族へ説明とお別れをしてきなさいって、そのプリマヴェーラ様から言われたらしいわ。準備ができたら、また迎えに来るそうよ。今度は永久に、あちらの世界で暮らすんですって」


 友人が、準男爵家の顔なじみの使用人から聞いた話を語り終えると「はあー…………」と、なんともいえない空気がミーナを含めた村娘達の間に流れた。


「たしかに、人間をさらっていく妖精もいるって伝説だけど…………」


「でも、本当に妖精とか女神なら、一度、会ってみたかったかも」


 少女達は口々にしゃべる。一人がミーナに言った。


「まあでも、そういうことなら、婚約を解消して良かったんじゃない? ミーナ。もしクラウス様と結婚していたら、今頃ミーナがライラの立場になっていたかもよ?」


「うんうん」と娘達はいっせいにうなずく。

 クラウスは戻ってきた。しかし本人は「僕の妻はプリマヴェーラただ一人!」と言い張って事実上、新妻を放置しているという。

 ライラは最初こそあの手この手でクラウスを誘ったが、頑として拒絶するクラウスの態度に、かんかんになって父親に離婚を申し出たそうだ。

 だが、ライラの父は貴族と縁続きになって商売の手を広げたいし、そのために娘を準男爵家に嫁がせたのだし、ムルト準男爵はライラの父から金銭的な援助がほしい。そして経済的にはどうあれ、身分上はライラの父よりムルト準男爵のほうが強い。

 結果、ライラは挙式直後に大勢の前で花婿に他の女と逃げられたにも関わらず、クラウスとの離婚は許されず、ひとしきり周囲に当たり散らしたあとは夫に見切りをつけ、念願の社交界に出て、そこで出会った若い男達との火遊びに興じているらしい。おかげでクラウスの母親との仲は最悪だそうだ。

 元凶であるクラウスはというと「準備が整ったら、プリマヴェーラが迎えに来てくれるから」の一点張りで日々、プリマヴェーラを賛美する詩や曲を作って過ごしているらしい。

 ムルト準男爵は現在、次男を跡継ぎにする段取りを組んでいるともっぱらの噂だ。

 そしてそういう噂を当のクラウスが耳にしても「僕はプリマヴェーラとあちらの世界に行くから、弟が家を継ぐほうがいいね」と笑うばかりで、『ムルト準男爵夫人』の座を狙っていたライラの怒りにますます油を注いでいるらしい。

 そのへんの欲の無さは相変わらずだな、と話を聞きながらミーナは思った。

 聞いた限り、クラウスがライラを捨てた経緯はミーナの時とそっくりだ。他にもっと好きな女性が現れたから、今の婚約を破棄して新しい人と婚約する。元の婚約者とはまともに話し合わず、一方的に宣言して終わり。台詞までミーナの時と似通っている。

 ヴェーラ婆さんの言ったとおりだった。


『心は簡単に変わるけれど、性格はなかなか変わらないものさ――――』


 クラウスはライラを愛したから、ミーナを捨てたのではない。新しく好きな人ができれば、それまでの恋人や婚約者はさっさと捨てて、話し合いという最低限の誠意さえ見せない。そういう身勝手な男性だったのだ。

 ただ、以前のミーナはそれを見抜けなかったのだ。

 娘達は気づかなかったが、ミーナはふっきれた笑みを浮かべると友人達と別れ、ヴェーラ婆さんの家を訪ねた。ヴェーラ婆さんはこころよくミーナを迎えてくれた。

 ヴェーラ婆さんもクラウスの一件を知っていた。というより、この一帯で知らぬ人間はいないだろう。


「村の女達から話は聞いたよ。『本当に妖精や女神の仕業か?』『魔女のあんたなら、なにかわかるだろう』って、準男爵家まで訊ねて来たよ。冗談じゃない、あたしはただの薬売りさ。ちょっとばかし他の薬売りより腕がいいだけだよ」


 さらりと自画自賛を混ぜて、『魔女』とあだ名される老婆はミーナに摘みたての薄荷(ミント)の葉でお茶を淹れてくれる。


「で? 今日は、どうしたんだい?」


「塗り薬を買いに来たの。この前いただいた分がとてもよく効いたから、お母さんが『また欲しい』って」


「あれなら、ちょうど新しく作ったばかりだよ。ちょっと待っとくれ」


 ヴェーラ婆さんは戸棚を開けて、中から大小様々な瓶や壺をとり出す。

 その中に小さな手鏡があった。

 ミーナは少女の好奇心で鏡面をのぞく。自分の顔が映り――――ぎょっと顔をあげた。


「どうかしたかい?」


 ヴェーラ婆さんが薬を探す手をとめ、ミーナを見る。

 白髪としわだらけの、どこにでもいる老婆の顔だ。

 ミーナは鏡面を見る。

 きょとんとミーナを見るヴェーラ婆さんの顔が映っている。

 ミーナは笑った。


「なんでもない。気のせいだったみたい」


 一瞬、手鏡の中に映ったヴェーラ婆さんのうしろ姿が、月光のような癖のない銀髪が背中をおおう、たおやかな肩の若い女性のうしろ姿に見えたのだ。

 ヴェーラ婆さんは目当ての塗り薬を見つけて、テーブルに並べた小瓶を戸棚に戻しはじめる。

 ミーナも手伝おうして、ふと、見覚えあるきれいなガラス瓶を発見した。

 ガラス瓶を手にとり、気がつく。

 ヴェーラ婆さんに訊ねた。


「ねぇ、ヴェーラお婆さん。この惚れ薬、使ったの?」

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