幕間 やがて神話は燃え尽きる
水柱が一つあがった。あの中には二人がいる。誘里がピラーから飛び降りた後、雲の中という水の粒の集まりを泳いで飛んで、メガフロート部を避けて海に逃げた、その一部始終を、シロンは見ていた。すぐにでも駆けつけたかったが、今はまだ、そういう関係を望んでいない。
「うーん、よく見える」
すっかり日も落ち、風雨と相まって視界は劣悪だ。だがそれは、人間が己の知覚をたったの五つに分けたうちの一つでの話。多くのヒュームには、その限りではない。熱であり各種放射線であり。霊感の強い人間に見える世界や、共感覚に近いかもしれない。他者の、ましてやヒュームに見えている世界など、想像だにしない。
シロンは闇水に沈むピラーに強い力を視た。事の顛末を。あの屋上から、雨に濡れることなく。
横殴りの雨からシロンを守る、高い壁。
氷の壁だ。
無色できらきらと乱反射して、打ち付けられる雨は流れず、凍り、体積を増している。薄く割れてしまいそうだという不安をよそに、あり続ける。何事にも揺らぐことがない。壁を越えて降り入ってくる雨は、瞬く間に凍っていく。この異様な光景では夏に雪が降る。
「寒……いや、暑い、か。寒暖の感覚は生命の呼びかけだ。おれらにとっては相対的評価的表現にとどまる。おれは確かに熱くなっているから、周囲は寒いと思う」
誰にも聞かれない語りをしながら、誰にも見られないのに見せびらかすように腕を掲げてピラーを狙うように伸ばした。その手には弓が握られていた。
シロンがフェイルノートと呼ぶそれは、線が細く流麗で、各所に散らされた結晶が兵器らしさを薄めて、煌びやかで、とてもふさわしく似つかわしい。
「アクティベート」
光が微細な粒子となって雪に紛れて舞った。実体のない弦をつかむと実体のない矢がうまれる。引っ張ると矢が大きく光り、一回り大きく、鋭くなった。
シロンは吊り上がった笑みを浮かべて、不気味な光を瞳にともしていた。
宙空や氷壁には、矢を“必中”させるための情報が投影される。
彼と、“ターゲット”の高度はほぼ等しい。今回は曲射ではなく、一直線で射抜ける。シロンとアルトの間にいるのは、慧恋だ。
「アーツ、プログラム、」
神話を、終わらせようと。指を、放す。
「―――――!」
風が吹いた。
「ぬ、…………ぐ…………うあぁあッ!」
純真な風が、乱暴な縦横無尽な風を割って、正面から覆いかぶさってきた。光も雪も、埃のように吹き飛ばされ、たまらず顔を守ったシロンも木の葉のように吹き飛んだ。氷壁に数条ものヒビを走らせ、それで風は止んだ。すぐに台風の、落書きのような雑な風が、辺りを吹き埋める。
「……………………。…………寒いな」
言葉以上の意味を含んで、シロンは震えた。体を起こすことも笑顔を作ることも忘れて、雨を防ぐのは自動に任せて、しばらく仰向けのまま空を見た。
「…………気付かれた? この距離で……いや、そんなわけは…………」
風は、こちらの意識に反応してきた気分があった。だけどよく知るアルトの滑らかな優しさ故の弱さみたいなもの感じなかった。
「そうか、“騎士王”」
今はまだ、大丈夫。こうして無防備に思考を巡らせられるのが一つの答えだ。
跳ね起きたとき、彼にはいつもの笑顔が戻り、震えも止まっていた。
踵を返し、屋上をあとにする。氷の壁は一瞬で融け、あとには何も残らなかった。
第二部 「燃える水際の十字歌」に続く




