第2話 切り裂く翼に空高く光が奔る ⑧
誘里がそっと手を挙げた。
「お姉ちゃんに呼ばれちゃったので行ってくるです」
「あ、はい行ってらっしゃい」
笑顔で手を振り、テラスを出ていく誘里。ヒュームは通常、自分あての連絡は視覚を介さなくても確認できるので、人と比べると少々奇怪にうつる。
「じゃ、おれも行こうかな」
席を立ち、誘里を追いかけていくシロン。その行動に疑問を覚えたアルトは尋ねる。
「どうして?」
「誘里といっしょにいたいからだよ。アルトと慧恋さんにあてられたかな、なるべく一緒にいようとする意志ってのかな」
誰もいないテラスに残される。シロンたちと話すためにここには足繁く通っているが、一人でいる理由はない。
慧恋のところへ行こうと思った。今日は屋上だろうか。そういえば行ったことはない。登下校時に見下ろしたことは何度もあった。
校内の見取り図を頭に浮かべる。なるべく人がいない道を選びたかった。
最寄りの階段を上がる。つきあたりから隣の校舎へ渡り廊下を通る。おそろしく人がいないが、雰囲気がほとんどあのテラスだ。慣れてしまっている。
渡り廊下の真ん中に何かがあった。気にせず横を通って過ぎようとする。
「あっ……待って、アルト」
その何かが慌てたように振り返って、アルトを引き留める。
「どうしました。僕になんか用だったんですか、レグルス」
アルトは気怠そうに、猫耳のヒュームに応じた。
この廊下には二人の他にはひともヒュームもいない。誰もいない一本道で、ひとが、ひとの前に無言で立ちはだかったなら、何か意図があると考えるのが普通だ。用事があるか。妨害か。本来であれば機械が、見せる人間がいないここで、そんな意図をもつように想像を抱かせる様子をする必要はない。だが、今どきのヒュームの極みであるシロンのようなものならば、そういうことはしそうだ。
雰囲気の演出だ。さっきアルトに見えたレグルスは、待ち構えたような、何か言いたげな目をしていた。
アルトの知るレグルスはそんなことをするヒュームではない。それがなぜか無性に苛立つ。
「今朝のようなことは……控えたほうが……いい」
慧恋を抱えて飛んだことを言っているようだった。
怯えるように震えながら、それでもしっかり伝えなくては、という意思を見せて言葉は紡がれていた。
「なぜです」
「だ、だって目立つ……から……。慧恋さん……、迷惑がって……る」
「なぜです」
「な、なぜってそんな――」
「なぜお前にそんなこと言われなくてはならないのですか」
アルトが問うのは。発言の理由でも、原因の理由でもない。この状況の理由。発言者を拒絶する意図だった。
「え、ぅ…………」
人間なら涙を流せたのに。レグルスはそのちいさなじぶんのからだを抱きしめるようにするしかできない。アルトの言葉に、押し倒されそうだった。
「僕たちは面倒ですね。人の姿をした因果か」
アルトの視線は冷たく厳しく、レグルスを射抜いた。
「ア、ルト……」
「不愉快だ、レグルス。これは何だ? お前がこんなことをするなんて、気持ち悪い。シャーリィさまに言われてきました?」
「あ、の……」
「お前はいつもそうだ。あぁ、立派なヒュームですよ、レグルス。僕はうまくやってますよ。問題があればシャーリィさまが言ってくるはずだ。そうでないからお前が独断でこうしたってことになります。どうしました、心境の変化?」
レグルスはもう立っていられなかった。うずくまり、震えるだけだった。
アルトは勇気を出して行動したかもしれない少女を一瞥して去っていく。残念なことに屋上へ寄る時間はなさそうだ。
「ボクたちは所詮……なかに何が入っていても……ヒュームだ……」
背中で聞いたその言葉だけが、木霊するようだった。
食後に台所から聞こえる生活音が慧恋にとって日常となったように、アルトはリビングにいる慧恋の空気を感じている。
今日はどこか違和感があった。さっきからこちらの様子を窺っている。慧恋は気付かれてないと思っているが、アルトにはそれがよく分かる。自分の機械としての機能をフルに使って盗み見るようなことをしていることに後ろめたさを感じた。
「……風呂でも入ってくるか」
食器を乾燥除菌機にかけ終えてリビングに戻ったアルトの姿を認めた慧恋が言った。給湯はとっくに終わっている。
「ではご一緒しましょう」
アルトは平常を努めた。内の動揺は、言動に反映させなければいい。ヒュームなら意識的に、完璧にこなせる。
「まったく、一緒に入る必要はないだろうが。かたちが違えばそうでもなかったのかもしれないがな……。入りたいならあとで一人で入ってくれ。
おまえはヒュームなんだから」
「……そう、ですよね」
かたちがどうであれ、それこそ女性型だったとして、慧恋が一緒にお風呂を恥ずかしがらないとしても、最初に拒絶され、望んでいないようなら、提案など意味があるはずがないのだ。
「僕は所詮、道具です。出すぎた真似でした」
後悔は強く印象に残る。レグルスに対して出た言葉は、ただあれを傷つけたいために出た言葉だ。にんぎょう。ない心の変化。特別であっても道具。その道具が我を通して主に迷惑をかける。とんだ御伽噺だった。
目の前の可憐なオーナーが、慌てた様子で言葉を繋いだ。
「違うんだっ、アルト! そういうつもりで言ったわけじゃ――」
この人は無理をしている。なまじ人の姿をしているから、気を遣わせている。道具を大切に扱う気持ちとかけ離れている。道具以上に見られてしまったら、道具は、どう使われたらいいのだろう。
「いいんです、慧恋さま」
「違うっ、アルト、私は……っ」
慧恋は気を遣いすぎる。相手が例え人の形をした道具でも。
それはきっとまだ信用されきっていないということの表れでもあった。
「お湯が冷めますよ。僕は夜食でも作って……いえ……迷惑でなければ、作っていましょう」
アルトは背を向けて台所へ戻る。
慧恋は、引きとめようとして延ばした手をそのまま下ろして、脱衣所へと駆けて行った。




