第一章 過労死公務員とハズレ能力
過労死公務員とハズレ能力
深夜の市役所、インフラ整備課。
冷え切ったパイプ椅子の上で、透の意識は唐突に途切れた。
最後に見た記憶は、パソコンのモニターに映る終わらない稟議書の山と、デスクの端に置かれたまま手付かずになっているコンビニのハンバーグ弁当だった。温めてもらったのに、完全に冷めきっている。あのデミグラスソースの匂いが、現世での最後の未練となった。
「あー、ごめんごめん! マジでごめん! スマホのフリック操作ミスっちゃった!」
気がつくと、トオルは真っ白な空間に立っていた。
目の前には、小豆色の芋ジャージを上下に着込み、足元に健康サンダルを突っ掛けた絶世の美少女がいた。彼女はコタツに入りながら、片手にみかんを持ち、もう片方の手で光り輝く板――『エンジェルすまーとふぉん』を必死にタップしている。
「は……? フリック操作ミス? あなたは一体……」
「私? 第3種惑星創造神格公務員のルチアナ。アナステシアって世界の担当神なんだけどさ。いやぁ、推しのアイドルのガチャ回すのに夢中になってたら、間違って下界の生命座標管理アプリの削除ボタン押しちゃって。君の魂、ロストしちゃったんだよね、てへっ」
「てへっ、じゃないですよ! 私は死んだんですか!? 明日までに県に提出する下水道工事の助成金申請書はどうなるんですか! ハンバーグ弁当は!」
トオルは元・地方公務員である。
理不尽な市民からのクレームや、上司の無茶振りには耐え抜いてきた自負があったが、神様のスマホの操作ミスで命を散らすことなど、労災の項目にも載っていない。
「まあまあ、終わった書類のことは忘れなよ。現世にはもう戻せないから、私の担当してるアナステシア世界に転生させてあげる。あ、お詫びにチート能力的なやつ、適当に見繕って付けといたから! じゃ、そういうことで!」
「ちょっと待ってくだ――」
ルチアナがスマホの画面をポンとタップした瞬間、トオルの足元の床が抜け落ちた。
猛烈な落下感と共に、真っ白な空間が遠ざかる。最後まで、その女神はジャージの袖で口元の果汁を拭いながら、ガチャの演出画面に一喜一憂していた。
***
冷たい風が頬を撫でた。
トオルがゆっくりと目を開けると、そこは鬱蒼と生い茂る夜の森の中だった。月明かりすらない暗闇が広がり、遠くから名前も知らない獣の遠吠えが聞こえる。
服装は市役所で倒れた時のまま、シワの寄ったスラックスにワイシャツ姿だ。
「……本当に転生させられたのか。あのクソ上司以上の適当さで」
ため息をつきながら、トオルは女神が言っていた「チート能力」を確認すべく、頭の中でステータス画面を念じた。
すると、視界の空中に半透明のウィンドウがふわりと浮かび上がった。
【ユニークスキル:公共事業】
所持ポイント:100pt
(貢献度を消費し、公共の利益となる物品を具現化します)
「公共事業……? 聖剣とか、炎の魔法とかじゃないのか?」
いぶかしみながら、具現化可能なアイテムのリストを開く。
・ポケットティッシュ(1pt)
・割り箸(1pt)
・軍手(3pt)
・百円ライター(2pt)
・LED懐中電灯(5pt)
・結束バンド(1pt)
「完全に市役所の備品発注リストじゃないか!」
思わず夜の森にツッコミが響き渡る。異世界に来てまで、防災備蓄倉庫の在庫管理のような画面を見せられるとは思わなかった。戦闘力が上がるわけでも、魔法が撃てるわけでもない。文字通りのハズレ能力だ。
その時だった。
背後の茂みから、ガサリと音がした。
トオルは心臓を跳ね上がらせ、慌てて振り返る。魔物が出たなら、この貧弱な公務員の肉体では一溜まりもない。
しかし、草葉の陰から現れたのは、恐ろしい魔獣ではなかった。
両手で収まるほどの小さな、網目模様の丸い物体だった。下部からはひょろりとした蔦のような手足が生えており、上部には可愛らしい目と口がついている。
高級マスクメロンに手足が生えたような、奇妙な生き物。その表面には、鋭い爪で引っ掻かれたような生々しい傷跡があり、緑色の体液が滲んでいた。
『パパ……?』
トオルの脳内に、鈴を転がすような片言のテレパシーが響いた。
「パパじゃない。トオルだ。君は……魔物なのか?」
『いたい……おみず……ほしい……』
メロンの生き物は、よろよろとトオルの革靴の足元まで歩み寄ると、そのまま力尽きたようにコテンと倒れ込んだ。
トオルはため息をついた。
異世界の魔物かもしれない。触れれば毒があるかもしれない。しかし、彼は根っからの公僕だ。目の前で傷つき、助けを求めている弱者を見捨てて定時退社できるほど、冷酷にはなれなかった。
「……暗くて傷の具合がよく見えないな」
トオルは空中のウィンドウを操作し、リストの中から『LED懐中電灯』を選択した。
所持ポイントが5pt減り、残高が95ptになる。
直後、空中に光の粒子が集まり、重みのあるアルミ合金製のLEDライトがトオルの手のひらに落ちてきた。
スイッチを入れる。
カチッという音と共に、強烈な白色光が夜の森を切り裂いた。
闇に慣れていた目には眩しすぎるほどの直進性の高い光。その明かりを頼りに、トオルはメロンの生き物の傷を確認する。傷は深くないが、泥が入り込んでいた。
「よし、動かないでくれよ」
トオルはワイシャツの袖を破り、近くの葉に溜まっていた朝露を含ませて、丁寧に泥を拭き取ってやる。
メロンの生き物は、目を細めて気持ちよさそうに『しゅき……』と念を飛ばしてきた。
「甘えるな。とりあえずメルちゃんでいいか。メロンっぽいし」
適当に名前を付けると、メルちゃんは蔦の手をパタパタと振って喜んだ。
しかし、その安らぎの時間は一瞬で破られた。
グルルル……という低い唸り声。
LEDの光が照らし出す木々の奥から、二つの赤い眼光が浮かび上がった。体長二メートルはあろうかという、漆黒の毛並みを持つ巨大な狼型の魔獣だった。メルちゃんについた傷は、こいつの仕業に違いない。
魔獣は、獲物を横取りされた怒りからか、よだれを垂らしながらトオルへ向かって跳躍の姿勢を取った。
「冗談じゃないぞ……!」
トオルは咄嗟に、手にしたLED懐中電灯のスイッチを切り替えた。
『ストロボモード』。
暗闇の森の中で、数千ルーメンの強力なフラッシュが、魔獣の眼球めがけて超高速で点滅を繰り返す。
「ギャウンッ!?」
強力な光の明滅をゼロ距離で浴びた魔獣は、完全に視界を奪われ、パニックを起こして地面を転げ回った。
トオルはその隙を逃さない。
再びスキル画面を操作し、『百円ライター(2pt)』を具現化する。
チャッ、と安っぽい音を立てて小さな火が灯る。
トオルはすぐさま、足元に落ちていた乾燥した枯れ葉と木の枝の山に、その火を押し当てた。
パチパチと音を立てて、乾いた葉が一気に燃え上がり、周囲に赤い炎と煙の壁を作り出す。
野生の獣にとって、得体の知れない強烈な光と、突如として発生した炎は本能的な恐怖の対象だ。
視界を焼かれ、炎の熱気に当てられた魔獣は、悲鳴のような遠吠えを上げると、尻尾を巻いて森の奥深くへと逃げ去っていった。
「……はぁっ、はぁっ……。心臓が止まるかと思った」
トオルはその場にへたり込んだ。
手には百円ライターと、電池式の懐中電灯。
剣でも魔法でもない、どこにでも売っている安価な日用品。だが、使い方次第では異世界の魔獣から命を守る盾になることを、彼は実体験として理解した。
足元では、メルちゃんがトオルの足に蔓を巻き付け、『パパ、しゅごい!』と称賛の念を送ってきている。
「凄いのは俺じゃない。現代文明の利器だ」
トオルは息を整えながら、ふと、空中に浮かんだままの『公共事業』のスキルウィンドウに目を落とした。
100円ライターやティッシュといった日用品リストの下。
スクロールしていくと、そこには膨大な量の「未解放」の項目が、グレーアウトした状態でずらりと並んでいた。
・公衆水洗トイレユニット(未解放:要5,000pt)
・プレハブ診療所(未解放:要20,000pt)
・アスファルト舗装キット(未解放:要50,000pt)
・マナ変換式発電所(未解放:要1,000,000pt)
・災害用地下絶対シェルター網(未解放:要5,000,000pt)
トオルの目が、限界まで見開かれた。
「……なんだこれ」
ただの備品発注スキルではない。
ポイントを貯めれば、異世界に上下水道を引き、発電所を建て、近代的な要塞都市を丸ごと具現化できるというのか。
「あの芋ジャージの女神……ハズレ能力のフリをして、とんでもない国家予算級のインフラシステムを押し付けてきやがったな」
とはいえ、今の残高は93pt。
発電所どころか、トイレットペーパーを数個出せば枯渇する零細予算だ。
トオルは立ち上がり、スラックスの土を払った。肩によじ登ってきたメルちゃんが、安心したようにスースーと寝息を立て始める。
まずは、人がいる場所を探さなければならない。
安全に眠れる場所と、温かいご飯。できれば、食べ損ねたハンバーグ弁当の代わりになるようなものが欲しい。
かくして、過労死した地方公務員トオルと、後に神話級の存在へと至るベビーメロロンの、異世界インフラ建国記の幕がひっそりと上がった。
読んでいただきありがとうございます。
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