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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第90話 ありがとうを強制しないために

 南区第三孤児院に、小さな棚が置かれた。


 大広間の舞踏会で使われた花台とは比べものにならないほど、素朴な棚だった。


 高さは子どもの胸ほど。

 幅も広すぎない。

 食堂の壁際に置いても邪魔にならず、子どもたちが自分で手を伸ばせる高さに調整されている。


 上段には、小さな瓶を並べられる溝。

 中段には、拾った枝や葉、丸い石などを置ける浅い板。

 下段には、差し替え式の札をしまえる小箱。


 セシリアの案で、棚の隅には名前を刻まなかった。


 寄付者名も、商会名も、王宮慈善局の印もない。


 ただ、使う人が自由に札を差せるよう、小さな木枠だけがついている。


 最初の札には、子どもたちの字でこう書かれていた。


 今日の枝


 少し曲がった字だった。


 けれど、誰かが一生懸命書いたことはわかる。


 リディアはその札を見て、しばらく言葉を失った。


 作ったのは職人だ。

 費用を出したのは寄付者だ。

 図案を考えたのはセシリアだ。

 記録に残したのは王宮慈善局だ。


 それでも、この棚は、今日この札を書いた子どもたちのものなのだ。


「……よかった」


 リディアは小さく呟いた。


 隣にいたセシリアが、ほっとしたように息を吐く。


「思っていたより、ちゃんと棚になりましたね」


「棚ですもの」


「いえ、そうなのですけれど」


 セシリアは少し照れたように笑った。


「私、図案を描くときは簡単に思えたのですが、本当に使われるところを見ると……少し不思議で」


「わかります」


 リディアは頷いた。


「紙の上では、ただの項目ですものね」


 枝や葉を置く棚。


 記録上は、そう書かれる。


 けれど実物を見ると、そこには子どもたちの視線が集まり、誰かが拾ってきた細い枝が大切そうに瓶へ挿されている。


 項目ではなく、場所になっていた。


 マリベル院長が、少し離れたところから棚を見ていた。


「昨日の夕方から、子どもたちが順番でもめています」


 院長は困ったように言ったが、その目元はやわらかい。


「もめているのですか」


「ええ。誰の枝を上段に置くか、どの葉が一番綺麗か。普段なら取り合いになって叱るところですが……今回は、札を作って交代で置くことにしました」


 リディアは微笑んだ。


「それは、よい決まりですね」


「自分たちで言い出しました。棚に置くなら、決まりがいると」


 セシリアが小さく笑う。


「もう、棚の管理人ですね」


「そうですね」


 院長の声にも、少しだけ誇らしさが混じった。


 そこへ、昨日の女の子が近づいてきた。


 青い花を珍しいと言った子。

 毛布の角を触って、「まだ私の」と言った子。


 彼女はリディアを見ると、少しだけはにかんだ。


「青い花のお姉さん」


「こんにちは」


 リディアは膝を折り、目線を近づけた。


「棚、使いやすい?」


「うん」


 女の子はすぐに頷いた。


「今日は私の枝」


「そうなのね」


「明日はトムの石」


 トムがおそらく、窓が鳴ると教えてくれた男の子なのだろう。


 女の子は棚を見て、少し得意げに言った。


「札、私が書いた」


「とてもよく書けています」


「ちょっと曲がった」


「曲がっていても、読めます」


 そう答えると、女の子は満足そうに頷いた。


「じゃあ、いい」


 また、その言葉。


 じゃあ、いい。


 リディアは、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 その子が走って戻っていくと、セシリアが小さく言った。


「私、あの言い方が好きです」


「じゃあ、いい?」


「はい。大人の許可ではなく、自分で納得したみたいで」


「ええ」


 リディアは棚の札を見た。


 今日の枝。


 たったそれだけの言葉なのに、この場所では十分な意味を持っている。


 この棚を、寄付者名で埋めなくてよかった。


 心からそう思った。


 しかし、その安心は長くは続かなかった。


 孤児院での確認を終えて宰相家へ戻ると、王宮慈善局から一通の照会が届いていた。


 オスカーが読み上げる。


「南区支援に関して、一部寄付者より“子どもたちからの感謝文を受け取りたい”との希望あり。特に毛布支援、棚支援、窓枠修繕について、簡単な礼状や絵を後日送ってもらえないか、とのことです」


 作業室の空気が、一瞬で変わった。


 リディアは、机の上に置いていた手袋をそっと握った。


 来ると思っていた。


 どこかで、こういう話は必ず出る。


 寄付者は、自分の善意が届いたことを知りたい。

 それ自体は悪いことではない。むしろ、支援を続けるためには大切な感覚でもある。


 だが、子どもたちに感謝文を書かせる。


 それは慎重に扱わなければならない。


 感謝は、強制されると負担になる。


 とくに、支援を受ける側に立たされる子どもには。


「どなたからの希望ですか」


「複数です。ヴェルナー子爵夫人の名はありません。主に、舞踏会で南区修繕へ寄付された一部の貴婦人と商家関係者です」


「ヴェルナー子爵夫人ではないのですね」


 リディアは少し安堵した。


 彼女なら、今はきっと理解してくれる。


 だが、他の寄付者がそうとは限らない。


 オスカーは続けた。


「形式としては、“ありがとうの絵を一枚ずつ”“毛布を受け取った子どもの短い言葉”“修繕後の窓辺の様子”などを希望しているようです」


 修繕後の窓辺の様子。


 それだけなら、写真のないこの世界では職人の報告や担当官の記録で済ませられる。


 だが、子どもたちの言葉や絵となると違う。


 リディアは、さきほどの女の子の字を思い出した。


 今日の枝。


 あれは、子どもが自分のために書いた札だ。

 寄付者へ見せるための感謝文ではない。


 その違いは大きい。


「奥様」


 エマが、静かに茶を置いた。


「少し、手が冷えております」


 リディアは自分の指先を見た。


 確かに冷えている。


 怒りだろうか。

 不安だろうか。


 たぶん、両方だった。


「……寄付者の方々の気持ちは、わかります」


 リディアは言った。


「自分の支援が届いたか知りたい。役に立ったと感じたい。それは自然なことです」


「はい」


 オスカーが頷く。


「ですが、子どもたちにありがとうを書かせることは、慎重にしなければなりません」


「強制になる恐れがあります」


「ええ」


 リディアは椅子に座り、少しだけ目を閉じた。


 ありがとう。


 その言葉は美しい。


 けれど、感謝は支援の代金ではない。


 毛布を受け取ったから、礼状を書くべき。

 棚を作ってもらったから、絵を贈るべき。

 窓を直してもらったから、可愛い字でありがとうと言うべき。


 それでは、支援を受ける子どもたちの心に、別の負担を乗せてしまう。


 自分も昔、感謝を求められる場にいた。


 父に教育されたこと。

 王太子の隣に立てること。

 家の名を背負えること。


 感謝しなさい。

 恵まれているのだから。


 そう言われるたび、リディアの中で何かが少しずつ固くなっていった。


 善意や恩は、感謝を強制した瞬間に、鎖になることがある。


 それだけは、避けたかった。


「旦那様に相談します」


 リディアは立ち上がった。


 執務室へ行くと、アルベルトは財務局の書類を読んでいた。


 リディアの顔を見るなり、彼は手元の書類を閉じる。


「問題か」


「はい」


 即答だった。


 リディアは照会文を差し出す。


 アルベルトは黙って読み、読み終えると短く言った。


「来たか」


「予想されていたのですか」


「当然だ。寄付者は成果を欲しがる」


「成果を示すことは必要です」


「ああ。だが、感謝を取りに行くのは別だ」


 リディアは胸の奥が少し落ち着くのを感じた。


 自分だけが過敏なのではない。


 アルベルトも同じ線を見ている。


「断るべきでしょうか」


「そのまま断ると反発する」


「はい」


「代替案を出せ」


「代替案」


 アルベルトは机の上の紙を一枚引き寄せた。


「寄付者には成果報告を出す。子ども個人の礼状ではなく、院長と慈善局の共同報告。毛布なら補修枚数、入れ替え枚数、残した毛布の方針。窓枠なら修繕箇所。棚なら設置場所と使い方」


「子どもたちの絵や言葉は?」


「任意でも危うい」


 アルベルトは低く言った。


「院長が“書きたい子だけ”と言っても、子どもは空気を読む。書かなければ悪いと思う」


 その通りだった。


 子どもは、大人が思うよりずっと空気を読む。

 支援してもらったのだから、ありがとうを言わなければ。

 そう感じてしまう。


「では、子どもたちの制作物は外へ出さない」


「基本はそうだ」


「ただ、棚の札のように、子どもたちが自分たちのために作ったものは?」


「報告には“使用状況”として書けばいい。実物や写しは出すな」


 リディアは頷いた。


 今日の枝。


 あの札を、寄付者への感動材料にはしない。


「成果を知る権利と、感謝を求めない線」


 リディアは呟いた。


「そこを分ける必要がありますね」


「ああ」


 アルベルトは紙に短く書いた。


 支援成果報告は行う。感謝文の提出は求めない。


 明確な一文。


 リディアは、それを見て深く頷いた。


「この方針で、慈善局へ返します」


「王妃にも上げろ」


「王妃陛下へ?」


「この線は今後も必要になる。南区だけではない」


 確かにそうだ。


 北区でも、東区でも、これから似た話は出るだろう。


 灯火所の利用者から感謝の言葉を。

 渡り灯を使った人の話を。

 施療院へ行けた子どもの絵を。


 それらは、簡単に支援を盛り上げる。


 だからこそ、最初に線を引かなければならない。


「ありがとうございます」


 リディアが言うと、アルベルトはいつものように返した。


「受け取る」


 少し早い。


 リディアは思わず笑った。


「最近、先回りされています」


「学習した」


「旦那様も成長なさっているのですね」


 言った瞬間、アルベルトが少しだけ動きを止めた。


 リディアも、言ってから少し驚いた。


 こんな軽口を、自然に言えるようになっている。


 アルベルトはしばらく黙り、それから低く言った。


「君の影響だろう」


 胸が、ふわりと揺れた。


 リディアは頬が熱くなるのを感じ、照会文へ視線を戻した。


「……仕事に戻ります」


「ああ」


 その声が少しだけ柔らかかった。


 作業室へ戻ると、リディアは方針文を書き始めた。


 ――南区支援において、寄付者への成果報告は行う。

 ただし、孤児院の子どもたちに礼状・絵・感謝文の提出を求めない。

 支援を受けたことへの感謝を、制度として要求しないためである。

 成果報告は、院長および慈善局担当官の確認に基づき、修繕箇所、補修数、追加物資、運用状況を記す。

 子どもたちが自発的に作成した札・絵・言葉は、原則として院内に留める。外部へ示す場合は、本人と院長の同意を得た上で、個人が特定されない形とする。


 書いてから、少しだけ手が止まった。


 最後の一文は、やや実務的だ。

 だが必要だ。


 オスカーが文面を読み、頷いた。


「明確です」


「強すぎるでしょうか」


「いいえ。むしろ、このくらい明確でなければ、現場が迷います」


 エマも静かに言った。


「ありがとうは、言わされるものではございませんから」


 リディアは、その言葉に小さく頷いた。


「ええ」


 感謝を否定するわけではない。


 子どもたちが本当に何かを言いたいと思うなら、それを止める必要はない。

 だが、制度として求めない。寄付者の満足のために書かせない。


 その線を守る。


 午後には、この方針文が王宮慈善局と王妃へ送られた。


 返事は思いのほか早かった。


 王妃からの短い書面。


 ――妥当。

 この方針を冬季灯火網全体の原則案としなさい。

 善意の結果は記録する。感謝は徴収しない。


 最後の一文を読んだとき、リディアは思わず息を呑んだ。


 感謝は徴収しない。


 王妃らしい、強い言葉だった。


 オスカーも感心したように言った。


「これは効きますね」


「ええ」


 感謝を徴収する。


 確かに、それは避けるべきものだ。


 リディアは方針文の題を改めた。


 冬季灯火網 成果報告と感謝文に関する原則


 また一つ、制度の線が増えた。


 その日の夕方、南区第三孤児院から短い報告が届いた。


 棚の札は、今日の午後に「今日の枝」から「トムの石」に替わったらしい。

 毛布の補修は三枚完了。

 窓の仮補修後、寝室奥の風音が少し弱まった。

 子どもたちは、ありがとうの手紙ではなく、棚に置く札を作り続けている。


 リディアは、その報告を読んで微笑んだ。


 それでいい。


 ありがとうは、寄付者へ提出するために書かなくていい。

 彼らは彼らの場所で、自分たちの言葉を書けばいい。


 今日の枝。

 トムの石。

 冬の葉。

 宝物。


 そういう言葉が、あの棚に増えていくほうがずっといい。


 夜、温室でリディアは王妃の一文をもう一度思い返していた。


 善意の結果は記録する。

 感謝は徴収しない。


 短く、強い。


 それはリディア自身にも必要な言葉だった。


 父への感謝。

 家への感謝。

 王太子に選ばれていたことへの感謝。


 そうしたものを、彼女は長く求められてきた。


 けれど感謝は、徴収されるものではない。


 自然に湧くなら、大切にすればいい。

 湧かないなら、無理に差し出さなくていい。


 そのことを、今のリディアは少しずつ理解していた。


 温室の扉が開き、アルベルトが入ってきた。


「ここにいたか」


「はい」


「今日は泣くか?」


 第一声がそれだった。


 リディアは思わず目を丸くした。


「旦那様」


「確認だ」


「今日は泣きません」


「そうか」


「でも、少し胸がいっぱいです」


「それなら茶を飲め」


「なぜですか」


「落ち着く」


 あまりにも実務的で、リディアは笑ってしまった。


 アルベルトは少しだけ不思議そうに見る。


「何だ」


「いえ。旦那様らしいと思って」


「それで笑うのか」


「はい」


「そうか」


 彼は少しだけ視線を外した。


 その横顔を見て、リディアの胸はまた静かに温かくなる。


「旦那様」


「何だ」


「感謝は徴収しない、という王妃陛下のお言葉、とても強いですね」


「ああ」


「私は、その言葉に少し救われました」


 アルベルトは黙って聞いていた。


「感謝しなければならないと思っていたことが、たくさんあったのだと思います。父上にも、家にも、殿下にも」


「ああ」


「でも、感謝は求められて差し出すものではないのですね」


「そうだ」


「今、旦那様にありがとうと言うのは、私が言いたいからです」


 言ってから、少しだけ頬が熱くなる。


 アルベルトの目が、わずかに揺れた。


「……そうか」


「はい」


「なら、受け取る」


 リディアは微笑んだ。


「ありがとうございます」


「増えたな」


「言いたかったので」


 アルベルトは、低く息を吐いた。


 呆れたようで、どこか柔らかかった。


 リディアは温かい茶を手に取り、ブルースターを見た。


 南区の棚には、きっと今ごろ「トムの石」の札が置かれている。

 誰かに見せるためではなく、子どもたち自身のために。


 ありがとうを強制しない。


 その線を引けたことが、今日の小さな灯りだった。

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