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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第88話 繕う手は、与える手より目立たない

南区支援の基本表が正式に整ったのは、翌日の午前だった。


 机の上に置かれた表は、見た目だけなら簡素だった。


 残すもの。

 直すもの。

 新しくするもの。


 たった三つの欄。


 けれど、その三つに分けるまでに、リディアは何度も手を止めた。


 古い毛布は、子どもの希望と状態により残す。

 洗濯と補修に耐えるものは直す。

 破れや汚れがひどく、健康を損なう恐れのあるものは新しくする。


 窓枠は直す。

 床板は直す。

 隙間風を防ぐ簡易二重板は新しく足す。

 拾った枝や葉を置く棚は新しく作るが、子どもたちの拾ったものは残す。


 紙にすると、簡単に見える。


 だが、その一つ一つに現場の顔があった。


 南区第三孤児院のマリベル院長。

 窓が鳴ると教えてくれた男の子。

 青い花を見て「ここは寒いから枯れちゃうかも」と言った女の子。

 古い毛布を手放せない子どもたち。


 リディアは表の端に、短い一文を書き加えた。


 ――南区支援は、すべてを入れ替える支援ではない。眠れる夜を守るため、残すもの、直すもの、新しくするものを分ける。


 書いたあと、少しだけ息を吐く。


 また少し強い言葉になった。

 だが、必要な強さだった。


「奥様、ヴェルナー子爵夫人より先触れが届いております」


 ハロルドが入ってきた。


「本日午後、補修職人を伴って第三孤児院へ向かわれるとのことです。奥様にもご同行願えれば、と」


「今日?」


 思ったより早い。


 リディアはオスカーを見る。


 オスカーはすぐ予定表を確認した。


「午後は南区関連の作業に充てております。移動は可能です。ただし、奥様は昨日も温室で少し遅くまで記録を」


 言いかけて、彼は口を閉じた。


 リディアがじっと見たからだ。


「オスカー」


「いえ。旦那様ならそうおっしゃるかと」


「あなたまで先回りしなくても」


「屋敷全体の方針ですので」


 またそれだ。


 リディアは小さく笑ってしまった。


「では、休憩を取ってから向かいます」


「それなら問題ないかと」


 以前なら、休憩など不要だと言っただろう。


 今は、自分でもわかっている。


 南区へ行くなら、ただ立っているだけではない。見る。聞く。判断する。誰かの善意を受け取り、現場に合う形へ整える。


 それには体力が要る。


 午後、リディアは再び南区第三孤児院へ向かった。


 今回はセシリアも同行した。


 彼女は今日、前回より少し実務的な装いをしていた。淡い色の外套ではあるが、袖口は汚れにくい形で、手には図案帳ではなく、布や糸の色見本を挟んだ小さな板を持っている。


「セシリア様、その色見本は?」


「ヴェルナー子爵夫人が用意してくださった補修布の色です。毛布の縁に使う布を、子どもたちが怖がらない色にできればと思って」


「怖がらない色?」


「急に鮮やかな布で縁取ると、知らないものに見えてしまうかもしれません。元の毛布に近い色か、少しだけ明るい色がよいかと思いまして」


 リディアは、胸が少し温かくなった。


 セシリアも、もう“新しく綺麗にする”だけではなく、“馴染むように直す”ことを考えている。


「よい視点です」


 そう言うと、セシリアは頬を少し赤くした。


「ありがとうございます。昨日、リディア様が“古い毛布には眠れる匂いがある”とおっしゃったと聞いて……あ、オスカー様から伺いました」


 リディアはオスカーを見た。


 オスカーは馬車の隅で真面目な顔をしている。


「必要な共有かと」


「私の言葉がどんどん外へ出ている気がします」


「よい言葉でしたので」


 悪びれない。


 リディアは少し困ったが、嫌ではなかった。


 孤児院へ着くと、玄関前にヴェルナー子爵夫人と、彼女が連れてきた職人が待っていた。


 職人は五十代ほどの女性だった。名をベルタというらしい。手は大きく、指先には細かな傷がいくつもある。だが、その手つきには確かな安心感があった。


「宰相夫人、今日はよろしくお願いいたします」


 ヴェルナー子爵夫人は明るく礼をした。


 昨日の勢いのある善意とは違い、今日は少し落ち着いて見えた。自分の支援をどう現場に合わせるか、考えてきたのだろう。


「こちらこそ。急なお申し出、ありがとうございます」


「善意は早すぎても遅すぎても困る、と昨日父に言われましたわ」


 子爵夫人は苦笑した。


「ですから今日は、まず見ることにいたしました。全員分の新毛布を押し込むのではなく」


 その言葉に、リディアは微笑んだ。


「ありがとうございます」


 マリベル院長は、今日も背筋を伸ばして出迎えた。


 だが昨日より、ほんの少し警戒が薄い。


「本日は、補修の確認と伺っています」


「はい。新しい毛布を持ち込む前に、残せるもの、直せるもの、入れ替えるものを分けたいのです」


 リディアが答えると、院長は深く頷いた。


「それなら、世話係にも同席させます。毛布のことは、私より彼女たちのほうがよく知っていますから」


 その言葉が嬉しかった。


 院長が、現場の世話係の知識を前に出してくれたからだ。


 やがて、小柄な世話係の女性が二人やって来た。どちらも少し緊張している。貴族たちの前で意見を求められることなど、あまりないのだろう。


 リディアは椅子へ座らず、机の脇に立ったまま言った。


「今日は、毛布をすべて新しくするためではなく、子どもたちが安心して眠れる形を決めるために来ました。普段の様子をご存じの方の意見が必要です。どうか、遠慮なく教えてください」


 世話係の一人が、小さく息を呑んだ。


 それから、恐る恐る頷く。


「……わかりました」


 毛布は、別室に数枚ずつ運ばれてきた。


 子どもたちを並ばせることはしない。

 毛布だけを、院長と世話係が選んで持ってくる。


 最初の一枚は、薄茶色の古い毛布だった。端は擦り切れ、中央には何度か繕った跡がある。


 ヴェルナー子爵夫人が、思わず言った。


「これは、かなり古いですわね」


 世話係の女性が、少し身を固くする。


 リディアはすぐに尋ねた。


「誰が使っているものですか。名前は必要ありません。様子だけで」


 世話係は、ほっとしたように答えた。


「八歳の男の子です。夜中に起きやすい子で……この端を握っていると眠れるようです」


 ベルタ職人が毛布を手に取り、端を確かめた。


「縁だけ補強すれば、まだ使えます。洗うなら強く擦らないほうがいいですね。生地が薄い」


「新しい毛布を足すなら?」


 リディアが尋ねる。


 世話係が少し考えた。


「今の毛布を上にして、その下に新しいものを入れるなら大丈夫かもしれません。上に見知らぬものがあると嫌がると思います」


 ヴェルナー子爵夫人が、目を丸くした。


「上に古いもの、下に新しいもの……そういう使い方もあるのですね」


「あります」


 世話係は少しだけ自信を持った声になった。


「子どもによって、上が大事な子と、抱える布が大事な子と、匂いが大事な子がいます」


 セシリアが、すぐに書き留める。


 上が大事。

 抱える布が大事。

 匂いが大事。


 その分類は、どんな帳簿にも載っていなかった。


 けれど、現場ではとても大切な知識だった。


 次の毛布は、赤茶色で、穴が大きく開いていた。


 ベルタが顔をしかめる。


「これは……本体が弱っています。補修してもすぐ破れますね」


 世話係が悲しそうに言った。


「その子は、これにくるまらないと泣くのです」


 部屋の空気が少し重くなる。


 新しいものへ替える必要がある。

 だが、本人が手放せない。


 こういうときが、一番難しい。


 ベルタはしばらく考え、毛布の端を指で摘んだ。


「全部を残すのは無理です。でも、この端のまだ丈夫な部分を切り取って、新しい毛布の一部に縫い込むことはできます」


 世話係が顔を上げた。


「そんなことが?」


「ええ。小さな布として残す。端を握る子なら、その部分を持てるように縫います。見た目は少し不格好ですが」


「見た目より、その子が眠れることが大事です」


 リディアが言った。


 ヴェルナー子爵夫人は、何度も頷いていた。


「ベルタ、そういう補修を何枚かお願いできる?」


「できます。ただし、時間はかかりますよ」


「時間がかかる支援も、今回は必要ですわ」


 夫人の声は、昨日よりずっと落ち着いていた。


 リディアはそれを聞き、胸が温かくなった。


 善意が、現場の形に合わせて変わっていく。


 それは、とても静かな変化だった。


 何枚かの毛布を確認したあと、世話係の一人が少し迷ったように言った。


「奥様。子どもを一人だけ呼んでもよろしいでしょうか」


 院長が眉をひそめる。


「見世物にはしません」


 世話係は慌てて首を振った。


「違います。あの子の毛布は、本人に聞かないとわからないのです。私たちが勝手に判断すると、たぶん怒ります」


 リディアは少し考えた。


 子どもを呼ぶ。


 それは慎重に扱うべきことだ。


 だが、本人の意思を聞く必要があるなら、呼ばないこともまた一方的かもしれない。


「本人が嫌がらないなら」


 リディアは言った。


「それから、私たちは質問を一つか二つだけにします。長く立たせません。名前も記録しません」


 院長は少し考え、頷いた。


「それなら」


 呼ばれてきたのは、昨日青い花を珍しそうに見ていた女の子だった。


 彼女はリディアを見ると、少しだけ目を輝かせた。


「青い花のお姉さんだ」


 リディアは思わず微笑んだ。


「昨日は教えてくれてありがとう」


 女の子は照れたように首をすくめる。


 世話係が、古い灰色の毛布を持ってきた。


「この毛布、直したいのだけれど、どこが一番大事?」


 女の子はすぐに毛布の角を指さした。


「ここ」


「角?」


「ここ、顔に当てると寝られる」


 部屋にいた大人たちは、誰も笑わなかった。


 ベルタが真剣に角を確認する。


「ここは残しましょう。周りを新しい布で囲って、ほつれないようにします」


 女の子はベルタを見た。


「なくならない?」


「なくさないよ」


 ベルタは低く優しい声で言った。


「ただ、破れないように少し布を足す。持っても変じゃないようにする」


「じゃあ、いい」


 女の子はそれだけ言って、少し安心したように息を吐いた。


 リディアの胸が詰まった。


 じゃあ、いい。


 その一言のために、今日ここへ来たのかもしれない。


 新しい毛布を配るだけなら、この角は消えていた。

 けれど、角を残すと決めたことで、その子は安心した。


 子どもが戻ったあと、セシリアが小さく呟いた。


「毛布にも、花の根のようなものがあるのですね」


 リディアは彼女を見た。


「根?」


「はい。見た目には古くても、その子が眠るために必要な根のような場所があるのだと思いました。そこを切ってしまうと、花が枯れてしまうみたいに」


 リディアは少しだけ目を見開き、それから静かに微笑んだ。


「その言葉、よいですね」


「え?」


「でも、小冊子には書きません」


 セシリアは一瞬きょとんとし、それから笑った。


「はい。書かないほうがいいと思います」


 二人の間で、言葉にしなくてもわかる線ができていた。


 美しい表現は、時に人を飾ってしまう。

 だから、記録には別の形で残す。


 毛布補修方針。

 本人希望確認。

 重要部分保存。

 新布併用。


 それでいい。


 補修確認が終わるころ、ヴェルナー子爵夫人はすっかり仕事の顔になっていた。


「ベルタ、必要な布地と糸の量を出してちょうだい。新しい毛布は全員分ではなく、入れ替え分と下に重ねる分。色は……あまり明るすぎないほうがいいわね」


「そうですね。生成りと薄茶、灰色を中心に。少しだけ淡い青も入れましょうか」


「青?」


 ベルタがリディアの髪飾りを見る。


「昨日、青い花を気に入った子がいるなら。少しだけなら」


 リディアは、胸が温かくなった。


「本人が望むなら」


 そう言うと、ベルタは笑った。


「もちろんです。勝手には入れませんよ」


 その言葉が嬉しかった。


 勝手にしない。


 それが、この支援の大事なところだった。


 孤児院を出る前に、マリベル院長が深く礼をした。


「今日は、ありがとうございました」


「こちらこそ。多くを教えていただきました」


「古い毛布を残したいと言うと、いつも少し困った顔をされました」


 院長は静かに言った。


「でも今日は、初めて“どこを残すか”と聞かれました」


 リディアは、すぐには言葉を返せなかった。


 どこを残すか。


 それは、南区だけではない。


 人にも、きっと同じ問いが必要なのだ。


「これからは、そう聞きます」


 リディアは言った。


「何を捨てるかではなく、何を残すかも」


 院長は静かに頷いた。


 宰相家へ戻るころには、空は夕暮れに染まり始めていた。


 リディアは少し疲れていた。


 だが、嫌な疲れではない。


 馬車の中で、セシリアがぽつりと言った。


「今日は、花のことをしていないのに、花の仕事をした気がします」


「ええ」


 リディアは頷いた。


「根を残す仕事でしたね」


 セシリアは少し照れたように笑った。


「それは小冊子には書かない言葉です」


「はい。でも、私たちは覚えていましょう」


「はい」


 その約束は、小さかった。


 けれど大切だった。


 夜、リディアはアルベルトへ報告した。


 古い毛布の補修方針。

 重要部分を残して新布へ縫い込む案。

 本人に確認する手順。

 ヴェルナー子爵夫人の支援内容変更。

 セシリアの気づき。


 アルベルトは最後まで聞き、静かに言った。


「いい現場だったな」


 リディアは少し驚いた。


「旦那様が“いい現場”とおっしゃるのは珍しいですね」


「必要な判断が現場から出た。君たちはそれを潰さなかった」


「はい」


「それができるなら、南区は進む」


 その言葉に、リディアは深く息を吐いた。


 ほっとした。


 思っていた以上に。


「疲れたか」


「はい」


「休め」


「今日は素直に休みます」


 アルベルトは一瞬だけ眉を上げた。


「本当に成長したな」


「そこまで驚かれると複雑です」


「褒めている」


「はい。わかっています」


 温室へ行くと、ブルースターが静かに咲いていた。


 リディアは長椅子に座り、手袋を外した自分の手を見た。


 今日は毛布に触れた。

 古い布の手触りを知った。

 子どもが大切にしている角を見た。


 古い毛布には、眠れる匂いが残っている。


 その言葉は、正式な報告には書かない。


 けれど、リディアの中には残る。


 捨てないでよいものがある。

 直して使えるものがある。

 新しく足せば、もっと守れるものがある。


 南区の毛布は、それを教えてくれた。


 リディアは目を閉じ、静かに息を吐いた。


 今夜は、泣かずに眠れそうだった。


 ただ、少しだけ胸の奥が温かかった。

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