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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第58話 セシリアは初めて、自分が選ばれた理由を疑う

 セシリアは、王太子エドワードの部屋で出された茶が、いつもより少し冷めるのが早いように感じた。


 実際には、室温も茶器もいつもと変わらなかったのだと思う。

 王宮の侍女たちが用意するものに、不備などあるはずがない。銀の茶器は磨かれ、茶葉は上等で、添えられた焼き菓子も可愛らしい花の形をしている。


 けれど、向かいに座るエドワードの表情がいつもと違うだけで、部屋全体が少し冷えたように思えた。


「これをありがとう」


 彼は、机の上に置かれた花飾りへ視線を落として言った。


 セシリアは一瞬、胸がふわりと明るくなるのを感じた。


「お気づきくださったのですね」


「ああ」


 返事は短い。


 でも、礼を言われた。

 それだけで、ここ数日の不安が少し和らぐ気がした。


 彼が自分を見てくれた。

 自分が選んだ花に、気づいてくれた。


 以前なら、それで十分だった。


 けれど今日は、その短いやり取りのあとに続く沈黙が、セシリアには怖かった。


 エドワードは花飾りを見たまま、すぐに微笑まない。いつものように「君らしいな」と言ってくれない。疲れた顔で額を押さえることも、冗談めかして「王宮の書類よりこちらのほうがよほど目に優しい」と軽く笑うこともない。


 ただ、何かを考えている。


 それも、彼女ではない誰かのことを。


 セシリアは、その誰かの名を知っていた。


 言わなくてもわかる。

 この王宮では最近、どこへ行ってもその名が聞こえてくるからだ。


 リディア・グランディス。


 かつてのリディア・フォルセイン。


 王太子妃候補だった人。

 自分が、結果としてその場所から追い出す形になった人。


「殿下」


 セシリアは、できるだけ明るい声を作った。


「今日の会議、とてもお疲れだったのではありません? お顔が少し怖いですわ」


 そう言えば、以前のエドワードなら少し困ったように笑った。


 そして言ってくれた。


 ――君は本当に、そういうところを隠さないな。

 ――リディアとは違う。君といると息ができる。


 その言葉が好きだった。


 セシリアは、何度もその言葉に救われた。


 リディアのように完璧でなくてもいい。

 あの人のように美しく、正しく、何でも先回りできなくてもいい。

 自分は自分のままで、殿下に選ばれたのだ。


 そう信じられたから。


 だが今日のエドワードは、すぐに笑わなかった。


「……怖い顔をしていたか」


「はい。少しだけ」


「そうか」


 それだけ。


 会話がそこで落ちてしまう。


 セシリアは、手元の茶杯へ視線を落とした。香りのよい茶が揺れている。普段なら、沈黙を埋めるために庭園の花の話でも、音楽会の話でもしただろう。彼女にはそれができた。場を明るくすることなら、得意だった。


 けれど今日、その明るさをどこへ置けばいいのかわからなかった。


「殿下は……」


 言いかけて、少し迷う。


 聞いてはいけない気がした。


 でも、聞かなければこのまま胸の中で膨らんで、きっともっと苦しくなる。


「リディア様のことを、考えていらしたのですか」


 言った瞬間、部屋の空気が静かになった。


 エドワードはすぐには答えなかった。


 それが答えのようなものだった。


 セシリアの胸の奥が、ぎゅっと縮む。


 やっぱり。


 そう思った。


 彼は最近、リディアの名が出るたびに顔を変える。

 怒っているようにも、後悔しているようにも、何かを飲み込んでいるようにも見える。


 自分といるときでさえ、ふと遠くを見る。


 その視線の先に、自分はいない。


「……会議で、彼女の案が出た」


 エドワードは低く言った。


「東区の渡り灯についてだ」


「渡り灯……」


 セシリアは、その言葉を繰り返した。


 聞いたことはある。

 最近、貴婦人たちの茶会でも話題になっている。北区の冬の灯火所と、東区の渡り灯。どちらも宰相夫人が関わっている、新しい冬季支援。


 すごい、と皆が言う。

 あのリディア様らしい、と誰かが言う。

 王妃陛下も高く評価しているらしい、と囁かれる。


 そのたびに、セシリアは笑って聞いていた。


 すごいですわね。

 さすがですわね。

 王都のためになりますわね。


 そう言うしかなかった。


 でも本当は、胸の中に小さな棘が刺さっていた。


 リディアは、去ったのではなかったのか。


 王太子の隣から消え、宰相家へ嫁いだ。

 ならもう、この王宮で自分と比べられることはないと思っていた。


 なのに、違った。


 彼女は今、もっと別の形で王宮に戻ってきている。


 誰かの婚約者としてではなく、誰かに選ばれる令嬢としてでもなく、仕事をする人として。


 それが、セシリアにはひどく眩しかった。


「リディア様は、本当にお優秀なのですね」


 自分でも驚くほど小さな声だった。


 エドワードは彼女を見た。


「……そうだな」


 短い肯定。


 それだけで、セシリアの胸は痛んだ。


 否定してほしかったわけではない。

 でも、そんなふうに素直に認められると、どこへ気持ちを置けばいいのかわからなくなる。


「以前は」


 セシリアは笑おうとした。


 うまく笑えなかった。


「殿下は、あの方といると息が詰まると仰いました」


 エドワードの顔が、わずかに強張る。


 言ってはいけないことだったのかもしれない。

 けれど、もう止められなかった。


「私は、その言葉が嬉しかったのです。悪いことだとは思います。でも……嬉しかった」


 セシリアは茶杯を置いた。


 指先が少し震えそうで、持っていられなかった。


「あの方のようになれなくても、私は私でよいのだと思えました。殿下が私を選んでくださったのは、私があの方と違うからなのだと」


 それは彼女の誇りだった。


 いや、誇りにしようとしていたものだった。


 完璧なリディアではなく、素直で明るい自分。

 正しすぎる令嬢ではなく、少しわがままでも感情が見える自分。

 王宮の堅苦しさの中で、エドワードを笑わせられる自分。


 だから選ばれたのだ、と。


 けれど最近、わからなくなってきた。


 彼が選んだのは、本当にセシリアだったのだろうか。


 それとも、ただリディアではない誰かだったのだろうか。


「セシリア」


 エドワードが名前を呼んだ。


 その声には、いつもの軽さがなかった。


「私は……君を傷つけるつもりはなかった」


 セシリアは少し笑った。


 今度の笑みは、たぶんかなり歪んでいた。


「そういうお言葉は、傷ついたあとに聞くと、少し遅いですわ」


 言ったあと、自分で驚く。


 こんな言い方を、殿下にしたことはなかった。


 いつもなら、すぐ取り繕った。

 困らせたくなかった。

 可愛いと思われたかった。


 けれど今は、胸の奥にあった不安が少しだけ怒りに変わっていた。


 エドワードは怒らなかった。


 ただ、深く息を吐いた。


「……その通りだ」


 認められると、セシリアはかえって困った。


 責め返されたほうが、まだ楽だったかもしれない。

 わがままだと言われれば、泣いて謝ることもできた。


 でも彼は、受け止めた。


 それが、今の彼の変化なのだろう。


 そしてその変化のきっかけも、きっとリディアなのだ。


 また胸が痛む。


「殿下は、リディア様をお好きだったのですか」


 問いは、あまりに唐突だった。


 自分でも、なぜ今そんなことを聞いたのかわからない。


 エドワードも答えに詰まった。


 しばらく沈黙したあと、彼は低く言った。


「わからない」


「わからない?」


「私は、彼女を好きだったのかもしれない。必要としていたのかもしれない。ただ、何も見ていなかったのかもしれない」


 曖昧な答えだった。


 でも、嘘ではないと思った。


 だから余計に苦しかった。


「では、私は?」


 セシリアは尋ねた。


「殿下は、私を好きだったのですか。それとも、リディア様ではないから選ばれたのですか」


 エドワードの目が揺れた。


 その一瞬で、セシリアは答えを半分知ってしまった。


 ああ、やっぱり。


 自分は、彼が息をするための場所だったのだ。

 リディアの正しさから逃げるための、柔らかな逃げ道だったのだ。


 もちろん、そこに好意がなかったわけではないのだろう。

 エドワードは本当に自分の明るさを好んでくれた。自分の笑顔に救われた夜もあったのだと思う。


 でもそれは、セシリアという人間そのものを見ていたのとは少し違う。


 自分の軽やかさ。

 自分の素直さ。

 自分の甘え方。

 そういう“役割”を愛していたのではないか。


 そのことに気づいた瞬間、セシリアは泣きたくなった。


 でも、涙は出なかった。


 リディアはこんなとき、どうしていたのだろう。

 きっと泣かなかったのだろう。

 静かに礼をして、顔色ひとつ変えずに部屋を出ていくのだろう。


 そう考えて、セシリアは自分に腹が立った。


 なぜ今まで、自分はあの人をただの“冷たい令嬢”だと思っていたのだろう。


 泣かなかったのではない。

 泣けないようにされていたのかもしれないのに。


「セシリア」


 エドワードの声がした。


「私は、君に甘えていたのだと思う」


 セシリアは顔を上げた。


「甘えていた?」


「ああ。君といれば楽だった。笑ってくれる。怒っても、すぐ機嫌を直してくれる。私を責めない。王宮の重さを忘れさせてくれる」


「それは……悪いことなのですか」


「悪くはない」


 エドワードは少しだけ苦しげに言った。


「だが、それだけを君に求めたなら、それは間違いだ」


 セシリアは唇を結んだ。


 胸の中で、何かが小さく崩れる音がした気がした。


 私は、楽な女だったのだろうか。


 王太子を笑わせ、慰め、明るく振る舞う女。

 難しいことは言わず、書類の不備にも気づかず、ただ花を持っていく女。


 それが可愛いと言われた。

 それが愛される理由だと思っていた。


 でも今は、その“可愛さ”が急に薄っぺらく見える。


「リディア様なら」


 気づけば、そう言っていた。


「殿下のお仕事を支えられたのでしょうね」


 エドワードは答えなかった。


 答えないことが、答えだった。


 セシリアは胸の奥が冷たくなるのを感じた。


「私は、できません」


「セシリア」


「できませんわ。席次表も、慈善事業の帳簿も、渡り灯の仕組みも、私にはわかりません。雨に強い灯具が必要だなんて、考えたこともありませんでした」


 言葉が止まらない。


「私は、殿下にお花を持ってくることしかできません」


「それが無価値だとは言っていない」


「でも、足りません」


 はっきり言った。


 自分で言って、胸が痛んだ。


 足りない。


 その言葉は、ずっと認めたくなかったものだった。


 リディアがいなくなれば、自分が選ばれた女になると思っていた。

 王太子の隣で笑い、愛され、やがて周囲も自分を認めるのだと。


 でも現実は違った。


 王宮は、笑顔だけでは回らない。

 王太子の隣には、愛らしさだけでは足りない場面がいくつもある。

 そしてリディアが担っていたものは、彼女がいなくなって初めて、輪郭を持ち始めていた。


「私は……自分が、何を奪ったのかもわかっていませんでした」


 セシリアは、小さく言った。


 エドワードが息を呑む。


「奪った、という言い方は」


「いいえ。結果として、そうです」


 セシリアは顔を上げた。


「私、あの方が冷たいから殿下に愛されなかったのだと思っていました。完璧すぎるから、可愛げがないから、だから私が選ばれたのだと。そう思わなければ……怖かったのです」


 本当は、ずっと怖かった。


 リディアの美しさが。

 完璧さが。

 王妃に認められていたことが。

 王宮の誰もが“本来なら彼女が王太子妃になるはずだった”と知っていることが。


 だから、見下すことで安心していた。


 あの人は冷たい。

 あの人は愛されない。

 自分は愛される。


 そう思わなければ、立っていられなかった。


「でも、冷たかったのではないのかもしれませんね」


 セシリアの声が少し震えた。


「ずっと、寒い場所に立たされていただけなのかもしれません」


 エドワードは目を伏せた。


 その沈黙は、痛いほど重かった。


 しばらく二人とも何も言わなかった。


 暖炉の火が小さく爆ぜる。

 机の上の花飾りが、少し萎れ始めていた。


 やがて、エドワードが言った。


「君を、リディアと比べるべきではなかった」


「……比べていらしたのですね」


 問いではなかった。


 エドワードは逃げなかった。


「ああ。最近は特に」


 正直すぎる答えに、セシリアの胸はまた痛んだ。


「ひどいですわ」


「そうだ」


「殿下は、本当に不器用です」


「……返す言葉もない」


 以前なら、ここでセシリアは笑って許したかもしれない。


 でも今日は、笑えなかった。


「私は、どうすればいいのでしょう」


 初めて、本音がこぼれた。


「リディア様のようにはなれません。でも、ただ笑っているだけの女にも、もう戻れない気がします」


 エドワードは彼女を見た。


 その目には、以前のような甘さだけではないものがあった。罪悪感と、戸惑いと、少しの敬意のようなもの。


「君は、君自身を知る必要があるのだと思う」


「私自身?」


「ああ。私を楽にするためでも、リディアの代わりでもなく」


 セシリアはその言葉を、すぐには受け取れなかった。


 私自身。


 その響きは、思ったより空っぽだった。


 自分は何ができるのだろう。

 何をしたいのだろう。

 王太子に愛されること以外に、自分を支えるものがあるのだろうか。


 わからなかった。


 わからないことが、怖かった。


「……少し、考えたいです」


 セシリアは立ち上がった。


 エドワードも立ち上がる。


「送ろう」


「いいえ」


 思ったよりはっきり断れた。


 エドワードが動きを止める。


「今日は、一人で戻ります」


「セシリア」


「大丈夫です。……いえ、大丈夫ではないかもしれません。でも、一人で戻りたいのです」


 そう言うと、エドワードは何も言わなかった。


 ただ、ゆっくり頷いた。


「わかった」


 セシリアは礼をして、部屋を出た。


 廊下へ出ると、王宮の空気はいつも通り冷たかった。磨かれた床に、自分の靴音が小さく響く。


 いつもなら侍女を呼び、誰かに寄り添ってもらったかもしれない。

 今日は、それをしなかった。


 一人で歩きたかった。


 歩きながら、セシリアは窓の外を見た。


 庭園の向こう、王宮の屋根の先には、冬の王都が広がっている。どこかで北区の灯火所が夜を待ち、東区の橋にはこれから渡り灯が置かれるのだろう。


 リディアは、そこに自分の仕事を持っている。


 それが羨ましかった。


 恋敵だからではなく。

 負けた気がするからでもなく。


 自分の足で立てる場所を、彼女が見つけ始めているように見えたから。


「私は……」


 セシリアは小さく呟いた。


 私は、どこに立てばいいのだろう。


 答えはまだない。


 けれど、初めてその問いを持った。


 それだけで、彼女の中の何かが、少しだけ変わり始めていた。

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