第45話 小さな名前が並んだ一覧表は、噂よりもずっと強かった
支援家一覧の試案を慈善婦人会へ回した翌日、作業室には朝から封書が届き続けた。
最初の一通を開けたとき、リディアは少し身構えていた。
昨日の噂は、確かに耳に入っている。
宰相夫人は冷たい。
人の厚意を受け取るのが下手。
慈善事業を自分の手柄にしたがっている。
そんな囁きが王都の奥方たちの間に流れていると聞いて、傷つかなかったわけではない。
けれど、支援家一覧を回したあとの反応は、思っていたものと少し違っていた。
「奥様、こちらはミルナー子爵夫人からです」
オスカーが封書を読み上げる。
「“我が家の支援は薪二日分のみで、一覧に載せるには小さいかと恥じておりましたが、何を支えるかが明記されるなら、灯火守り一日分も追加いたします”とのことです」
リディアは手を止めた。
「灯火守り一日分を?」
「はい」
オスカーは少し笑った。
「子爵夫人は、金額の大きさで並べられるなら参加しづらかったのでしょうね。でも、“何を支えたか”なら小さくても意味がある」
リディアは、机の上の一覧表へ目を落とした。
そこには、大貴族の名も、中規模の貴族の名も、同じ形式で並んでいる。
薪二十日分。
薬湯材料費。
巡回医支援二回分。
灯火守り一日分。
馬車待機費一回分。
金額の大小はある。けれど、どれも灯火所を動かす一部だった。
たった一日分の夜番費でも、その夜に誰かが扉を開けられる。
たった二日分の薪でも、その二晩は炉を絶やさずに済む。
そう思うと、小さな支援が本当に小さくは見えなかった。
「載せましょう」
リディアは言った。
「ミルナー子爵家――薪二日分、灯火守り一日分。そう記してください」
「承知しました」
次の封書は、さらに意外だった。
ファーネル侯爵夫人からだった。
リディアは封蝋を見た瞬間、胸の奥に少し緊張が走るのを感じた。昨日の返書で、こちらははっきり線を引いた。噂も流れた。次に来るのは不満か、あるいは遠回しな嫌味だと思っていた。
だが、文面は短かった。
――支援家一覧、拝見いたしました。
我が家の支援内容が明確に記されており、これならば誰の目にも役割が伝わりましょう。
物資確認の補助について、侍女二名を差し向けます。進行には関与いたしません。
冬の灯火が、北区の方々の助けとなることを願っております。
リディアは数秒、何も言えなかった。
オスカーが恐る恐る尋ねる。
「……どうでしたか」
「受け入れてくださいました」
「本当に?」
「ええ。進行には関与しない、と明記されています」
オスカーは目を丸くしたあと、少しだけ肩の力を抜いた。
「奥様、勝ちましたね」
「勝ち負けではないわ」
リディアは反射的にそう言ってから、少しだけ考え直した。
「……でも、守れたのだと思う」
灯火所の名前も、目的も、主導権も。
誰か一人の舞台にされずに済んだ。
そのことに、胸の奥で静かな安堵が広がっていく。
エマが茶を置きながら、穏やかに言った。
「奥様が、最初に形を崩さなかったからかと」
「そうかしら」
「はい。あいまいに譲っていれば、あとから戻すのは難しかったと思います」
リディアは手元の封書を見つめた。
あいまいに譲らない。
それは、彼女にとってまだ簡単なことではない。相手に悪く思われるかもしれない。冷たいと言われるかもしれない。そう思うと、今でも胸のどこかが縮む。
けれど今回は、譲らなかった。
そして、灯火所は守られた。
それだけは確かだった。
午後には、王宮慈善局からも正式な承認が届いた。
北区職人組合所を冬季救護中継所として使用すること。
王宮慈善局が医師と看護人の手配を行うこと。
宰相家が初期調整を担うこと。
慈善婦人会が薪、薬湯材料、夜番費、搬送馬車待機費を支援すること。
そして、事業名。
冬の灯火所
その文字を見た瞬間、リディアは小さく息を止めた。
自分が口にした名前が、王宮の正式な文書に載っている。
提案者の欄には、こう記されていた。
――宰相夫人リディア・グランディス。
何度見ても、まだ少し怖い。
けれど、もう目を逸らしたいとは思わなかった。
「奥様」
ハロルドが静かに言った。
「こちらの文書は、控えとして保管いたしますか」
「ええ。作業室に写しを。原本は旦那様にも確認していただいて」
「かしこまりました」
ハロルドが下がろうとしたとき、リディアはふと思い出して声をかけた。
「それと、ニコの家の件はどうなりましたか」
「医師の報告では、母君は回復に向かっているとのことです。薬湯と食料を届けております」
「そう……よかった」
心からそう思った。
北区の大きな仕組みを作っている一方で、彼女の中にはずっとあの少年の声が残っていた。
遠い。坂、上れない。
その一言が、“冬の灯火所”をただの事業案ではなく、今すぐ必要な場所にしていた。
夕刻、アルベルトが作業室へ来た。
彼は王宮慈善局からの承認書を読み、支援家一覧の更新版にも目を通した。
「ファーネル夫人は引いたか」
「はい。物資確認の補助だけを受けてくださるそうです」
「思ったより早かったな」
「支援家一覧が効いたのだと思います」
「だろうな」
アルベルトは一覧を机に置く。
「名誉を消したわけではない。名誉の置き場所を変えた。それがよかった」
「置き場所?」
「誰がどれだけ目立つかではなく、誰が何を支えたか。そこへ変えた」
リディアはその言葉をゆっくり受け止めた。
名誉を否定したわけではない。
貴婦人たちの見栄も、家の面子も、完全には消せない。
なら、それを現場へ役立つ形に変える。
確かに、今回自分がしたのはそういうことだったのかもしれない。
「旦那様」
「何だ」
「少しだけ、わかった気がします」
「何を」
「綺麗ではないものを、無理に綺麗だと思わなくてもいいのですね」
アルベルトは黙って続きを待った。
「見栄も、名誉欲も、値札のついた善意も、なくならない。でも、だから全部駄目だと切り捨てたら、薪も薬湯も集まらない。なら、目的から外れないように形を整えればいい」
リディアは支援家一覧へ視線を落とした。
「そうすれば、綺麗ではなくても、誰かの役に立つものになる」
言ってから、少しだけ不安になる。
冷たすぎる考えだろうか。
慈善を語るには、現実的すぎるだろうか。
けれどアルベルトは、短く言った。
「よく見えている」
その一言で、不安が少しほどけた。
「ありがとうございます」
「王妃にもそのまま報告しろ」
「このまま?」
「飾るな。そのままでいい」
そのままでいい。
最近、その言葉がリディアの中で少しずつ重みを変えている。
昔は、そのままの自分では駄目だと思っていた。もっと整えて、もっと正しく、もっと役に立つ形にしなければならないと。
けれど今は、そのまま見たもの、そのまま考えたことを、仕事へ変えられることがあるのだと知り始めている。
夜になって、作業室の壁に新しい紙が貼られた。
南区第二孤児院の絵の隣。
そこに、支援家一覧の写しと、冬の灯火所の開所準備表が並んだ。
絵の中の子どもたちは、湯気の立つ鍋を囲んで笑っている。
その隣に並んだ紙には、薪、薬湯、夜番、馬車、寝台、巡回医の文字がある。
リディアは二つを見比べた。
絵は温かい。
一覧は無骨だ。
けれど、どちらも同じ場所へつながっている。
「奥様」
エマが後ろから声をかける。
「今日はもう、お休みになられては」
「そうね」
リディアは素直に頷いた。
以前なら、もう少しだけと言って机に戻ったかもしれない。けれど今は、少しだけわかっている。
続けるためには、止まることも必要なのだ。
「明日は組合所の修繕確認ですね」
オスカーが言う。
「ええ。床板と窓枠、それから炉の掃除」
「あと、看板の文字も決めなければ」
「看板……」
リディアは少しだけ表情を緩めた。
「冬の灯火所、と大きく書くのね」
「はい。提案者名も小さく入れるそうです」
「それは……小さくでいいわ」
オスカーが笑った。
「旦那様なら、消すなとおっしゃいますよ」
「わかっているわ」
リディアも少し笑った。
怖さはまだある。
自分の名前が表に出ること。
噂が増えること。
失敗する可能性。
けれど、その怖さを抱えたままでも、進めることがわかってきた。
その夜、リディアは寝る前に温室へ寄った。
短い時間だけだった。
ブルースターの前に立ち、薄い青の花を見つめる。
母がかつて、空の欠片みたいだと言った花。
今のリディアには、それが少し違って見えた。
空の欠片ではなく、小さな灯のようにも見える。
寒い場所へ届けるには弱すぎるけれど、それでも消えずに咲いている、淡い灯。
背後で扉が開く。
振り返ると、アルベルトが立っていた。
「またここか」
「はい。少しだけ」
「疲れたか」
「疲れました。でも、悪い疲れではありません」
そう答えると、アルベルトは短く頷いた。
「ならいい」
リディアは花へ視線を戻す。
「灯火所、うまくいくでしょうか」
「準備次第だ」
「夢のない答えですね」
「夢だけでは炉に火は入らん」
あまりにも彼らしい返しに、リディアは笑ってしまった。
「確かに」
笑ったあと、胸の奥が少し温かくなる。
「でも、夢がなければ、あの場所に名前はつかなかったかもしれません」
アルベルトは少しだけ沈黙した。
それから、静かに言う。
「それも事実だな」
珍しく、彼がそう認めた。
リディアは少し嬉しくなった。
現実だけでは、人は動かない。
夢だけでは、仕組みは動かない。
その間に橋を架けること。
たぶん今、自分がしている仕事はそれなのだ。
リディアはブルースターを見つめながら、小さく息を吐いた。
明日も、やることは多い。
けれど今夜は、よく眠れそうな気がした。




