第111話 妹は、自分の道をまだ選べない
リディアからの手紙を読んだあと、エレノアはしばらく動けなかった。
机の上には、白い便箋。
そこに書かれていた言葉が、何度も胸の中で繰り返される。
――こちらでも行けます。
西区の夜道に立てられた案内札の言葉。
大通りだけではない。
裏道だけでもない。
手灯りが出ている時刻なら、別の道も使える。
施療院へ向かう人のために作られた言葉だと、手紙には書いてあった。
けれどエレノアには、その言葉が自分の胸元に置かれた札のように思えた。
こちらでも行けます。
そう言われたら、どれほど楽だろう。
けれど、自分にはまだ、その札が見えない。
エレノアは便箋を畳まず、机に置いたまま、視線を落とした。
机の端には、自分で作り始めた小さな表がある。
望むこと
嫌なこと
まだわからないこと
リディアの助言を受けて書き始めたものだ。
けれど、まだほとんど埋まっていない。
嫌なことだけは、少し書けた。
家の都合だけで決められるのは嫌。
相手の顔も知らないまま頷くのは嫌。
父上の命令だからと、自分の言葉を飲み込むのは嫌。
しかし、望むことは難しかった。
どんな相手がいいのか。
どんな暮らしがしたいのか。
そもそも、自分は結婚をどう考えているのか。
何もわからない。
わからない、と書くことはできるようになった。
でも、わからないままでいいわけではない。
父から与えられた一月は、永遠ではなかった。
考える時間は、いつか終わる。
そのとき、自分は何を言えばいいのだろう。
扉の外で、侍女が控えめに声をかけた。
「エレノア様。奥様がお呼びでございます」
「母上が?」
「はい。応接室へとのことです」
エレノアは胸の奥が少し冷たくなるのを感じた。
応接室。
母だけなら、茶の間でよいはずだ。
応接室に呼ばれるということは、誰か客が来ている。
「父上も?」
「旦那様は後ほどお越しになると伺っております」
侍女の声はいつも通りだった。
けれど、その“後ほど”が怖い。
エレノアはリディアの手紙をそっと引き出しへしまい、自分の表だけを手に取った。
持っていくか迷った。
父に見せるためではない。
ただ、心細かった。
紙一枚でも、自分の言葉がそこにあると思えるだけで、少し息ができる気がした。
エレノアは表を小さく折り、袖の中へ入れた。
応接室へ入ると、母セレスティアが座っていた。
その向かいに、見知らぬ婦人が二人。
一人はふくよかな体つきで、上質な葡萄色のドレスをまとっている。もう一人は若く、エレノアより少し年上に見えた。穏やかな顔立ちだが、視線はよく動く。
セレスティアが微笑む。
「エレノア、こちらはベルモント伯爵夫人と、その姪御のクララ様です」
エレノアは礼をした。
「エレノア・フォン・フォルセインでございます」
「まあ、噂通りお可愛らしい方ですこと」
ベルモント伯爵夫人は、にこやかに言った。
その声は柔らかい。
けれど、エレノアは背筋が固くなった。
可愛らしい。
その言葉は、褒め言葉のはずなのに、なぜか自分を小さな箱に入れられたような気持ちにさせる。
「お姉様のリディア様は、最近ますますご活躍とか。冬季灯火網でしたかしら? 王宮でも評判ですわね」
「はい。姉は……とても忙しくしております」
「素晴らしいことですわ。けれど妹君には妹君の幸せがありますものね」
エレノアの指先が、袖の中の紙に触れた。
来た。
まだ、誰も縁談とは言っていない。
でも、空気はもうそちらを向いている。
クララがにこりと笑った。
「私の従兄も、フォルセイン家の皆様に一度ご挨拶できればと申しておりましたの。領地経営に関心があり、真面目な方ですわ」
従兄。
領地経営。
挨拶。
エレノアは、言葉の意味をひとつずつ受け取っていく。
これは、候補の話なのだ。
正式ではない。
まだ何も決まっていない。
けれど、周囲はもう動き始めている。
父が一月考えなさいと言った時間の中へ、社交界の手が先に伸びてくる。
セレスティアは穏やかに微笑んでいるが、目元に少し困惑があった。
母も、おそらく突然の話ではないのだろう。
それでも、完全に歓迎しているわけでもない。
エレノアは、ゆっくり息を吸った。
「お話、ありがとうございます」
まず、それだけ言った。
ベルモント伯爵夫人は満足そうに頷く。
「まだ堅苦しい話ではございませんの。ただ、若い方同士、よいご縁は早めに知っておくに越したことはありませんでしょう?」
早めに。
よいご縁。
知っておく。
どれも穏やかな言葉だ。
けれど、その穏やかさの中で、エレノアは少しずつ逃げ道を塞がれている気がした。
こちらでも行けます。
姉の手紙の言葉が、胸に浮かぶ。
でも、ここには札がない。
手灯りもない。
応接室の絨毯は柔らかく、茶器は美しく、香はよく整っている。
なのに、エレノアにはここが西区の夜道より息苦しく感じられた。
大通りが騒がしいからではない。
裏道が暗いからでもない。
言葉が、道を塞いでいる。
可愛らしい。
妹君の幸せ。
よいご縁。
早めに。
どの言葉も、自分を直接傷つけているわけではない。
でも、足を止める。
「エレノア様は、どのような殿方がお好みなの?」
クララが悪気なく尋ねた。
エレノアは、答えられなかった。
好き。
好み。
そんなことを、考えたことがない。
恋物語なら読んだことがある。舞踏会で素敵な男性を見たこともある。けれど、自分がどんな相手を望むのか、真剣に考えたことなどなかった。
黙っていると、ベルモント伯爵夫人が笑った。
「まあ、恥ずかしがり屋さんですのね」
違う。
そう言いたかった。
恥ずかしいのではない。
わからないのだ。
けれど、その言葉は喉で止まった。
可愛らしい妹君。
恥ずかしがり屋の令嬢。
そう見られた瞬間、自分が何を言っても、その枠の中へ押し込まれてしまいそうだった。
セレスティアが、そっと助け舟を出した。
「エレノアは、今少し自分の考えを整理しているところなのです。まだ具体的な話を進める段階ではございませんわ」
「まあ、もちろんですわ」
伯爵夫人は微笑んだ。
「ただ、よいご縁というものは待ってはくれませんもの。リディア様のように王宮で大きなお役目を担う道も素晴らしいですが、エレノア様には穏やかな家庭が似合うように思いますの」
穏やかな家庭。
それは、悪いものではない。
むしろ望む人も多いだろう。
けれど、勝手に似合うと言われた瞬間、エレノアの胸の中で小さな何かが軋んだ。
自分は、まだ何も選んでいない。
なのに、もう似合う道を決められている。
そのとき、応接室の扉が開いた。
父グラントが入ってきた。
空気が一段引き締まる。
ベルモント伯爵夫人はすぐに立ち上がり、優雅に礼をした。
「フォルセイン侯爵閣下。本日は突然お邪魔いたしまして」
「構わない」
父は短く答え、席に着いた。
その目が一瞬、エレノアを見る。
エレノアは反射的に姿勢を正した。
父は、机の上にある茶器と客人の様子を見て、話題をすぐに察したようだった。
「ベルモント家のご子息の話か」
「まあ、閣下のお耳にも?」
「社交界の話は、望まずとも入る」
その言い方に、伯爵夫人は少しだけ笑みを固くした。
父はエレノアへ視線を向けた。
「エレノア」
「はい」
「お前は今、考える時間を取っている」
部屋の空気が変わった。
セレスティアが、わずかに顔を上げる。
エレノアは父を見た。
父は続けた。
「この場で返答する必要はない」
それは、とても短い言葉だった。
けれど、エレノアには手灯りのように見えた。
こちらでも行けます。
その札が、突然、応接室の中に立った気がした。
伯爵夫人は一瞬黙ったが、すぐに微笑みを戻した。
「もちろんでございます。今日はあくまでご挨拶で」
「ならば挨拶として受け取ろう」
父の声は冷静だった。
「縁談として進めるかは、後日改めてこちらから返答する」
「承知いたしましたわ」
穏やかだが、線が引かれた。
エレノアは、その線をはっきり感じた。
父は、自分に考える時間を与えた。
そして今、その時間を他者に奪わせなかった。
胸の奥が、少し震える。
期待しすぎてはいけない。
そうリディアにも書いた。自分でもわかっている。
でも、見なかったことにもしたくない。
父は今、自分の時間を守った。
客人が帰ったあと、応接室には三人だけが残った。
セレスティアは、少し疲れたように息を吐いた。
「急なお話でしたね」
父は無言で茶杯を見た。
エレノアは、袖の中の紙をそっと握った。
言わなければ。
今、言わなければ、また飲み込んでしまう。
「父上」
声が少し震えた。
父が顔を上げる。
「何だ」
「先ほどは……ありがとうございました」
父は一瞬だけ黙った。
「礼を言われることではない」
「でも、考える時間を守ってくださいました」
「私が与えた時間だ」
相変わらず、言い方は硬い。
けれど、エレノアにはその硬さが以前ほど怖くなかった。
「はい」
エレノアは頷いた。
「私はまだ、何を望むのかわかりません。でも、わからないまま笑って頷くのは、したくありません」
セレスティアが心配そうにこちらを見る。
父は黙って聞いていた。
「先ほど、ベルモント伯爵夫人は、私には穏やかな家庭が似合うとおっしゃいました」
「そう言っていたな」
「それが嫌なわけではありません。穏やかな家庭は、きっとよいものだと思います。でも……」
エレノアは言葉を探した。
嫌なこと。
望むこと。
まだわからないこと。
袖の中の紙を思い出す。
「でも、私がそれを望む前に、似合うと言われるのは苦しかったです」
言えた。
言ってしまった。
父は目を細めた。
「似合うと言われるのが苦しいのか」
「はい」
「なぜだ」
問い返し。
でも、叱責ではない。
エレノアは考えた。
なぜ苦しいのか。
少し前なら、答えられなかったかもしれない。
「私の形を、先に決められた気がしたからです」
静かに言った。
「可愛らしい妹。穏やかな家庭が似合う令嬢。恥ずかしがり屋。そう言われると、私はその通りに振る舞わなければいけない気がします」
父は何も言わない。
セレスティアは、目を伏せている。
エレノアは続けた。
「でも、本当はまだわかりません。私は穏やかな家庭を望むのかもしれません。望まないのかもしれません。誰かを支える暮らしがいいのかもしれません。自分で何かをしたいのかもしれません。まだ、わからないのです」
胸が苦しい。
でも、言葉は出ている。
「だから、今は似合うものを決められるより、考える時間がほしいです」
沈黙。
長い。
けれど、エレノアは待った。
父は、やがて静かに言った。
「わかった」
たった四文字だった。
それでも、エレノアには十分すぎた。
セレスティアが小さく息を吐いた。
父は席を立つ前に、短く付け加えた。
「一月は変えない。考えなさい」
「はい」
「ただし、考えたことは言葉にしろ」
「はい」
父は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
エレノアはその瞬間、全身の力が抜けそうになった。
セレスティアがそっと手を伸ばす。
「エレノア」
「母上……私、失礼ではありませんでしたか」
「いいえ」
セレスティアは首を横に振った。
「よく言えました」
その一言で、エレノアの目元が熱くなる。
だが、泣かなかった。
今日はまだ泣きたくなかった。
自分の言葉を、もう少し胸の中に立たせておきたかった。
夜、自室に戻ったエレノアは、袖の中から小さな表を取り出した。
そして、嫌なことの欄に一文を書き足した。
私が望む前に、似合う道を決められること。
それから、まだわからないことの欄に書いた。
穏やかな家庭を望むのか。
自分で何かをしたいのか。
誰かを支える暮らしなら、どんな形がよいのか。
望むことの欄は、まだ少ない。
でも、一つだけ書けた。
考える時間を守ってもらうこと。
それは、望んでよいことなのだと思えた。
エレノアは、リディアへ手紙を書き始めた。
――お姉様。
「こちらでも行けます」の札のこと、読みました。
今日、私にもその札が必要だと思いました。
ベルモント伯爵夫人という方がいらして、私には穏やかな家庭が似合うとおっしゃいました。
それが嫌なわけではありません。
でも、私が望む前に似合う道を決められるのは苦しいのだと、今日初めて言葉にできました。
筆が少し震える。
でも、止まらなかった。
――父上は、この場で返答する必要はないと言ってくださいました。
私に与えた一月の時間を、守ってくださいました。
期待しすぎてはいけないと思います。
でも、見なかったことにもしたくありません。
父上は今日、私の考える時間を守ってくださいました。
そこまで書くと、胸が少し温かくなった。
最後に、こう書いた。
――お姉様。
私はまだ、自分の道を選べません。
でも、選べない自分が悪いとは書かないようにします。
今はまだ、手灯りを探している途中なのだと思います。
エレノア。
封をして、白百合の印を押す。
その夜、エレノアはすぐには眠れなかった。
不安はある。
ベルモント家の話が本当に消えたわけではない。
父の一月が終われば、また選ばなければならない。
社交界の声は、きっとこれからも道を塞ぎに来る。
それでも。
今日、父は止めてくれた。
そのことだけは、胸に置いておきたかった。
一方その頃、リディアは宰相家の温室で、同じ言葉を見つめていた。
こちらでも行けます。
西区の札に立った言葉。
それは、きっとすぐに誰かの人生を変えるものではない。
けれど、迷う人が道の前で足を止めたとき。
そこに別の道があると、知らせることはできる。
リディアはまだ、エレノアの手紙を知らない。
けれど、なぜか胸の奥で、妹のことを考えていた。
あの子にも、いつか自分の札が見つかりますように。
そう願いながら、リディアは静かに茶を飲んだ。




