第110話 こちらでも行けます
西区の案内札が正式に据えられたのは、翌日の午後だった。
正式、といっても大げさな除幕式があるわけではない。
王宮の紋章を掲げるわけでもない。
寄付者の名を刻むわけでもない。
楽隊も、花飾りも、称賛の拍手もない。
ただ、職人が木槌で支柱を打ち込み、案内札の傾きを直し、手灯りの位置を確かめる。
それだけだった。
けれどリディアには、その光景がひどく大切なものに見えた。
大通りと裏道の分岐。
酒場の看板が並ぶ手前。
屋台の湯気が流れてくる角。
そこに、黄色みを帯びた木の札が立てられる。
焦げ茶の文字で、こう書かれていた。
施療院へ向かう方へ。
手灯りが出ている時刻は、こちらでも行けます。
施療院は夜も受付しています。
こちらでも行けます。
その一文を見た瞬間、リディアは少しだけ息を止めた。
何度も紙の上で見た。
試作品でも読んだ。
会議でも口にした。
それなのに、実際の道端に据えられると、言葉の重さが変わった。
紙の上では文案だったものが、道の一部になる。
迷う人の目に入るかもしれない。
足を止めた人の背中を、ほんの少し押すかもしれない。
あるいは、今日は無理だと戻る人に、次はこの時刻を待てばいいと知らせるかもしれない。
リディアは、札の前に立ったまま、しばらく黙っていた。
「傾いてます?」
職人組合のニコが不安そうに尋ねた。
今日は案内人ではなく、札の設置を手伝っている。厚手の手袋は腰の袋に挟んでいた。
「いいえ。まっすぐです」
「奥様が真剣に見てるから、何か間違えたかと思いました」
「すみません。文字を見ていました」
「文字?」
「はい」
リディアは札を見上げた。
「道に置かれると、言葉は少し変わりますね」
ニコは首を傾げた。
「そういうもんですか」
「たぶん」
自分でも、うまく説明できなかった。
けれど、確かにそう感じた。
言葉は、誰が読むかで変わる。
誰が言うかでも変わる。
そして、どこに置かれるかでも変わる。
王宮の小サロンで「こちらでも行けます」と言えば、少し美しい言葉に聞こえるかもしれない。
けれど西区の道端に置かれると、それはもっと現実的だった。
酒場前が通りにくいなら。
裏道が暗いなら。
手灯りが出ている時刻を待つなら。
こちらでも行けます。
ただ、それだけ。
だからこそ強い。
セシリアが、少し離れた場所から札を確認していた。
彼女は今日も飾り気の少ない服装だった。手には図案帳ではなく、文字の見え方を確認するための小さな板を持っている。
「リディア様、酒場の看板と混ざりませんか?」
「今の位置なら、大丈夫だと思います」
リディアは視線を横へ向けた。
ロッソの店の看板は大きく、赤黒い塗料で店名が書かれている。以前なら、その隣に案内札を置けば埋もれてしまっただろう。
けれどセシリアが色を調整してくれたおかげで、案内札は派手ではないのに読みやすかった。
目立ちすぎない。
でも、必要な人には見える。
「花はなくても、セシリア様の仕事だとわかります」
リディアが言うと、セシリアは少し照れたように笑った。
「花を入れない仕事に、少し慣れてきました」
「それも花の仕事です」
「最近、本当にそう思えるようになりました」
セシリアは札を見つめる。
「花を飾ることだけが、場を整えることではないのですね」
「はい」
「今回は、道を整える仕事です」
その言葉に、リディアは静かに頷いた。
道を整える。
まさにそうだった。
道は最初からあった。
施療院もあった。
酒場も、屋台も、荷馬車もあった。
けれど、人が歩けるよう整えられていなかった。
だから、札を置く。
手灯りを置く。
案内人を立てる。
声の出し方を調整する。
荷馬車の時間をずらす。
屋台の列の向きを変える。
ほんの少しずつ。
西区の夜を、生きている人たちのまま、通れる道へ近づけていく。
裏道入口の札も据えられた。
こちらは少し低めにした。暗くなったとき、手灯りが斜めから当たるよう位置を調整している。昨日の試し置きでわかったことだった。
トマスが灯りの高さを確認しながら言った。
「この位置なら読めますね」
「あなたが見つけてくれた置き方です」
リディアが言うと、トマスは慌てたように首を振った。
「いや、たまたまです」
「たまたまでも、記録に残りました」
「本当に何でも記録されるんですね」
「必要なことだけです」
リディアが答えると、近くにいたロッソが低く笑った。
「出たな、それ」
「便利な言葉なので」
「便利に使いすぎると嫌われるぞ」
「気をつけます」
「いや、もう遅いかもしれん」
ロッソの口調は相変わらず乱暴だが、以前のような刺々しさはなかった。
彼は大通りの札を見て、少しだけ顎を引いた。
「これなら、うちの客にも説明しやすい」
「本当ですか」
「ああ。“施療院へ向かう人の札だ、前を塞ぐな”で済む」
「それは助かります」
「ただし、客が全員きれいに聞くとは思うなよ」
「思っていません」
「ならいい」
ロッソは少しだけ口の端を上げた。
「奥様、最初より西区の夜がわかってきた顔になった」
「まだ、少しだけです」
「少しだけわかってる顔だ」
「それなら、よかったです」
リディアが答えると、ロッソは肩をすくめた。
「変な返しだな」
「よく言われます」
彼は笑って、酒場の方へ戻っていった。
施療院入口の札は、ミラベルが最後まで文面を確認した。
入口用には少し詳しい案内も置かれている。
夜に迷ったときも、施療院は開いています。
手灯りが出ている時刻は、案内人が道に立ちます。
来られなかった日があっても、あなたが悪いと記録するものではありません。次に来やすくするために、妨げになったことを教えてください。
ミラベルはそれを読んで、小さく頷いた。
「これなら、受付で説明しやすいです」
「長すぎませんか」
「道端では長いです。でも受付なら読めます」
「よかった」
「ただ、最後の文は、読むだけで泣きそうになる方がいるかもしれません」
リディアは少し胸が詰まった。
「そうですね」
「でも、必要です」
ミラベルは静かに言った。
「施療院に来る方は、最初に謝ることが多いので」
遅くなってすみません。
夜に来られなくてすみません。
我慢してしまってすみません。
その声を、リディアも聞いた。
だから、この文は消せない。
「では、残しましょう」
「はい」
午後の設置確認が終わるころには、空が少しずつ夕方の色を帯び始めていた。
今日は本格試行ではない。
案内札の設置確認だけだ。
それでも、道端に札が立っているだけで、リディアには西区の景色が少し変わって見えた。
もともとあった道に、新しい選択肢が生まれたように。
帰り際、アルベルトがリディアの隣に立った。
「見ておくか」
「はい」
二人は、大通りと裏道の分岐を少し離れた場所から眺めた。
酒場の看板。
屋台の準備。
荷馬車の車輪跡。
裏道の影。
そして、その間に立つ案内札。
こちらでも行けます。
リディアは、ふと自分自身のことを思った。
王太子妃候補として育てられた日々。
その道しかないと思っていた。
父の期待に沿う道。
侯爵令嬢として失敗しない道。
感情を抑え、正しさを保ち、誰かの隣に立つ道。
それが途切れたとき、自分は道を失ったのだと思った。
けれど今、ここにいる。
宰相夫人として、西区の道端で案内札を見ている。
子どもたちの毛布の角を守り、北区の火を見、東区の橋を渡り、南区の窓を直し、西区の夜道に札を立てている。
こんな道があるとは、昔の自分は知らなかった。
リディアは、札を見つめたまま呟いた。
「私にも、必要な言葉でした」
アルベルトは、すぐには何も言わなかった。
少し間を置いてから、低く答える。
「ああ」
「こちらでも行けます」
「ああ」
「王太子妃候補ではない道も、ありました」
「ある」
短い言葉。
けれど、それで十分だった。
リディアは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
「旦那様」
「何だ」
「私は、ここまで来てよかったのでしょうか」
問いは、思ったより自然に口から出た。
アルベルトは、リディアを見た。
「よかったかどうかを、今すぐ決めなくていい」
「え?」
「道は歩いてからわかることもある」
彼は札へ視線を向けた。
「ただ、君は今、ここに立っている。それで十分だ」
リディアは、静かに息を吸った。
今、ここに立っている。
それは、慰めではなく事実だった。
そして、今のリディアには、その事実が何より支えになった。
「ありがとうございます」
「受け取る」
早い。
けれど、少しだけ声が柔らかかった。
宰相家へ戻る馬車の中で、リディアはエレノアへの手紙の文面を考えていた。
書きたいことが多い。
案内札が据えられたこと。
手灯りが出ている時刻だけ、別の道も使えること。
道端の言葉は短くなければ届かないこと。
そして、自分自身にもその言葉が必要だったこと。
アルベルトが、向かいで書類を閉じた。
「また手紙の顔だな」
「わかりますか」
「ああ」
「エレノアに、今日の札のことを書きたいと思って」
「書けばいい。ただし、休んでからだ」
「はい」
素直に答えると、アルベルトが少しだけ目を細めた。
「成長したな」
「今日は言われると思っていました」
「なら、さらに成長だ」
「旦那様、それ便利に使っていませんか」
「必要なことだけだ」
リディアは思わず笑ってしまった。
ロッソまで真似していた言葉が、今度はアルベルトの口から返ってくる。
言葉は、渡っていく。
少しずつ意味を変えながら。
宰相家へ戻ると、リディアは本当に少し休んだ。
エマに見守られながら温かい茶を飲み、外套を脱ぎ、冷えた指先を温める。
その後、作業室ではなく温室へ向かった。
今日は、そこで手紙を書いてもよいとアルベルトが許可した。
ただし、長すぎないこと。
その条件付きで。
リディアは長椅子に座り、便箋を広げた。
ブルースターの青が、そばで静かに咲いている。
――エレノア。
西区の道端に、案内札が立ちました。
そこには、こう書かれています。
「施療院へ向かう方へ。手灯りが出ている時刻は、こちらでも行けます。施療院は夜も受付しています」
紙の上で何度も見た言葉なのに、道端に立つと少し違って見えました。
リディアは少し手を止め、窓の外を見た。
冬の庭は静かだ。
続ける。
――こちらでも行けます。
この言葉は、西区の夜道のために作ったものです。
でも、今日、私自身にも必要な言葉だったのだと感じました。
王太子妃候補としての道だけではなく、今の道もありました。
最初から見えていた道ではありません。
歩きながら、ようやく見えてきた道です。
書きながら、胸が少し熱くなる。
これは、妹へ向けた手紙であり、自分への確認でもあった。
――あなたにも、きっと“こちらでも行けます”があります。
すぐに見つからなくてもいい。
父上が示す道だけが、すべてではない。
けれど、父上の考えをすべて敵にしなければならないわけでもありません。
大切なのは、自分の足で歩ける道を探すことだと思います。
アルベルトが、少し離れた椅子から静かに言った。
「長くなっている」
「あと少しだけです」
「あと少しは危険だ」
「では、あと一文」
「一文だけだ」
リディアは微笑み、最後に書いた。
――あなたが考える一月が、あなたの道を見つける時間になりますように。
封をして、ブルースターの印を押す。
その手元を見ていたアルベルトが言った。
「いい手紙だな」
リディアは顔を上げた。
「珍しく、先に褒めてくださいました」
「珍しいか」
「珍しいです」
「そうか」
アルベルトは少し視線を外した。
リディアは笑いながら茶を飲んだ。
温かい。
西区の道端に立つ札のことを思う。
今ごろは、夕闇の中でまだ誰にも読まれていないかもしれない。
あるいは、通りすがりの誰かが立ち止まり、少しだけ首を傾げているかもしれない。
こちらでも行けます。
その言葉が、すぐに誰かを救うとは限らない。
けれど、そこにあることが大切なのだ。
道は一つではないと、知らせるために。
リディアはブルースターを見つめながら、静かに息を吐いた。
今、自分はここに立っている。
その事実を、少しずつ信じられるようになっていた。




