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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第108話 声も、道を塞ぐ

 声も、道を塞ぐ。


 リディアはその一文を書いて、すぐにペンを止めた。


 作業室の窓の外では、朝の光が白く庭を照らしている。西区の夜道とはまるで違う、静かで整った朝だった。


 けれど、机の上には昨夜の記録が残っている。


 案内時刻内来院、三名。

 引き返し、一名。

 主な妨げ、突然の大きな声。

 裏道側案内不足。

 案内人の足元の冷え。

 外套の動きにくさ。

 音環境確認欄、追加検討。


 そして、聞き取りで明らかになったこと。


 引き返した人は、酒場そのものが怖かったわけではない。

 荷馬車そのものが嫌だったわけでもない。


 突然の声に、体が反応した。


 自分へ向けられた声ではないとわかっていても、足が止まった。


 リディアは、もう一度紙面を見た。


 ――声も、道を塞ぐ。


 これは、真実に近い。


 だが、このまま外へ出せば、酒場や荷運び人への非難として読まれるかもしれない。


 酒場の笑い声。

 荷馬車の合図。

 職人たちの大きな声。


 それらは、西区の夜に生きる人々の声でもある。


 誰かを温める声。

 危険を知らせる声。

 働く人同士が互いを見失わないための声。


 それでも、別の誰かにとっては、道を塞ぐ音になる。


 どう書けばいいのか。


 リディアは、ペン先を紙から離したまま、しばらく動けなかった。


「奥様、また最初の一文で止まっておられますね」


 向かいの席で資料を整理していたオスカーが言った。


「ええ。正しいけれど、強すぎる気がして」


「“声も、道を塞ぐ”ですか」


「はい」


 リディアは少し苦笑した。


「小冊子なら読者の心には残るでしょう。でも、今の段階で出すと、酒場組合と荷運び人組合を敵に回すかもしれません」


「報告書には向きませんね」


「では、報告書ではどう書くべきかしら」


 オスカーは少し考えた。


「“夜間通行を妨げる音環境”」


「昨日も出た言葉ですね」


「はい。硬いですが、誰かを直接責める言い方ではありません」


「硬すぎて、現場の人には伝わりにくい」


「現場向けは別にしましょう」


 オスカーは、紙を三枚に分けて置いた。


「貴族向け報告、現場向け共有、利用者向け案内。この三つで文面を変えるのがよいと思います」


 リディアは、その三枚の白紙を見た。


 三種類の言葉。


 同じ事実でも、誰へ向けるかで言い方は変わる。


 貴族向けには、制度としての課題を示す。

 現場向けには、具体的な行動へつなげる。

 利用者向けには、責めず、迷わせず、必要な情報だけを渡す。


「三つに分けましょう」


 リディアは頷いた。


「まず、貴族向け報告」


 彼女は一枚目の紙に書いた。


 ――西区夜道案内試行では、暗さや道幅だけでなく、夜間通行を妨げる音環境が確認された。

 突然の大声、店先の滞留による声の集中、荷馬車の急な合図などが、一部利用希望者の通行継続を難しくする場合がある。

 ただし、これらの声は西区の営業・労働・危険回避に伴うものであり、特定の業種を責めるものではない。

 今後は案内時刻中の声かけ方法、荷馬車合図、店先滞留の調整を試行する。


 書き終えて、リディアは息を吐いた。


「長いですね」


「報告としては妥当です」


 オスカーが言う。


「貴族向けなら、これくらい説明したほうが誤解は減ります」


「“特定の業種を責めるものではない”は入れておいたほうがいいですね」


「はい。ファーネル侯爵夫人のように言い換える方への牽制にもなります」


 さらりと言われ、リディアは思わず顔を上げた。


「オスカー、最近かなり言いますね」


「必要なことだけです」


「それ、私の言い方です」


「屋敷内で共有されておりますので」


 リディアは少し笑ってしまった。


 次に、現場向けの紙を見る。


 これは、ロッソ、バスティアン、マイラ、ダリオ、施療院、案内人たちが読むものだ。


 難しい言葉ではなく、何をすればいいかがわかる必要がある。


 リディアは書いた。


 ――案内時刻の間は、急な大声をできるだけ避ける。

 危険を知らせる声は必要。ただし、荷馬車の合図は事前に決める。

 酒場前では、店先に人が溜まりすぎないよう声をかける。

 屋台の列は、道の中央へ広がらないよう調整する。

 案内人は、利用者が声に反応して足を止めた場合、近づきすぎず、手灯りで道を示す。

 声が原因で引き返した人がいた場合、案内人を責めず、場所と状況を記録する。


 書いてから、少しだけ考える。


 これなら、動ける。


 誰かを悪者にする言葉ではない。

 けれど、やるべきことは消していない。


「現場向けは、このくらいでしょうか」


「よいと思います」


 オスカーが頷いた。


「“案内人を責めず”を入れたのが効いています」


「ニコさんが気にしていましたから」


「支える側も、自分を責めます」


「はい」


 リディアは小さく頷いた。


 そして三枚目。


 利用者向け案内。


 ここが一番難しかった。


 通る人に向けて、「声が怖い方はこちら」などと書くわけにはいかない。


 相手を弱い人扱いしてしまう。

 また、酒場や荷馬車を悪者のように見せる。


 必要なのは、選択肢を渡すこと。


 押しつけず、見捨てず。


 リディアは、しばらく考えてから書いた。


 ――施療院へ向かう方へ。

 大通りが通りにくいと感じたときは、案内人のいる時刻に別の道も使えます。

 無理に急がず、手灯りのある場所をご確認ください。

 迷ったときは、案内人または施療院受付へお声がけください。


 少し長い。


 だが、責めてはいない。


 “怖い方”とも書いていない。


 ただ、通りにくいと感じたとき、としている。


 リディアは紙を見つめた。


「どうでしょう」


 オスカーは少し読んでから頷いた。


「利用者向けとしては、よいと思います。ただ、“お声がけください”は、声をかけること自体が難しい方もいるかもしれません」


「そうですね」


 リディアはその部分を書き換えた。


 ――迷ったときは、案内人の手灯りを目印にしてください。受付でも案内できます。


「こちらのほうがいいかしら」


「はい」


 声を出せない人もいる。


 誰かに話しかけることが怖い人もいる。


 その人たちにも届くようにしなければならない。


 そこで、作業室の扉が開いた。


 アルベルトだった。


「三種類に分けたか」


「はい。貴族向け、現場向け、利用者向けです」


「見せろ」


 リディアは三枚の紙を渡した。


 アルベルトは、まず貴族向けを読んだ。


 次に現場向け。

 最後に利用者向け。


 読み終えるまで、何も言わなかった。


 この沈黙にも、最近は少し慣れた。


 待つ。


 自分の言葉を置いて、相手が読む時間を待つ。


 やがてアルベルトは言った。


「分け方はいい」


「文面は?」


「貴族向けは、“音環境”でよい。現場向けはもっと短くしろ」


「短く?」


「現場では長い文は読まれない」


「確かに」


「箇条にしろ」


 リディアはすぐに現場向けの紙を直した。


 案内時刻中の確認

 ・急な大声をできるだけ避ける。

 ・危険を知らせる声は止めない。

 ・荷馬車の合図は事前に決める。

 ・店先に人を溜めすぎない。

 ・屋台列を道の中央へ広げない。

 ・利用者が足を止めたら、近づきすぎず手灯りを示す。

 ・引き返しがあっても、案内人を責めず状況を記録する。


「これならどうでしょう」


「いい」


「かなり?」


「現場向けとしては、かなりいい」


 リディアは少しだけ嬉しくなった。


「ありがとうございます」


「受け取る」


 早い。


 もう合図のようなやり取りだった。


 アルベルトは利用者向けの紙に目を戻した。


「“大通りが通りにくいと感じたとき”はいい」


「責めない言い方にしたくて」


「ああ」


「“怖い方へ”とは書きたくありませんでした」


「正しい」


 アルベルトは、少しだけ考えてから言った。


「最後に“こちらでも行けます”を入れろ」


 リディアは顔を上げた。


「入れてよいですか」


「この文面なら合う」


 リディアは、利用者向け案内の最後に書き加えた。


 ――こちらでも行けます。


 その一文が入ると、札の文全体が少しやわらいだ。


 命令ではない。

 案内になった。


「これでいきましょう」


 リディアは頷いた。


 午後、西区の関係者へ三種類の文面を共有するため、再び小会議が開かれた。


 場所は職人組合の会議室。


 ロッソは貴族向け報告の文面を読むと、すぐに言った。


「“音環境”って何だ。声って書けばいいだろ」


「貴族向けには、この表現のほうが誤解が少ないのです」


 リディアが答えると、ロッソは鼻を鳴らした。


「貴族様の言葉は面倒だな」


「ええ。面倒です」


 リディアが素直に認めると、ロッソは少し笑った。


「奥様が言うと変な感じだ」


 バスティアンは現場向けの確認表を見た。


「“危険を知らせる声は止めない”。これは助かる」


「必要な声まで止めるつもりはありません」


「なら、うちの連中にも言いやすい。怒鳴るな、じゃなくて、決めた合図を使え、なら通る」


「合図の案はありますか」


「短い笛を使う手がある。声より通るし、怒鳴り声にはならん。ただ、馬が驚かない音にしないといけない」


 オスカーがすぐ記録する。


「荷馬車合図笛、音量と馬への影響確認」


 マイラは屋台列の項目を見て頷いた。


「“道の中央へ広げない”なら、うちの者にも伝えやすいよ。客にも、施療院へ向かう人の道だから少し寄ってくれと言える」


「ありがとうございます」


 ダリオは案内人向けの文を見て、ふっと笑った。


「ニコに読ませます。あいつ、昨日まだ気にしてたんで」


「案内人を責めないことは、必ず伝えてください」


「わかっています」


 会議は、前よりずっと進みやすくなっていた。


 まだ反発はある。

 面倒だという顔も多い。


 だが、話し合う言葉ができたことで、怒りが少し整理されている。


 声が悪いのではない。

 音環境を調整する。

 大声を禁止するのではない。

 案内時刻中の合図を決める。


 言葉が変わると、動き方も変わる。


 そのことを、リディアはまた実感した。


 会議の終わりに、ロッソがリディアへ言った。


「奥様」


「はい」


「“声も道を塞ぐ”ってやつ、俺は嫌いじゃない」


 リディアは驚いた。


「聞こえていましたか」


「誰かが言ってた。たぶん施療院の人間だな」


「まだ正式には」


「わかってる。報告書には書きにくいんだろ」


 ロッソは腕を組む。


「でも、うちの連中にはそれくらいのほうが伝わるかもしれん。酒場の声は消せない。でも、道を塞ぐほど前へ出すな。そう言えばわかるやつもいる」


 リディアは少し考えた。


 貴族向けには向かない。

 だが、酒場側の内部共有では、むしろそのままのほうが響く場合もあるのかもしれない。


「では、ロッソさんの言葉で伝えてください」


「いいのか」


「はい。ただし、酒場を責めるためではなく、案内時刻の間だけ道を空けるために」


「わかってる」


 ロッソは少し笑った。


「声も道を塞ぐ。だから、通すために声を少し下げろ。そう言っておく」


 リディアは深く頷いた。


「お願いします」


 言葉は、使う人によって形を変える。


 リディアが貴族向けに使うには強すぎる言葉でも、ロッソが酒場の店主へ伝えるなら、生きるのかもしれない。


 帰りの馬車で、リディアはそのことをアルベルトに話した。


「ロッソさんが、“声も道を塞ぐ”を酒場側に伝えるそうです」


「いい判断だ」


「意外でした」


「彼の言葉になったなら使える」


「私の言葉では強すぎても?」


「ああ。言葉は、誰が言うかで変わる」


 リディアは頷いた。


 本当にそうだ。


 同じ言葉でも、王宮の小サロンで言えば非難になる。

 酒場組合長が店主へ言えば、現場の合図になる。


 だから三種類の文面が必要だった。


 貴族向け。

 現場向け。

 利用者向け。


 そして、おそらくもっと細かく分かれていく。


 夜、温室でリディアはエレノアへ手紙を書いた。


 ――エレノア。

 今日は、西区の報告文を三種類に分けました。

 貴族向け、現場向け、利用者向けです。

 同じことを伝えるにも、相手によって言葉を変えなければ、正しく届かないことがあります。

 けれど、言葉を変えることと、事実を曲げることは違います。

 私はその違いを、まだ練習しているところです。


 そこまで書いて、少しだけ考える。


 エレノアは今、自分の縁談について考える時間を持っている。


 父へ何をどう伝えるか、きっと迷っているだろう。


 リディアは続けた。


 ――父上へ話す言葉と、私へ書く言葉は違ってよいと思います。

 でも、あなたが本当に感じていることまで変えなくていい。

 相手へ届く形に整えることと、自分の気持ちを消すことは違います。

 その線を、私もよく間違えそうになります。


 書き終えると、アルベルトが少し離れた椅子から言った。


「今日は長いな」


「あと一文だけです」


「一文だけだ」


 いつものやり取り。


 リディアは微笑み、最後に書いた。


 ――こちらでも行けます、という言葉を、今日も札に残しました。


 封をして、ブルースターの印を押す。


 アルベルトが静かに聞いた。


「泣くか」


「泣きません」


「悩んではいるな」


「はい」


「言葉か」


「はい。言葉は難しいです。強すぎると刺さり、弱すぎると消えます」


「だから整える」


「でも、整えすぎると、今度は伝わらない」


「そうだな」


 アルベルトは否定しなかった。


 そのことが、リディアにはありがたかった。


 簡単だとは言わない。

 けれど、できないとも言わない。


「旦那様」


「何だ」


「私は今日、報告書の言葉を整えながら、少しだけ怖くなりました」


「何が」


「整えた言葉で、人の痛みまで薄めてしまうのではないかと」


 アルベルトは、少し黙った。


 そして言った。


「だから、元の言葉も君が覚えておけ」


「元の言葉」


「声も道を塞ぐ。今日は通れそうだった。まだ私の。そういう言葉だ」


 リディアの胸が、静かに震えた。


 公文書には載せない。

 小冊子にも載せないことがある。


 でも、忘れない。


 自分の中の記録として残す。


「はい」


 リディアは小さく頷いた。


「覚えておきます」


 外は静かな夜だった。


 温室の中には、声も足音もほとんどない。


 けれど、孤立はしていない。


 リディアはそれを知っている。


 西区の夜にも、いつかそんな静けさが作れたらいい。


 声が必要な場所では声を残し、通る人が足を止める場所では少し和らげる。


 そのために、明日もまた言葉を選ぶ。


 リディアは、ブルースターの青を見つめながら、静かにそう思った。

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