第107話 引き返した人は、酒場ではなく「声」が怖かった
夜道案内試行の翌朝、西区施療院にはいつもより早く人が来ていた。
昨夜の試験があったからなのか。
それとも、たまたまなのか。
その判断は、まだできない。
リディアは、施療院の二階にある小さな記録室で、前夜の案内人記録票と利用者聞き取り票を並べていた。
来院三名。
引き返し一名。
数字にすれば、それだけだ。
だが、その一名がずっと胸に残っていた。
裏道側から現れた中年の男性。胸を押さえるようにして歩いていた。施療院へ向かうように見えたが、荷馬車関係者の大きな声に反応し、そのまま引き返した。
ニコは自分の案内が遅れたのではないかと気にしていた。
けれどリディアは、彼を責めるつもりはなかった。
問題は、誰が悪かったかではない。
何が妨げになったかだ。
「奥様」
ミラベルが記録室へ入ってきた。
いつもの落ち着いた顔だが、今日は少しだけ表情が硬い。
「昨夜、引き返したと思われる方が来ています」
リディアは顔を上げた。
「今朝、施療院へ?」
「はい。胸の痛みで。昨夜から痛かったそうです」
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
やはり、施療院へ向かうつもりだったのだ。
「診察は?」
「先に院長が診ています。命に関わる状態ではなさそうですが、昨夜来られなかった理由について、聞き取り票に答えてくださるそうです」
「無理はさせないでください」
「もちろんです。お名前も記録しません」
リディアは頷いた。
見たい。
だが、見せ物にしてはいけない。
この線は、何度でも引き直す必要がある。
「私は同席しません。聞き取り後、個人が特定されない形で内容だけ共有してください」
ミラベルは静かに頷いた。
「承知しました」
待つ時間は長く感じた。
リディアは記録票を見直していたが、文字が少し頭に入りにくい。
アルベルトは少し離れた席で、前夜の試行記録を読んでいた。彼は何も言わなかった。
黙って待つことを許してくれている。
それがありがたかった。
やがて、ミラベルが戻ってきた。
手には聞き取り票が一枚。
リディアは、椅子から立ち上がりかけて、座り直した。
落ち着いて聞く。
急いではいけない。
「聞き取り内容を共有します」
ミラベルは紙を机に置いた。
「昨夜、裏道から施療院へ向かうつもりだったそうです。酒場前を避けるために、あえて裏道を選んだと」
「酒場前を避けたかった」
「はい。ただ、ご本人は“酒場が怖かったわけではない”とおっしゃいました」
リディアは少し眉を動かした。
「酒場ではない?」
「正確には、酒場そのものではなく、急に大きな声が上がることが怖いのだそうです。以前、病気で倒れたときに周りで大声がして、それ以来、突然の笑い声や怒鳴り声に体が反応してしまうと」
リディアは、ゆっくり息を吸った。
急な声。
それは、昨日の記録では“荷馬車関係者の大声”と書いた。
けれど、もっと正確には、大きな声そのものに体が反応したのだ。
酒場か荷馬車かではない。
声の鋭さ。
不意に上がる音。
「その声は、ご本人へ向けられたものではなかったのですね」
「はい。本人も、それはわかっているとおっしゃっていました」
ミラベルは少しだけ目を伏せた。
「でも、わかっていても体が止まる、と」
わかっていても、体が止まる。
リディアは、その言葉を胸に受けた。
理屈ではない。
酒場の人々が自分を笑っているわけではない。
荷馬車の男が自分を怒鳴ったわけでもない。
それでも、体が反応する。
足が止まる。
戻ってしまう。
その人は、また自分を責めただろうか。
リディアは聞いた。
「“自分が悪い”という言葉は出ましたか」
ミラベルは頷いた。
「出ました。自分が臆病なだけだ、と」
リディアは目を閉じた。
臆病。
その言葉も、選択肢に入れてはいけない。
「票には?」
「書いていません。代わりに、“突然の大きな声により通行継続が困難”と記録しました」
「ありがとうございます」
リディアは深く頷いた。
それでいい。
臆病ではない。
突然の大きな声が、妨げになった。
そう書くことで、問題は本人の弱さから外へ出る。
アルベルトが静かに口を開いた。
「声か」
「はい」
「酒場でも荷馬車でもなく、音環境だな」
「音環境……」
リディアは繰り返した。
少し硬い言葉だ。
だが、実務には向いている。
「夜間通行を妨げる音環境」
リディアは紙の端に書いた。
その下に、さらに続ける。
突然の笑い声。
怒鳴り声に近い呼び声。
荷馬車関係者の大声。
店先の客引き。
複数人の同時発声。
書いていて、思った。
声も、道を塞ぐ。
目には見えない。
地図にも載らない。
けれど、確かに人の足を止める。
「小冊子にはまだ早いですね」
リディアが言うと、アルベルトは頷いた。
「報告には入れろ。表現を選んで」
「酒場を責める言葉にしないように」
「ああ」
リディアは頷いた。
そこが難しい。
声が道を塞ぐ、とそのまま書けば、酒場や職人たちへの非難に読まれるかもしれない。
だが、書かなければ、昨夜引き返した人の困りごとは消える。
消さず、責めず、使える形にする。
それが必要だった。
午後、西区職人組合の会議室で、再度の小協議が開かれた。
出席者は、リディア、アルベルト、オスカー、施療院長、ミラベル、ロッソ、ダリオ、バスティアン、マイラ。
今回は、前夜の試行結果を共有する場だった。
リディアはまず、成果を伝えた。
「案内時刻内に三名の来院がありました。高齢男性一名、若い女性一名、子ども連れ一組です」
ロッソが腕を組んだまま、少しだけ頷いた。
マイラは小さく息を吐いた。
「通れたんだね」
「はい」
リディアは続けた。
「一方で、一名が裏道側から近づいた後、引き返しています」
会議室の空気が少し変わった。
バスティアンの眉が動く。
「荷馬車の声の件か」
「はい。ただし、荷馬車だけの問題ではありません」
リディアは、聞き取り票から個人が特定されないようまとめた内容を示した。
「その方は、酒場そのものや荷馬車そのものが怖かったわけではないと話しています。突然の大きな声に体が反応し、足が止まったそうです」
ロッソが少し顔をしかめた。
「笑うことまで止めろと言われてもな」
「止めてほしいとは言いません」
リディアはすぐに答えた。
「また、それが誰かへ向けられた声ではなかったことも理解しています。ですが、突然の大きな声で通行が難しくなる人がいることは、記録しなければなりません」
バスティアンが低く唸った。
「荷運びは声を出す。危ないときは特にだ」
「必要な声を止めるつもりはありません」
「なら、どうする」
「案内時刻の間だけ、声の出し方を少し変えられないか相談したいのです」
バスティアンは眉を寄せた。
「声の出し方?」
「たとえば、荷馬車を止める場所と動かす合図を、事前に決める。急に怒鳴るのではなく、決まった合図にする。案内時刻中は、施療院角の近くで言い争いをしないよう、調整役が間に入る」
バスティアンは黙った。
すぐに否定しない。
考えている。
ロッソも口を開いた。
「酒場も同じか」
「はい」
「客に笑うなとは言えん」
「言わなくて構いません」
「でも、店先に人が溜まると声が大きくなる」
「案内時刻の間だけ、店先に長く留まらないよう声をかけていただければ助かります」
ロッソは、ふっと息を吐いた。
「結局、うちの声も道を塞ぐってことか」
リディアは少しだけ沈黙した。
ここで、言葉を逃がしてはいけない。
「塞ぐことがあります」
はっきり言った。
会議室が静まる。
「ですが、酒場の声が悪いと決めたいわけではありません。西区の夜に必要な声もあります。人を集める声、危険を知らせる声、仕事の合図。けれど、施療院へ向かう人の足を止める声もある。どちらも事実です」
ロッソは、じっとリディアを見た。
「奥様は、ほんと面倒な言い方をするな」
「すみません」
「いや」
彼は頭を掻いた。
「でも、まあ……悪者にされるよりはいい」
バスティアンも、重い声で言った。
「案内時刻中だけなら、荷馬車の合図を決めることはできる。若い連中に怒鳴るなと言っても、すぐには直らんが」
「試験としてで構いません」
「ただ、危ないときは声を出すぞ」
「もちろんです。安全のための声は必要です」
マイラが横から言う。
「屋台の客にも言っとくよ。案内時刻の間は、列で騒ぎすぎないようにって。でも酒場帰りの人に言うより、スープ待ちの人に言うほうが楽だね」
「助かります」
リディアは頷いた。
少しずつ、現場が動いていく。
声を消すのではない。
声の置き方を変える。
それだけでも、誰かが通れるかもしれない。
ダリオが、案内人記録票を見ながら言った。
「ニコが気にしてました。自分の声かけが遅かったんじゃないかって」
「ニコさんは悪くありません」
リディアはすぐに言った。
「ただ、裏道側にも案内人が必要だとわかりました」
「人員が増えるな」
「はい。だから、毎日ではなく試験日を区切ります。裏道側の立ち位置も確認しましょう。近づきすぎると怖がらせるかもしれません」
「そこも記録か」
ロッソが言う。
「はい」
「何でも記録だな」
「必要なことだけです」
「その返し、前も聞いた」
ロッソは少し笑った。
会議の終わりに、リディアは新しい項目を提案した。
音環境確認欄
案内時刻中に、急な大声があったか。
店先の滞留によって声が大きくなったか。
荷馬車の合図が聞こえたか。
利用者が声に反応して足を止めたか。
バスティアンは「役人くさい」と言った。
ロッソは「声の記録なんて変な話だ」と言った。
だが、誰も不要だとは言わなかった。
それだけで十分だった。
宰相家へ戻る馬車の中で、リディアは少し疲れていた。
今日は、言葉が難しかった。
酒場を責めずに、酒場の声が妨げになることを伝える。
荷運び人を責めずに、荷馬車の声が人を引き返させたことを伝える。
案内人を責めずに、裏道側案内不足を記録する。
誰も悪者にしないまま、何が起きたかを消さない。
それは、とても神経を使う。
「疲れたな」
アルベルトが言った。
「はい」
「今日はよく言葉を選んだ」
「選べていましたか」
「ああ」
「でも、少し怖かったです。“声も道を塞ぐことがあります”と言ったとき」
「言う必要があった」
「はい」
リディアは窓の外を見た。
西区の通りは、まだ夕刻前の顔をしていた。
この道が夜になれば、声と足音で変わる。
「声も道を塞ぐ」
リディアは小さく呟いた。
「小冊子には?」
「まだ早い」
「ですよね」
「だが、報告には入れろ」
「はい。夜間通行を妨げる音環境として」
「それでいい」
少し硬い。
でも、今はその硬さが必要だ。
夜、温室でリディアはエレノアへの手紙を書いた。
今日は私的な手紙だからと、アルベルトに許された。もちろん、長くならないよう見張られている。
――エレノア。
西区の試験で、一人、施療院へ向かう途中に引き返した方がいました。
原因を聞くと、酒場そのものではなく、突然の大きな声に体が反応したのだとわかりました。
声も、道を塞ぐことがあるのです。
でも、声を出した人を悪者にすればよいわけでもありません。荷馬車の合図や酒場の笑い声にも、それぞれの理由があります。
大切なのは、誰が悪いかを急いで決めることではなく、何が妨げになったのかを見ることなのだと思います。
そこまで書いて、少し手を止めた。
これは、エレノアにも関係がある。
父の声。
家の声。
社交界の声。
それらも、人の道を塞ぐことがある。
リディアは続けた。
――人の声も、同じかもしれません。
誰かの言葉が、こちらに向けられたものではなくても、足を止めてしまうことがあります。
そのとき、自分を臆病だと責める前に、何の声が妨げになったのかを見てもいいのだと思います。
書き終えると、アルベルトが少し離れた場所から言った。
「長くなっている」
「あと一文だけ」
「一文だけだ」
リディアは微笑み、最後に書いた。
――あなたが考える時間を持てたことを、私はとても嬉しく思っています。
封をして、息を吐く。
温室の中は静かだった。
外の夜の音は、厚いガラス越しに少しだけ遠い。
「旦那様」
「何だ」
「この温室は、静かですね」
「ああ」
「でも、西区の裏道の静けさとは違います」
「人がいるからな」
リディアは顔を上げた。
「人?」
「君がいて、私がいる。エマも近くにいる。静かでも孤立していない」
その言葉に、胸の奥が静かに揺れた。
静かでも孤立していない。
そうか。
西区の裏道が怖いのは、静かだからだけではない。
孤立しているからだ。
リディアは、その言葉も心に留めた。
「また記録したくなりました」
「今日は駄目だ」
「わかっています」
「本当に?」
「本当に」
アルベルトは少し疑わしそうに見たが、それ以上は言わなかった。
リディアは茶を飲み、ブルースターを見た。
声も道を塞ぐ。
静けさも、人を孤立させる。
西区の夜は、まだまだ知らないことばかりだ。
けれど、一つずつ見えてきている。
責めるためではなく、次に通れる道を作るために。




