12
扉の向こう、すぐ傍まで声の主は近づいてきた。アイリーンは、確証を持って勢い良く玄関の扉を開いた。
扉を開けた先にいたのは、やはり思った通りの人物だった。
もう会うことなんて無い、王子様がこんな田舎にもう足を運ぶことなんて無い。昨日、そう思い、一抹の寂しさを感じながらも別れを告げたその人物。
「アイリーン」
こちらに気付き、笑顔で手を振るその姿に、アイリーンは口を手で押さえてただ驚いた。期待していなかった訳では無い。それでも…もう会うことなんて無いだろう、そう思った翌日にこうしてまた会えるとは思っていなかった。
今日のライナルトは、紺色に金の糸で王家の紋章を刺繍されたケープを羽織り、その下には白地に金色のボタンが施されている上着と、黒のズボンを穿いている。腰から下げた剣は、昨日と同じものであるのに…今日はその服装からか、輝かしいまでのその剣も違和感が全く無い。
ライナルトの周囲に控える護衛の騎士は、少し鋭い目でアイリーンを見ていた。睨まれるようにして見られている、その理由にアイリーンはすぐに思い至った。
今日のライナルトは、王子様なのだ。
昨日のように軽口を言えた相手では、無いのだ。
アイリーンはゆくりと頭を下げた。
ライナルトがすぐ傍にやって来ても、アイリーンが顔を上げることは無かった。その許可を得ていないからだ。
下げた視界の中に、ライナルトの靴が入った。
履き古されたブーツとは違い、銀の金具が施されている上等のブーツだ。
「アイリーン」
そっと頬に触れる手の感触に、アイリーンは戸惑うことしか出来なかった。
「らしくない」
笑い声が聞こえてきて、思わず顔を上げると…そこには、昨日と変わらない笑顔のライナルトがいた。
服装は違えど、ライナルトはライナルトだ。態度も何も変わらない。
「…ライナルト」
その名を口にした瞬間。
ライナルトの傍に控えていた騎士の一人が一つ、咳払いをした。
「殿下の名を呼び捨てにするなど。礼儀を弁えて下さい」
そう言われ、アイリーンは改めて思い知らされた。親しみやすいと思っていたが、やはりライナルトはこの国の王族なのだ。
身分が違い過ぎる。ライナルトがあまりに普通に接してくるので、そのことを、忘れてしまいそうになる。
甘えているだけだ。自分とは違う世界の人なのに。
アイリーンは慌てて再び頭を下げた。
「……せっかく、名前を呼んでくれたのに」
ライナルトの苦笑いに、隣に控えていた騎士は困惑の表情を浮かべた。
「彼女は、私の大切な人だ。だから、そんなことで咎めるような真似はしないでくれ」
「申し訳ありません」
「構わない。少し彼女やこの家の方と話がある。君は一度、馬車に戻ってくれ」
「分かりました」
頭を下げたままのアイリーンの傍で、ライナルトと騎士がやり取りをしている。
ライナルトの口調は、先日とは全く異なっていた。自分のことを「私」と呼ぶし、その口調もどこか堅苦しいものだ。目の前にいるライナルトが、また少し遠くなっていく。
騎士の足音が遠ざかっていくのが聞こえても、アイリーンは頭を上げることが出来なかった。
その様子に、ライナルトが小さく溜息をついた。
「ごめん。顔、上げて」
そう言われても…アイリーンはまだ顔を上げることが出来なかった。
たった一言、名を呼ぶことも出来ない。
思い知らされた身分の違いに、胸が苦しい。
今、自分は酷い顔をしているのだろう。
それを見られるのが嫌だった。
「アイリーン」
優しく真綿に包まれるような、温かな感触。
額に押し付けられたのは、ライナルトの肩だ。
抱きしめられているのだと分かり、アイリーンは凍りついたように動けなかった。
「アイリーンは、俺のことを…身分なんて関係なく、一人の人として接してくれた初めての女性だ。そういう所に、惹かれたんだ」
抱きしめられた腕の力が少し強くなる。
またからかわれているのだろうか、そう思っても、その腕から逃れることが出来ない。
「だから、アイリーンは…今まで通り、俺に接してくれ。今更、身分なんて気にして、変に壁を作られると悲しいから」
身分の違いに、ライナルトが遠い存在に感じてしまっていた。
それはもしかすると、ライナルトも同じなのかもしれない。
ライナルトの言葉に応えるように、アイリーンはそっとその背中に腕を回した。




