13
「アイリーン?」
家の中から近づいてくる自分を呼ぶ母の声と足音。それが耳に届き、アイリーンは思わず、ライナルトの腕から逃れた。
「…残念」
離れ際に囁かれたライナルトの言葉に、少しだけ頬が熱くなる。後ろからやって来る母に、それを悟られないように、アイリーンは慌てて顔を取り繕った。
「アイリーン、いきなりどうしたの…あ、あら…ライナルト殿下…またお越し頂けるなんて」
娘とその先に立つ人物にシャレルは戸惑いながらも、深々と頭を下げた。
「引越しのお手伝いに参りました」
「殿下自ら足を運んで頂けるなんて、思いもしませんでした。感謝致します」
優雅な所作でシャレルはライナルトに頭を下げた。母が昔、随分と熱心に貴族のマナーを学んでいたと聞いたことがある。その時の母は男爵家の養子だったのだから、貴族なのだから、マナーを身に着けたのだろう。
自分はただの庶民だ。田舎娘だ。だから、いくら今から男爵令嬢という身分になると言っても、マナーなんてものは必要無いと思っていた。
男爵令嬢になったからと言っても、何も変わらない。
将来も。普通の男性と結婚でもして、普通の庶民らしい生活を続けるものと…今でも思っている。
それでも、少しだけ…母のように優雅に振舞えたら、と思った。
そうしたら、先ほどのようにライナルトとの身分差を弁えていないと窘められることが無くなるのだろうか、と。
そこまで思い至り、アイリーンは少し顔を赤らめた。
これではまるでライナルトの為、貴族としてのマナーを身に付けたいと思っているようではないか。
アイリーンはそんな思考を打ち消すかのように頭を振った。はあ、と息を一つつき、母とライナルトに向けて顔を上げた。
二人は微笑みを交わしながら、話を続けていた。
「申し訳ありませんが、夫はまだ帰っておりません」
「大丈夫です。何もお伝えしていませんでしたから。先に出来ることから始めて構いませんか?」
「ええ、殿下。ありがとうございます」
母が再び頭を下げると、ライナルトが後方に控えていた騎士に向けて片手を上げた。
それが合図らしく、騎士たちが荷馬車の中から木箱や布を運び出していく。
「運び出せる物は、この者たちに任せて下さい」
「分かりました」
騎士たちが家の中へと木箱を運び込んでいく。それにシャレルが続き、家の中から何かを指示するような声が聞こえてきた。
家具も何もかも、自分たちで運び出すつもりでいたアイリーンは少し呆気に取られた。
呆然とその様子を眺めていたが、やがて自分も手伝わなければと、足を家に向けた時だった。
「アイリーン」
ライナルトに腕を掴まれ、アイリーンは複雑な表情を浮かべる。
「…私も、手伝わなくちゃ…」
そう言い、腕を振り払おうとするが、ライナルトは決して離してはくれなかった。
「任せておけば良いよ。それより…昨日、言ったこと覚えてる?」
「言ったこと…?何…?」
「毎日でも通うって。それで、キスしても良いって思えたら許してくれるって話」
「…本当に、王子様がこんな田舎に通うなんて、馬鹿みたい」
「父や宰相を説得したんだ。馬鹿みたいかもしれないけど…俺には、そんな馬鹿なことをしてでもキスしたい相手がいるんだ」
ぐい、と引き寄せられ、再びアイリーンはその腕の中に閉じ込められた。
「許して、くれる?」
ライナルトの指が、アイリーンの唇をそっと撫でた。徐々に近づくその距離に、アイリーンは顔を背けた。
「まだ?」
「い、一日だけじゃない…」
「それもそうだ。明日も来る。明後日も」
「王子様、なのに?」
「身分なんか関係ない。アイリーンもそうだろ?」
関係無い。
そう言いたいが、関係無いものとは言い切れない。
こうして普通に話しているのも、周りから見れば無礼でしか無いのだろう。
「…でも、やっぱりライナルトは…」
この国の王族で、いくら男爵令嬢になると言っても…その身分差は大きなものだ。
自分のような娘を相手にしてはいけない。して欲しくない。
その思いを言葉にしようとしたが、思うように言葉が続かなかった。




