振り回されるのも、悪くない。
「えっ、君島さん、実家に帰ったの?」
次の日の休み時間。肇はゆ子と廊下の窓に寄りかかりながら雑談をしていた。
みいあがみゅもにみゅ星に帰ったことをオブラートに包んで伝えると、ゆ子は心底驚いた様子だった。
「ああ、なんか遠いところらしくて、いつ帰ってこれるか分かんねえって」
「えー。マジで? せっかくKosMos続けられるのに、残念すぎるでしょ」
「まあな……」
いつもならば、未羽鹿公園の辺りで捕まって、嫌々ながらも一緒に登校する朝だった。
いつもならば、教室まで迎えにきたみいあと、仕方なく昼食を共にする昼だった。
いつもならば、ピアノに並んで腰かけて、歌の猛特訓をする放課後だった。
いつもならば、二人っきりで、下校する夕方だった。
でも今日からは違う。
肇の隣にみいあはもういない。
この一ヶ月ほど、鬱陶しいくらいどこに行くにも何をするにも一緒だったのだ。
寂しくないわけがなかった。
何だか胸にぽっかりと、大きな穴が空いてしまったみたいだ。
しかしみいあがいない日常が普通なのだ。
これが本当の日常なのだ。
ちょっと非日常に迷い込んでいただけで、これからはこんな日々がずっとずっと続いていく。
だから寂しがっている場合ではない。
未羽鹿公園を覗いてみても、みいあがいないことに落胆している場合ではない。
「はじタン、寂しそうだね」
「は、はあ!? 俺は別に……」
「私もライバルいなくなったら、張り合いなくなっちゃうなー」
「最後の最後でランキング追い越しといて、勝ち逃げかよって感じだな」
「……うん。まあ、そっちも、だけどね」
そっちもって、他に何のライバル関係にあるのだろうかと肇は不思議に思う。しかしゆ子はそれ以上語らなかった。
「でも、ま。頑張るかー! コミュも続けられることだし! クイーンドリームでも目指しちゃおうかな!」
「おお、目指せ、目指せ。全力で応援するわ」
「ホント? 君島さんにやってたみたいに付きっきりでレッスンしてくれる?」
「えっ!? いや、まあ。名香川がしてほしいなら……」
「ふふっ、じゃあお願いしちゃおっかなー。手取り足取りよろしくねっ」
そう言って、肇にぐいっと顔を近付け微笑むゆ子。第二ボタンまで外したワイシャツの隙間からちらりと見えたのは、何とも魅惑的な谷間だった。
そんな小悪魔ゆ子の言葉と仕草で、肇の脳内ではクイーンドリームになるためのレッスンではなく、夜の大人のレッスンが繰り広げられ始めた。
ベッドの上に横たわるのは、真っ白なシーツだけを纏ったゆ子。「手取り足取りよろしくね……」と艶っぽく呟くゆ子に、肇の我慢は限界だ。
まるでルパンダイブのようにベッドに飛び込み、今、夜の大人のレッスンが幕を――。
「浮気しないって言ったじゃないですかー!!」
「いやっ! これは! ちがっ! …………えっ!?」
突然感じた大量の視線。
それと同時に聞こえてきたのは、肇が才能を感じたあの声だった。
振り返ると、怒り心頭といった様子で震えるみいあがそこには立っていた。
昨夜別れた時と同じ白いワンピース……いや、泥やら草やら何やらで汚れまくっているため、もう白には見えないワンピース姿だった。髪も顔も、キャリーケースまでもがぼろぼろで、どんな戦いを繰り広げたらこんなことになるのか肇には分からなかった。
「お、お前、帰ったんじゃなかったのかよ!」
「うっうっうっ! 乗車券買えなくって降ろされたんですよ!」
「は、はあ!?」
「みいあ、クレジットカードしか持ってなくって! 現金払いのみって言われて!」
「それであそこから歩いて帰ってきたのか!?」
「そうですよ! 森に迷い込むし! 沼にハマるし! 散々でしたよ!」
だからこんなにボロボロなのかと肇は納得した。
それにしても自転車で一時間はかかる道のりを歩いて帰ってきただなんて、駅で始発を待てばいいのに本当に馬鹿なやつだ。
「そんなことよりNASA! みいあがいないと思って抜け駆けなんて、最低ですよ!」
「あっ! 君島さん、おっかえりー。何で帰ってきたのー?」
「みゅー! あいかわらずムカつくやつです!」
ゆ子の態度にイライラを募らせるみいあだったが、すぐに何かを思い出したようにポンと手を打った。
そして勝ち誇ったような嫌みな表情でゆ子に詰め寄る。
「みゅっふっふ。そういえばみいあも抜け駆けしちゃったんでしたー。ごめん遊ばせですー」
「は? 何が? 抜け駆けって?」
ゆ子が不満げな表情を浮かべる。
肇はみいあが何を言わんとしているのかを一瞬で理解した。
昨晩の出来事がフラッシュバックする。瞳を閉じるみいあの愛らしい表情とか、唇の柔らかさとか、良い匂いとか、全てが鮮明に思い出されて肇の体は熱くなる。熱でもあるんじゃないかってくらい顔が赤くなっているのが、自分でも分かった。
肇はこれ以上みいあが何も言わないよう羽交い締めし、口を押さえた。
「むーっ! むむむむーっ!」
「何でもないから! 何でもないからな、名香川っ!」
「ちょ、何、はじタン、その反応! 顔真っ赤なんですけど! 待って! 何があったの!」
「さ! そろそろ午後の授業が始まるかな! よし! 勉強だ! いっぱい勉強しよう!」
「気になるし! 教えてよー!」
羽交い締め……というよりももう後ろから抱っこするような形になりながら、みいあを連れて肇は走り去る。ゆ子は追いかけては来なかったが、後で質問責めに合うだろうことは覚悟しておかねばならない。
体育館の裏側までみいあを抱っこしながら走ってきて、肇は一息吐いた。
「こ、ここまで来れば……」
「昨日の続き、します?」
みいあが唇に手を当て、艶っぽい表情でそう言うものだから、肇の全身の血液はドクンと波打った。何とか思春期男子の欲望を押さえつつ、怒鳴る。
「ちげーわ! お前が名香川に言おうとするから!」
「みゅふふ、もう言わないですよ」
みいあは肇に背を向け、後ろで手を組みながらそう言った。
「や、やけに素直だな」
「はいっ。だって……」
振り返ったみいあが見せたのは、舞台の上で見せるものとはまた少し違った表情で。
大衆に向けたものではなくって、肇のためだけの、とびっきりの笑顔だった。
「二人だけの秘密の方が、ドキドキするでしょ?」
ドクンと大きく心臓が飛び跳ねるのを感じた。それからドキドキドキと動悸が止まらなくて仕方なかった。
テレパシーンの視線のせいかと思ったが、いつの間にか効果は消えている。
だったら何故、こんなに胸が苦しくなるのだろう。
もしかして。
もしかしたら。
少しだけ。
本当に。
少しだけだけれど。
自分はこの君島みいあという少女に惹かれて――。
「さてさてはじめちゃんさん。次は二人でどんな秘密を作っちゃいましょうかね。手始めにホテルなんかに一緒に行ってしまって……そんなっ! ダメですよ! はじめちゃんさんのえっち!」
じゅるじゅると涎を垂らしながら何やら一人でやらしいことを想像しているみいあ。
自分のことは棚に上げて、肇は一言。
「やっぱねえわ」
これからまたこんなみいあのはちゃめちゃに付き合っていかないといけないのかと思うと憂鬱だ。
憂鬱なはず、なのだ。
でも体は正直で、笑顔になることをやめられなくて、みいあから顔を逸らした。
こんな肇を見たら、みいあはきっとうぬぼれるだろう。
本当は行かないでくれて嬉しかったことだけは、絶対に心の内に秘めておこうと思った肇なのだった。
気を引き締めるようにパンパンと頬を叩き、肇は言う。
「今日から当分また個別レッスンだ。一人で歌えるようになるまで徹底的に教え込むからな!」
「えっ? ホテルで? 夜の大人のレッスン?」
「第三音楽室で! 徹底的に歌のレッスン!」
「みゅっふっふ。良いでしょう! その代わり、みいあが完璧に歌えるようになったら夜の大人のレッスンをしていただきますからねっ!」
「ぜってえ嫌だから!」
これからもみいあに振り回される日々が続くのだろう。
でも最初に感じた、高校三年間の終わりみたいな気持ちはもう全くなかった。
振り回されるのも、悪くない。
一人で過ごすはずだった高校三年間が、みいあが現れたことにより劇的に変化した。
何だかこれから楽しくなりそうな、そんな予感で肇の胸はいっぱいだった。




